すれ違うもの④
そうやってハルの状況が鮮明に読めてから、俺はすぐに自分の世界へと戻っている。友に去られたことに不貞腐れているわけではない。
もっと単純に、潮時であった。
仕事の周期を鑑みても、チキュウへの滞在時間を考えても、引き際だったのだ。そうしてアグニスに戻れば、自分の中の感傷も薄れていくのを感じる。やはり、こちらでは緊張感を携えているのが通常となっているようだ。
それが苦しいとは微塵も思わない。むしろ、普段が戻ってきたと、収まるところに収まったような落ち着きがあった。俺には、こちらのほうが合っている。
そうして一息吐いている間に、仕事の依頼が舞い込んできた。ジョーカーの名には信頼が乗っかっている。少々の休暇不在程度では、問題にはならない。
そもそも、スパイとしての任務中は連絡が取れないものだ。依頼側もそれは理解している。そうした原理を知らなければ、スパイと名を繋ぐことはできない。
「今回は、暗殺を依頼したい」
こうした特殊な任を与えることもあると分かっているのが、依頼人というものだった。久しぶりの純然たる裏方業務には、背筋がピンと伸びる。
「畏まりました」
このように難易度の高い任務につくのは久しぶりだ。日頃の任務が簡易であると言っているわけではないが、暗殺はスパイの任務の中でも取り立てて特殊だ。
元来であれば、スパイにそのような任が与えられることは珍しいことであったという。しかし、スパイの潜入技術は、暗殺術と非常に親和性が高い。ゆえに、いつのころからか、スパイに暗殺の業務が与えられるようになったのだ。
ジョーカー家は、その歴史の中で、暗殺を得意とした家系として名を馳せたことがある。今もその技術は引き継がれ続けているのであるから、俺にそのお役目が回ってくるのも必然と言えた。
これが初めてのことでもない。俺は淡々と暗殺用の魔道具を用意して、準備を整えた。
迷うことはない。隠蔽の魔道具とは別に、暗殺用としての毒物や魔道具を身につけていく。こうした魔道具は、通常の雑貨店でも売られていた。しかし、とても手が出ないような高価なもので、裏側へ仕舞われている。
つまり、ツテがなければ商品に出会えることもなければ、購入することも叶わない。偶然にも辿り着いたとしても、金額の壁がある。いわば、スパイ専用の御用達にも近いものだ。
そして、それを存分に使えるスパイというのは、そう多くはない。代々の結びつきもさることながら、現当主の実力も加味される。
当然だろう。没落しかねないスパイというのは、その身につける魔道具が潜入先に研究されかねないという危ない立ち位置となるのだから。
魔道具の製作は、個人の資産だ。一般普及しているものはその限りではないが、高位の魔道具になればなるほど、高位の術者が研究に研究を重ねて開発している。その分、高価であるし、秘匿性は高くなるのだ。
当然、潜入した先で他者に奪われるなどという失態は、今後の魔道具の売買に多大な影響をもたらす。扱いには、万全を期す必要があった。
こうした高級品である魔道具と比べれば、ハルに渡した魔道具はまだ使い捨てで安価な品だ。連絡するのに便利なものではある。世界すら飛び越えて文字が届くのであるから、その性能は折り紙付きだ。
貴重品であることも変わりはない。だが、ハルに手渡しても問題はないものではある。それですら、世界を越える性能を持つのであるから、高級品ともなれば、より性能は高くなるのも当然と言えるだろう。
俺はそれを惜しげもなく装備して、武器も身につけた。実際に、凶器でとどめを刺すことは少ない。暗殺であるのだから、少しでも自分へと繋がる証拠は消し去る。
そして、刃物で行う暗殺ほど杜撰なものはない。誰かが殺した、と明白になるのであるから杜撰以外の何物でもなかった。秘する手段が優先されるのは自明である。むしろ、武器や凶器は、自分の身を守るための手段だ。
護身用を身につけて、俺は宵闇に紛れて、わが家から飛び立った。
暗殺のときは最初から身なりを黒一色に染めて進む。無論、これは人それぞれのやり方があるだろうが、俺は最初から最後まで周到に気を巡らせていた。暗殺に、気が抜けるときなどあるはずもない。
裏道をすらすらと抜けていく。隠蔽の魔道具を展開しているとはいえ、人目につかない道を行くのは当然だ。
そうして、標的のいる屋敷へと辿り着く。
今回は短期間での任務完了が求められた。なので、下働きや何らかの余人として近付いて距離を詰める方法は採れない。最初から、真っ正直に命を狙うしかなかった。緊迫感が高まる手段だ。
あまり好ましい注文ではない。ただ、それに文句を言うつもりもなかった。そんなことをしない程度には、スパイとしての矜恃がある。必ず成し遂げるという覚悟も揺らぐつもりはない。
屋敷の中を、身を潜めて移動する。
護衛が立っている部屋が主の部屋であるとすぐに分かった。護衛というのはその身を守るためのものであると同時に、そこに大事なものがあると詳らかにするものだ。
俺は護衛のそばを通る側仕えの影に隠れて、室内へと潜入する。
隠蔽の魔道具が剥がされる可能性はゼロではない。しかし、その魔道具を準備するのは容易でなかった。そして、それは使い捨てであり、なおかつ一重しか剥がすことができない。
隠蔽の魔道具にも、透明化と同化の二種があった。自身の存在を消すものと、自身を景色へ溶け込ませるものだ。それを二重掛けすることで、剥がされるのを回避することができる。
これはジョーカー家が代々受け継いできた利用法らしい。二重掛け用の魔道具でなければ、二重掛けはできないのだと聞く。
魔道具の能力についての知識は飲み込んでいるが、残念ながら魔道具の成り立ちまでは理解できなかった。それは術者として魔術を使えなければ、理解できるものではないらしい。
そのため、重ね掛けや道具の有効的な使い方は、引き継がれていたものを参考にしている。中には自分で運用を決めたものもあるが、この隠蔽については代々の知識だった。
それを使って入り込んだ室内は、寝室である。天蓋付きの寝台は、美しく整えられている。標的たる女性の趣味であるのか。淡い桃色の寝具が揃えられていた。主はまだ姿がなく、側仕えが寝台を整えている。
となれば、主人がやってくるには、今しばらく猶予があるだろう。側仕えは整えれば、一度部屋を出るはずだ。一人きりになれる機会を待った。
利用する魔道具は、遅効性の毒物を与えるものだ。薬とは違い、その場に置いて、空気に散布するものだった。毒気は強いが、散布時間は長くないため、相手の姿がないうちから起動させるわけにはいかない。
俺はマスクの上に、レッグウォーマーを伸ばして二重に整える。息苦しさは考えない。対毒の効果を持つ魔道具のネックレスをつけているが、先手を打つに越したことはなかった。
隠蔽の魔道具を貼り付けた散布用の魔道具を取り出す。香水の瓶をかたどる魔道具は、そのまま置いておいても目立たないかもしれない。しかし、発見は遅れれば遅れるだけありがたいものだ。
隠蔽の魔道具の持続時間は、一日だった。貼り付けると同時に発動されるため、残りは二十時間というところだろう。それだけの時間見つからなければ十分だ。
散布の魔道具の起動は、蓋を開けてから三十分しかない。起動して三分後から徐々に毒気は濃くなっていく仕様だ。その短い期間に姿を消す必要がある。
出ていくのは、扉からだと決めていた。こういう屋敷の主には、必ず側仕えがつく。実際に動いているものを確認できたのだから、ついてくるのは確実だ。それが出ていくのを追いかければいい。たったそれだけだった。
こうしたお屋敷の中というのは、階級が上がれば上がるだけ格式が尊重される。その分、習慣を把握しやすい。潜入する身としては、ありがたいものである。それにならって行動すれば、失敗することはないと言っても過言でもない。
俺はじっと息を潜め、そして、そのときを迎えた。
入ってきた主の身支度を側仕えが整える間に、散布の魔道具を起動させる。そのまま扉のそばに待機して、難なく側仕えとともに寝室を後にした。
後は、潜入したときと同じ道筋で抜け出してしまえば終了だ。あまりにもあっけなく抜け出せたことに、ほんの少し肩の力が抜ける。
しかし、すぐに息を整えて、綺麗に整えられた庭園に身を隠した。敷地内から出るのは、標的が死亡したことを確認してからだ。
主が亡くなるのであるから、気がつけば屋敷はざわめくだろう。それを様子見して帰れば、任務は終了となる。
主が見つかるのは、問題がなければ翌朝のはずだ。しかし、そこに絶対はない。その確認のためには、忍んでいるしかなかった。一晩くらいなら、徹夜したところで集中力が途切れることもない。
標的である女主人の情報は、収集が認められていなかった。一切の情報は与えられず、調査することも禁じられている。
暗殺の場合は、スパイであっても情報を集めないことも多い。禁止命令を受ければ、それに粛々と従うしかなかった。俺はただ、命令を遂行するだけの存在だ。
たとえ標的がハルと同じくらいの女の子であっても、命令を受ければ暗殺する。
淡々と、間違いなく、確実に。
残忍なことは自覚している。しかし、それはそれだ。任務である以上、こなすことに躊躇はない。これが俺の仕事であり、これが俺の日常だ。肌身に馴染んでいる。やはり、こちらの世界の常識が俺のものだ。
どんなにハルに馴染もうとも、心の底から変化することはない。
自分の手を見下ろした。暗殺の任務を請け負ったのは初めてではない。俺の手は薄汚れている。表側の人間でないことは厳然とした事実だ。
ハルがスパイのバイトのようなものをしているとしても、それはこちらとは在り方が違う。
チキュウにどんなに慣れたとしたって、チキュウの人間になるわけではない。どんなに友人だと思ったところで、同じ世界に馴染むわけではなかった。根本的なところは、どこまでいっても交わりなしない。
これでよかったのだろう。俺はハルとずっと関わっていけるような人間ではない。
所詮は、スパイだ。これ以上関係を続けずに済んだことは、幸いだった。
自分を慰めているのも、励ましているのも、言い訳を組み立てているのも分かっていた。それでも、交わらない存在であったことも事実だ。
そして、このように任務の最中に思考を巡らすような存在は、歓迎できるものではない。それは、油断というもので、してはならないものだ。
やはり、これでよかったのだろう。
俺はそっと吐息を零して、任務に戻った。
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