すれ違うもの②
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湊人君から詳細な連絡が届いたのは、電話をしてから四日は経ったころだ。その間、とにかく落ち着かなくてそわそわした日々を送っていた。
そんなものだから、カインさんから預かった魔道具のインクを倒してしまうのだ。大慌てでボトルを持ち上げてみたが、中身は空になってしまっていた。
私は愕然として、頭を抱えてしまった。人様にもらったものを。それも、魔道具だなんて、補填のできないものをぶちまけてしまった。
カインさんは、まるで気にしないだろう。私に譲った時点で、どのような扱いをしようとも私次第だと割り切るはずだ。そこに拘泥するほど器の小さな人ではない。だから、ぶちまけたと言っても、特に気にもせずに次を渡してきかねない。
しかし、こちらにしてみれば後ろ暗いものだ。いつかなくなることは分かっているし、どんなふうに使おうと、なくなる事実は動かない。だが、気になるものは気になるし、なんだかがっくりきた。
これは単純にインクをひっくり返してしまったということもあるかもしれない。お皿を割ってしまった、そんな取り返しのつかない感じだ。
その気分が更に落ち込んだのは、インクを吸い上げているときに魔道具の紙片に文字が浮かんだからだった。
『予定通りにチキュウに行くことは難しいかもしれない。更に一週間ほど余裕を持ってくれると嬉しい。金曜日の夕方としてもらって構わないので、また何かあったり仔細が判明したりすれば連絡する』
そう浮かんだ見慣れたカインさんの文字に慌てる。予定の変更に返事ができないのはまずい。
インクの瓶の底を血眼になって見つめてみたが、隅のほうに液だまりのように色が残っているばかりだ。吸おうにも吸えない。
どうしよう。
カインさんがこっちに来るのはタダじゃない。会えないとなると、一体どれだけの負債を与えてしまうのか。いくら私に会いに来ているだけでないとしても、時間を空費させてしまう。
来週の金曜日の夕方に駅に行って、それだけで会える保証はない。
ざっと血の気が引いた。どうしたらいいのか分からなくて半ばパニックだ。湊人君の連絡を待っていたそわそわはあっという間に消え去って、カインさんへの心配に塗り変わってしまった。
でも、どんなに慌てたところで、代替案など思い浮かばない。こんなことなら、遅くなると分かっていても、連絡先も交換しておくべきだった。どんなに言っても、やっぱりもう取り返しはつかない。
そうして連日懊悩に狼狽えているうちに、湊人君からも連絡が来てしまった。
明日の十三時。カインさんとはぶつからない土曜日の待ち合わせに、不都合はない。スマホひとつで届くメッセージに、私は肩を落とす。
もちろん、湊人君とのやり取りは嬉しい。どうしようもなくなっているにもかかわらず、心は無条件に浮上する。落ち込んでいたのがただのポーズではないのかというほどあっけない。
同時に、カインさんへの連絡がずっと頭に引っかかり続けている。感情がごちゃ混ぜだ。
それでも、どうしようもない。私はどうしようもないままに湊人君との待ち合わせに向かった。
私服姿の湊人君は、まだまだ見慣れない。
夏らしく、Tシャツにチノパン姿。殊更に、オシャレしているってわけでもないのだろう。けれど、かっこよくて眩しくて、他の何もかもが真っ白になってしまう。げんきんにも、その間カインさんへの引っかかりは丸きり、忘れ去っていた。
「ごめん。待たせちゃった?」
「いや、俺が早く来ちゃっただけだから、気にしないで」
まるでデートの待ち合わせみたいな会話は、それ以上気恥ずかしくて続けていられない。愛想笑いで会話はたち消える。
「それじゃ、行こうか」
「えっと、どこに?」
行き先は指定されていなかった。首を傾げると、湊人君はにこりと笑う。そつのない笑みには、ドキドキと鼓動が高まった。
何気ない表情に翻弄されているのは、まだ会話もままならなかった一年生のころから変わらない。カインさんには慣れたと思い込まれていたけれど、心情的にはちっとも慣れていなかった。
「話がしたいから、ファミレスでもいい?」
「うん」
他の返事なんて、思い浮かびもしない。
話せないわけではないし、表面的には随分と気軽にもなった。それでも、緊張はしているし、カインさんにするように粗雑にはいられない。どうしたって、ハラハラドキドキして、態度に気をつけてしまう。
カインさんが、あまりにもナチュラルなのだ。
意見に反対する気はないし、代案もない。私は湊人君の言葉に相槌を打つばかりになりながら、その横を歩いた。
湊人君は、歩幅を合わせてくれている。ごく自然にそうしてくれるのは、飛び抜けて嬉しい。カインさんもそうしてくれていたな、と思い出すのは不思議なものだ。
「今日は来てくれてありがとな」
「ううん。暇だったし、湊人君と話せるのは楽しいから」
「ありがとう。ハルちゃんは聞き上手だから、話しやすいんだよな」
「そうかな?」
「そうだよ」
初めて言われた評価に、緩く首を傾ぐ。
湊人君はまたぞろ笑みを浮かべた。いつも笑顔でいる湊人君は和やかだ。
カインさんは、いつも何を考えているのか分からなかった。仏頂面ではないけれど、無表情ではあった。まったくの無表情ではない。時々、ふっと頬が緩んだり、目元が和らいだり、眉が動いたりする。
パフェを食べているときが一番顕著で、とても分かりやすかった。全身が訴えかけてくるほどあけすけなわけではない。けれど、普段が普段なだけに、僅かな変化が明瞭だった。
口数が多くないカインさんが、豊かな表現を使って感想を伝えてくれるのだから、より分かりやすい。瞳もキラキラときらめきを湛えていた。ちょっと可愛いと思ってしまったのは内緒だ。
辿り着いたファミレスで、湊人君と向き合って座る。二人きりであることを意識して、そして、カインさんと目線の高さが違うことに気がついた。
連絡の件が引っかかっているからか。ファミレスという場所柄か。何かとカインさんのことを思い出していた。
ドリンクバーと、一緒につまめるポテトを注文する。湊人君は当たり前のような顔をして、私の分のドリンクも持ってきてくれた。
気が利くと言うか、気を遣われていると言うか。そう思って、いちいち考えてしまうのがよくないのだろう。それが意識になって、坂道を転がるように調子を失ってしまいそうになるのだ。
「……ハルちゃんはさ、しおちゃんと仲良いよね」
そろりと窺うように。けれど、意を決したかのような硬い音で、湊人君が口を開く。一瞬、耳鳴りがしたような気がして、話が上手く頭に入ってこなかった。
「ハルちゃん?」
テーブル越しに覗き込まれるように顔が近付いてきて、我に返る。頭の芯が痺れるようだった。
「あ、えっと、うん。しおとは、中学のころから一緒だから」
「しおちゃんの好みとか、分かるかな? ていうか、彼氏、いるの?」
つらつらと淀みのない音ではない。距離を測るかのような、そんな音だ。
しかし、脳が回っていない私にとっては、怒濤の質問のように感じた。反応が悪くなってしまうほどには、処理はべらぼうに遅い。
「彼氏は、いないと思うよ」
「マジで?」
「うん」
頷く振りをして、視線を下げた。期待に溢れた瞳など、見ていられない。
「……俺、って、しおちゃんの好みじゃないかな?」
「えっと、どうだろう?」
おどおどしてしまうのは、しおの好みを把握していないからじゃない。
キャラメル色をしたゆるふわボブに、ぱっちり二重。派手な見た目の美人なしおは、湊人君を悪くは思わないはずだ。本格的な好みを知っているわけではないけれど、きっと悪印象は持っちゃいないだろう。
それでも、私は下唇を噛んで、曖昧な返事をした。
「好みを知らない?」
「あんまり。具体的な話をしたことはないけど、湊人君とは仲良くしてるんじゃないかな?」
湊人君とその友達の嶺君と、しおと私。遊びに行くときのいつものメンバーと呼んでもいいグループだ。
私も湊人君と仲良くなれたと思うけれど、であればしおも仲良くしているものになるだろう。嶺君とも仲良くなった自分のことを思えば、それくらいは当然だ。痛む胸をどうにか押さえ込んで、事実だけを伝えた。
淡泊なものだ。何の励みにもならないだろうと思ったが、湊人君には十分意味があったらしい。
その雰囲気が華やいだのが、目を逸らしていても分かった。テーブルの下に隠した手のひらが拳を握る。どうしようもない虚無が、胸を満杯にした。
二人が並ぶ姿を見たことがあるだけに、きりきりと胃が痛む。
「……脈は、ないかな?」
「それは、ちょっと、分からないかな」
「あ、そうだよな。ごめん、困らせて」
申し訳なさそうな言い方に、はっと顔を上げる。
湊人君は、言い方通りに、眉を下げていた。困らせて、と言いながら、湊人君も困っているようだった。そんな顔をさせたいわけじゃない。
私は条件反射のように、首を左右に振っていた。
こんな暴露をされているのに、フォローしようなんて、なんて馬鹿だろう。カインさんに伝えたら、いっそのこと叱ってくれるだろうか。
「こっちこそ、ごめんね。参考になるようなこと、何にも言えなくて。役に立たないね。せっかく話してくれたのに」
へらりと笑ったはずの頬が引き攣っているような気がする。気にしすぎだと信じたい。けれど、湊人君にもそう見えているのかいないのかも分からないから、笑みを引っ込めることはしなかった。
「いや、そんなことないよ。話せただけでいいんだ」
湊人君はそう言うと、分かっていたのかもしれない。
意図して役立たずなどと卑屈な言い回しをしたつもりはなかった。けれど、そう言えば、湊人君は私をフォローしてくれる。分かっていてやったのかもしれない。
なんて惨めで馬鹿みたいなことだろう。こんなやり方は、カインさんが教えてくれたものじゃない。こんな卑怯なやり方を言い出したりはしなかった。
カインさんは、効率主義者だと思う。端的な方法を示唆するし、それが成功するのが一番だと思っている節があった。感情を無視しているわけではないのだろうが、明確な手段を用いて近付くように、と。
だが、だからと言って、騙したり傷つけたりするような手段を提案したりはしなかった。もしかすると、私にそんなことをする勇気がないことを、カインさんは見抜いていたのかもしれないけれど。
それでも、そんな手法を使わなかったカインさんのことを私は信用している。それだけ手間暇をかけてくれた。応援をしてくれた。それに報いることができていない。そう思うと、ただでさえ沈んだ心にずしんときた。
そこから、湊人君が何を話していたのか。私はあまり記憶にない。
しおを褒めていたような気がするし、しおのことをたくさん聞かれたような気がする。私はそれに相槌を打つだけのマシーンと化して機械的に反応をしていた。それでも意に介さない湊人君の態度が、余計に胸を詰める。
私はとにかく疲れていた。少しでも心労を取り除きたくて、頭が受け取りを拒否していたのだろう。
湊人君を前にして、こんなにも早く離席したいと願ったことはないし、こんなにも陰鬱な気持ちになったこともない。
私にとって、湊人君は太陽みたいに輝いていて、ほっかりと胸を暖めてくれる存在だった。今だって、そう想っていることに変化はない。だが、だからこそ、私はどうしようもなく虚しくて、どうしようもなく逃げ出したくなったのだ。
そうして家に辿り着くと、私はすべての力を手放した。部屋のベッドまで進められたのは、根性でなければただの惰性だ。
ぼすんと、布団の上に身体を投げ出す。同じように、すべての憂いを投げ出すことができればよかったのに。そんな小器用なことができるはずもない。
私は無意味にぐるぐるとベッドの上を転がった。脳みそを物理的に回転させようとしているのかもしれない。馬鹿みたいなことを考えているのは、現実逃避だろう。
していたってどうにもならないし、心から相談したいときに限って、カインさんとの連絡手段は途絶えてしまった。自分でぶちまけたのだ。
愕然とする。
次、カインさんに会えるのは、まだ早くて一週間も先だ。そのうえ、私は返事をしていない。確実に会える保証はなくなっている。
「どうしよう」
……会って、この体たらくを伝えたら、カインさんは残念に思わないだろうか。一度でもそうよぎってしまったら、会うのが怖くもなってくる。相談したいのに、失敗したと知られるのは怖かった。
カインさんは、叱ったりはしないだろう。そんな無駄骨を折る人ではない。親切だけれど、冷静な人だ。恋愛なんて、他人の感情によって結果が変わるものを、不条理に責めたりはしない。それくらいに、カインさんのことは信頼している。
けれど、だからと言って、私の後ろめたさが消えるわけじゃない。
じたばたと悶える。カインさんと会って、報告して、そして、どうしようと言うのだろう。
カインさんは、まだ諦めずにアドバイスしてくれるかもしれない。あの懸命さを見れば、その可能性は大いにある。けれど、そうしてアドバイスされたとして、私はどうするつもりなのだろう。
どうにかできるのだろうか。しおとライバルになって、湊人君をどうにかしようという気概が私にあるのだろうか。
ぱたんと動きを止めて、大の字になる。ぎゅっと胸元を掴んでみても、気持ちが掴めるわけじゃない。可視化できるなら、こんなに迷うことはないのに。湊人君のことも、カインさんのことも。何も迷わずに突き進んでいけるのに。
でも、目に見えたら見えたできっと困るのだ。私は優柔不断なのだから。結局、こうして混迷し続けるのだろう。
そうして、私はぐだぐだと惰弱な悩みに溺れ、行動力を奪われてしまっていた。
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