遂行するもの②
「ダニー」
「ああ、どうした? ライル」
潜入時には偽名を使う。
それぞれの名前をきちんと管理している俺は、今回ダニーという名を使った。この名は、何の変哲もない市民として生活するためのものだ。上級貴族や隣国、ユーニテェッドではまた違う名を使う。
「今日の会合には来られるのか?」
「出席するつもりだよ。今日はまた新しいやつが来るんだろう?」
「そうだな。そろそろ動き出しそうだ……ダニーは実際に動くことに不安はないのか?」
ライルは、気弱な少年だ。十八歳ぐらいだろうか。反乱分子の会に顔を出すようになったのは、俺と同じ時期くらいである。自らの意志で参加してきたものではあるが、心根は過激ではない。
潜入してから三周以上の巡りが過ぎている。革命を起こそうという大仰なものを掲げている会は、そろそろ本格始動しそうになっていた。
この頃の緊迫感は、ピリピリと目に見える形で高まっている。その気配は、そういったものに敏感になっている俺ではなくとも読めるものとなっていた。ライルもそれを感じ取り、及び腰になっている。
「そうだな……やっぱり、少し怖いな」
「……やめるつもりはないのか?」
「今のところは、な」
俺の答えを聞いたライルは、へにょりと眉を下げた。頼りない表情である。反乱分子に参加するような性格には思えない。
……家族がユーニテェッドの政策の犠牲になっていなければ、こんなところへ顔を出すようなものではないのだろう。
「ダニーは強いんだね」
「そうでもないさ。ライルだって、会合に出るんだろう?」
「抜けるに抜けられなくなっちゃってるだけだよ」
「自由意志だぞ」
反乱分子ではある。過激派なことは間違いないが、しかしリーダーはリーダーとしての資質に溢れていた。情報を漏らさないことを魔術契約書で誓えるのならば、会合に参加していたものでも脱退することを許している。
契約書の内容も、手厳しいものではない。情報を口にしようとすると、一時的に体調不良に陥り、発声を制限される。それ以上、生命への影響はない。一生涯縛られることには変わりがないが、自分が反乱分子として活動していたことを漏らしたいものはそういないだろうから、悪条件ではない。
有効的な手段であり、とても善意的なものだ。魔術契約書を用意する費用は負担にはなるが、全額ではない。それで命が変えるのならば安い範疇だろう。
ライルは、ずっとそれを迷っているようだった。
「分かっているんだけど……抜けるのにも勇気がいるんだよ」
「それでも、抜けるのなら早めに気持ちを決めたほうがいい」
ライルも、早いほうがいいとは思っているのだろう。しかし、断言されたことには、不思議そうに首を傾げていた。
くるくると変わる表情を見るたびに、思い出すのはハルのことだ。ふとすると、苦笑が零れそうになる。
「深くまで入り込むと、余計な情報を手にしてしまうぞ」
ライルの顔色が悪くなった。
「今日の会合は大丈夫だろうか?」
胃の辺りを押さえている。今すぐにでも、抜けると口にし始めてもおかしくはない。少なくとも、今日の会合は不参加を表明しそうだ。
「かなり深い話があるかもしれないな」
「……ダニー」
「休むのならそのほうがいい」
休んだからといって、懲罰があるわけではない。それぞれ仕事の隙間に活動をしている。参加できることが確定的でない。会合の日付も、上層部が参加できる日を優先して設定されているだけだ。
ゆえに、ライルが今日の欠席を決めたところで、大きな影響はない。心配はいらなかった。
「ダニーはいいのか? 今のところ、ということは、まだ完全に参加を決めたわけじゃないんだろ? 実際に動くとなったら、危険はいっぱいだ」
「そうだな。じゃあ、俺も今日は遠慮しておく。ライル、飯でもどうだ?」
「……そうだね」
ふはっと気を抜いたように頷かれて、俺はライルと連れ立って、近くの飯屋に入った。
チキュウの食事に慣れ始めてから、こちらの食事の味気なさは増している。思わぬ弊害だ。
しかし、どんなに言っても、故郷の味ではある。まだ、我慢できるものだ。これ以上チキュウに寄り過ぎると、どうなるかは分からない。贅沢を覚えるのはよろしくないと分かっていたが、難儀なものだ。
チキュウでは特別贅沢しなくとも、美味な料理が一般的であるのだから。そうした意図がなくても慣らされてしまうのが、非常に困る。
「ダニー? 食が進まないのか?」
「そんなことはない。ただ、この先どうするか考えていただけだ」
「そうか」
ライル相手にも、余計な情報を与えるつもりはない。
表面だけを捉えれば、ライルは及び腰で抜け出そうとする男でしかない。しかし、抜け出すための布石を敷いているスパイとも取れる。気弱な態度を取っていれば、気を抜いてくれるものもいるはずだ。そういった面を装うくらい、スパイであればするだろう。
接するもの一人一人に気を配らなければ、スパイなどやってはいられない。
……本来なら、ハルにだって警戒すべきだった。声をかけることすらも浅はかだ。危難しかない。もしも、こちらで出会っていれば、俺は決してあのような近付き方をしなかった。
チキュウという舞台があったからこそ、ハルとは関係が結べている。
二つの世界は、確かに交流を持つようになった。スパイが投入されていることもあるかもしれない。しかし、ことはそう楽ではないのだ。
異世界人の人間を偽るというのは、異常なまでに難しい。チキュウの知識に一部でも触れれば、その難易度の高さは容易に窺い知れる。賢いスパイであればあるほど、この困難と不可能さを理解するはずだ。
隣国だろうとどこだろうと、潜入捜査を拒否したことはない。独特な生活習慣があろうとも、それを身につけて任務をこなした。
そんな俺でも、チキュウに潜入できる気はしない。一極集中で勉強するのなら問題はないが、活動のために網羅しようとすれば、とてもじゃないが追いつかない。知識だけではなく、そもそもの常識すら違うのだ。価値観もまるで違う。現状、異世界のスパイが潜入しているとは思えない。
そうであるがゆえに、ハルに声をかけることにも躊躇はなかったのだ。もしも、チキュウにスパイが潜入できると確信が持てていたら、ハルに近付くことはなかった。
そう思うと、不思議なものだ。さまざまな条件が整わなければ、このような交流を持つこともなかった。
異世界の友人……友人、か。
自然にその発想になったことに驚いた。弟子、とまでは言わずとも、最初はスパイの先輩とした動きをしようとしていたはずだ。そして、実際にそうしている。
しかし、今となっては、友人と呼ぶほうがしっくりきた。確かに俺はアドバイスをしてきたが、その場所は娯楽施設と呼んでいい。
ファミレスにカフェ、カラオケ。二人で遊びに行くという何気ない日々だ。たったの四回しか顔を合わせていないにもかかわらず、友人だと思うのは妙な心地がする。自分の感覚が信じられない。
自分がこんなにも、穏やかな感情を有していたことすらも不思議だ。
今まで、友人と呼ぶような人間と出会ったことはない。スパイの生活というのはそういうものだ。ひとつ処に留まることなどない。裏家業であるのだから、下手な人間関係は結べない。
それを悲しいとも虚しいとも思ったこともなかった。生まれたときからその環境に身を置いていれば、そこに特殊性を抱いたりはしないものだ。俺にとって、友人がいない生活は当たり前のことだった。
それが、今になってそう呼ぶような人間ができるとは。
不思議な心地を噛み締めながら、ライルとの食事を終わらせた。これといった目新しい情報はない。
とはいえ、会合に参加するのが見極め時であるのは事実だ。今日の会合から抜け出したライルの行動はありがたかった。同じようなものがそばにいれば、同じように尻込みしたのだろうと判断してもらえる。
ただし、離脱するにも、魔術契約を結ぶわけにはいかない。行方不明になるしかないだろう。
こうした市民への変装の場合、俺は髪色を派手に変えていた。オレンジ色の髪をポニーテールにまとめている。それほど長くないので、ポニーというほど立派ではないが、その辺りはどうでもいい。
真っ黒な髪色に戻れば、それだけで俺の姿は闇に溶ける。始めからそのつもりで準備していたのだから、難しくはない。
とはいえ、時期の見立ては重要だ。三十日。ピッタリで去るわけにはいかない。だが、あまり長居もできなかった。ライルが心配するように、実戦的なデモ行為をするまでの時間に余裕がない。だとすれば、早めに切り上げたほうがいいだろう。
ライルと別れた俺は、一直線に根城に戻った。それから、手に入れた情報を暗号化して、依頼元への報告書を作る。
これは郵送するものではなく、魔道具として飛ばせるものだ。一瞬で、依頼元へと転移する。高価でそう使えるものではないが、今は手段を問うている場合ではない。早急に引き上げるための準備だ。そこに注ぎ込む料金に二の足を踏んでいるわけにはいかない。
結んでいる髪を解いて、肩口に遊ばせる。そのまま帽子を被る緩い変装で、再び町に出た。日頃、街にはいない名も分からぬ不審人物の影を残しておく。妙な人物と行方不明の抱き合わせで想像を掻き立てるのだ。
何らかの事件に巻き込まれていなくなった、と。
印象に残るようにさまざまな店で、半端に買い物をして回る。店員と愛想良く会話を交わしておいた。そうして、見かけぬ人間の情報を振りまく。
効果がどれほどのものか。そんなものは、結局時々によって変わってくる。結果論でしか語れない。だが、やれるべきことはすべてやっておくのが万全というものだ。
そうして、露店を見回っているうちに、アクセサリーの店に行きあった。魔道具の宝石とただの装飾品が並んでいる。普段なら、魔道具のほうに気を取られたはずだ。
それが装飾品に流れたのは、黒いオパールのお守りであるネックレスから、ハルの黒い瞳を連想したからだった。
黒いそれは、キラキラと光っている。トップにころんと石がついているだけだ。やたらと目立つわけではない。だが、何故だか異様なまでに目を惹いた。そろりと触れると、その重みが手に馴染んだ。
お守りというのは、所謂商売用の売り文句に過ぎない。実際に力のない装飾品よりも、隣にある魔道具の宝石のほうが実際のお守りとして役に立つ。いつもの俺ならば、迷わずそちらを手に取ったはずだ。
だが、一度手にしてしまったお守りは手放し難い。鎖がちゃりと音を立てて、気を引いてくる。
「お兄さん、お目が高いな。それはいいものだよ」
「おいくらですか?」
普段なら、間を置いただろう。即応してしまったことに、苦笑が零れた。店員さんのグレーの瞳が獲物を見つけたかのように光る。
「お安くして、百七十リラだ」
露店としてはお高めだが、法外な値段ではない。日本円では二万ほど。そうした計算が身についていることに驚きながら、俺は財布を取り出した。
「まいどあり」
「ありがとうございます」
渡された商品を受け取って頭を下げる。
らしくない、というのはとうに自覚していた。
ただの友人に渡すには、まま異質だ。異性であれば要らぬごたごたを生む可能性を否定できない。俺はそういったものを避けるように生きてきたつもりだ。
それが、とネックレスを天に翳すように持ち上げる。焼きが回っているかもしれない。失点をぶら下げる前に、引き上げるべきだろう。
俺は十分に人の目につく行動を取れただろうと、宿へと戻って荷物をまとめた。
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