堕としたいもの③
チキュウの食事処は豊かだ。食事処も、というほうが確かだろうか。何にしろ、ファーストフードというお手軽に食べられるところから、ドレスコードのあるレストランまで多種多様だった。
その中でも、ファミリーレストランは幅広い世代に人気のある場所らしい。一度出向いてから、俺はお世話になり続けている。何より、安価で美味しいものが食べられるのはいい。
正直に言えば、贅沢したって構わないのだが、下手な贅沢を覚えるのは好ましくはなかった。ユーニテェッドに戻れば、また一般市民として生きていかなければならないのだ。過ぎたる贅沢は身の丈に合わない。
なので、ファミレスを気に入っている。駅の近くにあるのもいい。俺は彼女を連れて、チキュウで広く展開されている有名なファミレスに入った。
禁煙席に向かい合って座る。改めて対峙した彼女の瞳は、薄い茶色に光っていた。駅のホームでも灯りはあったが、こうして明るい場所へ出るとより鮮やかに見える。長い黒髪がさらさらと揺れていた。
彼女は顎に手を当てながら、メニューを眺めている。むにゅっと下唇を突き出して悩んでいる姿は幼い。
それからしばらくして、ドリンクバーと軽食を注文して、一息を吐いた。俺はコーラを、彼女はメロンソーダを手にして、席にも落ち着く。
しかし、彼女は寛げるほど納得してついてきたわけではないのだろう。肩を縮めていた。両手でコップを握り締めて、硬直している。
俺はゆったりとコーラを口に含んだ。この甘ったるくしゅわしゅわと弾ける飲み物は、俺の好物だ。チキュウでしか飲めない代物は、どれもこれも独特で美味しい。
「えっと、それで……」
どう切り出したものか。逡巡するように零した彼女は、語尾を笑いで揉み消した。その後、更なる誤魔化しに乗り出すように、メロンソーダのコップを傾けて物理的に口を塞ぐ。
「まずは、名前を聞いてもいいかい?」
「ハルです」
「ハル。それはこちらの季節の春?」
「はい、そう聞いてます。あちらには、春はないんですか?」
「穏やかな気候の時期はあるが、こちらほど明瞭に季節の変化がない」
「そうなんですね」
異世界に興味があるのか。何気ない相槌が弾んでいた。
ここまで分かりやすいと探るまでもない。それは気が楽で、そしてアグニスでは感じることのないものだ。自然に心が緩む。
「それで、ハルはあの彼を標的としているわけか?」
「彼?!」
「違うのか?」
ぱあっと頬に紅色が散った。
標的を簡単に特定されることへの含羞はあるらしい。そうした怠慢への意識はないのかと思っていた。それほどまでに、簡単に口を割ったものだ。
恥ずかしげに身を竦めた彼女は、赤ら顔のままぼそぼそと口を開いた。
「彼、を知っているんですか?」
「いや、知らん。だが、金髪で耳にアクセサリーをした男だろう?」
「……はい。どうして、分かったんでしょうか?」
「あんな尾行では、すぐに知れる」
「び! だから、尾行なんかじゃありませんから!」
標的を明かした以上、それを否定したところでどうしようもないはずだ。しかし、ハルは頑なに拒否をする。何か隠すべき事情があるのだろうか。任務の細部を聞くつもりはないので、突かずにいた。そこまで深入りするつもりはない。
「では、彼に近付きたいわけではないのか?」
「っ!」
ハルはびくんと肩を揺らした。
アグニスのスパイ活動には、ときに暗殺の仕事が舞い込むことがある。その際は、近付くことが第一とは限らない。自分の存在を残す可能性を除去するために、一切の交流なく闇に紛れるのだ。
ハルはそろりと視線を逸らす。
「そう思ってはいますけど」
「同じ学校に通っているのだろう?」
紺色のジャケットは、この沿線にある学園のものだ。多くの知識を吸収するには時間が足りないが、自分の行動範囲のことくらいは確認している。
「はい」
「名は分かっているのか?」
「隣のクラスの荒川湊人君です」
「他に知っている情報はあるか?」
「えっと、いつも一緒にいる黒髪の男子は嶺君で、荒川君と一番仲がいい人で、二人とも帰宅部です。バイトもしてないみたいで、いつも駅のホームで雑談してから帰るのが日課です。コンビニやファストフード店に顔を出すことはあるけど、ファミレスなんかの店内に入ることは少ないみたいです。成績は普通ですけど、運動神経抜群で、体育の授業は注目を浴びてます。あと、バンドでギターをやってるって聞いたことがあります」
「……聞いてもいいか?」
ハルは流れるように口を回した。楽しくて仕方がないという口調に口を差し挟むのは、ちょっとばかり気を遣う。しかし、問題事をそのままにしておくわけにはいかない。正しい情報を正確に収集してこそのスパイだ。
「あ、はい」
「成績が普通とはどのくらいだ?」
「えーと、あちらでは学校がないんですか?」
「一般的ではない。見習いになって職に就くのが通常だ。俺も学校に行ったことはない」
「大変なんですね」
「学校も大変な場所ではないのか?」
「そうですね……でも、就職と違って責任はあまりないですから」
「そういうものか?」
「学生と社会人の大変さは別物だと思います」
「そういうものか」
バイトとしてかどうかは定かではない。だが、ハルはスパイと学生を兼任しているからだろう。どちらの視点も含んだ感想には、納得しかなかった。
「普通は平均的という感じでしょうか」
「きちんと数値化されているのか」
「そうですね」
「それじゃあ、体育の授業とは何をするんだ?」
「スポーツです」
平たく伝えられたが、アグニスにはない単語には疑問しかない。ハルも過不足を感じたのか、早口で続きを付け足した。
「運動、といえば伝わるでしょうか。野球だとかバレーだとかバスケだとか、そうした競技をする時間です」
「それは一体どういう意味があるんだ?」
「えっ」
ハルがきょとんとする。下手をすると、今日一番困惑しているかもしれない。それほど難解な問いかけをしたのだろうか。
「えっと……そうですね。健康のためとか? そんな感じじゃないですかね?」
「……把握しているわけではないのか」
「はい」
ハルは苦々しい顔で頷いた。気まずさを散らそうとばかりにメロンソーダを飲むのは、癖のようだ。
「美術といって絵を勉強したりする授業もあります。体育も同じように運動を学ぶものかと思いますけど……明確な理念は分かりません」
「そういうものか」
ハルは飛び抜けて妙な性格をしているわけではない。なので、ハルがそういうのであれば、おおよその学生もその程度の認識しかないのだろう。ハルが適当な返答をする人間ではないことは既に察するものがあった。
「あとは、バンドとギターについて聞いてもいいか?」
俺がそれ以上授業の内容に言及しなかったことに、ほっとしたようだ。ハルは気を取り直したかのようにはきはきと言葉を紡ぐ。
「バンドは音楽をするグループです。ギターはその楽器のひとつですよ。弦が張られていて、それを弾いて音を奏でます。つまり、荒川君はその楽器を弾けるってことです。かっこいいですよね」
「それが弾けるとかっこいいのか?」
話の繋がりが見えずに首を傾げると、ハルは照れくさそうに笑った。
「これは私の感想です」
「そうか」
そう言われてしまえば、俺に追及する術はない。ハルははにかんで、メロンソーダを飲む。その隙間を見計らったように運ばれてきた軽食が、テーブルに並んだ。俺は早速サンドウィッチをつまむ。
アグニスにもサンドウィッチに似たものは存在するが、その食感も種類も比べものにならない。チキュウの食は本当に発展している。パンも柔らかい。果物などが入っている変わり種であっても、、摩訶不思議な味わいにはなっていない。
ハルも同じように食事を進める。会話の小休止を利用して、脳を働かせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます