堕としたいもの②

 ぶつかったのは、偶然だ。


「あ、尾行の」


 鎖骨辺りにぶつかる頭上を見下ろして、するっと言葉が出た。チキュウでは気を抜いている。ゆえにぶつかりもしたし、思考も零れ落ちた。

 昨日目撃したままの制服姿の彼女が、ぎょっと目を剥いて顔色を変える。


「ちょ、びこ……何を」


 真っ青になって否定する姿は、図星を突かれた人間のそれだ。スパイとして求められる無表情がまるでなっていない。

 しかし、彼女は慄いたままではいなかった。


「……あなた、何なんですか」


 顔色はともかく、鋭利な顔つきで応対ができる反射神経は悪くない。彼女の技能は一貫性がなく、非常に不均衡だ。


「……カインだ」


 名を名乗ったからだろうか。彼女はいくらか表情を緩めた。


「ぶつかってすみませんでした」

「それはこちらも同じだ。すまない」

「それで……」


 彼女はじっと俺を見上げて、語尾を濁す。

 尾行していることがバレているのを看過はできないはずだ。しかし、自ら行動を明かすこともできないだろう。その暴露は、秘密を守るべきスパイとしては犯してはならない行為だ。

 それが分かっているからこそ、俺は言葉を重ねることを躊躇した。同郷のスパイであれば、敵対する。だが、ここはチキュウだ。そこにいるスパイの未来を潰そうというとは思わなかった。俺はそこまで同業者に無慈悲な感情を抱いてはいない。

 互いに躊躇った結果として、俺と彼女は無言で数十秒見つめ合うことになってしまった。

 そこから抜け出す術を思索しようとしたところで、彼女が出し抜けに目を丸くする。彼女は驚くべき素早さで俺の手を取ると、そのままずるずると引きずって、ホームの階段へと向かった。

 踏ん張れば立ち止まらせることも可能だっただろうが、彼女の必死さに免じて追従する。彼女は階段の裏側に向かっていた。姿を隠そうとしているらしい。振り返れば、金髪の彼の姿が視界の端にチラついた。

 しかし、すぐにコンクリートの壁に阻まれる。彼女の狙い通りに、視界が遮られた。立ち止まった彼女は、意を決した顔でこちらを見上げてくる。

 また、感情が筒抜けていた。


「ストーカーじゃないですから!」


 わっと声を上げられて、目を眇める。

 ストーカーというものがなんだったか。記憶の引き出しを探ってみるが、該当項目が見当たらない。

 俺としてはそうした沈黙であったが、彼女にとっては弁明を加速させる沈黙であったようだ。


「あの、あれなんです。知り合いっていうか、顔見知りくらいではあるみたいな、感じです。あるじゃないですか。なので、知らない人を追い回しているとか、そういうわけじゃないですし、あえて同じ電車に乗ったりとかしているわけじゃないですし、同じ駅を使っているのも偶然で、わざわざここに降りているわけじゃないですし」


 わちゃわちゃと慌ただしくもたらされる情報は、ぼんやりとしている。はっきりとした目的が分からない。あやふやに流そうとしているのだろうかと見下ろすが、彼女はスカートを握り締めて、懸命に口を開いている。

 騙すための工作でもなさそうだ。

 俺が淡々と見下ろしているからか。彼女はもっと焦るように言葉を塗りたくる。だが、そのどれもが曖昧模糊としていて、同じことの反復だった。


「……標的ということか」


 並べ立てられた言葉から掬い上げられたのは、端から分かっていることだけだ。他のことを告げることも考えた。だが、こうまでなってくると、もはや取り返しはつかない。

 こんなふうにバレたからといって情報を落とす彼女の迂闊さは見逃せなかった。世話を焼こうとは思わないが、流すのも難しい。

 一点を突いた俺に、彼女はぴたりと舌を止めた。それから、目尻から赤みが広がっていく。

 怒りか。恥じらいか。

 それを観察していると、視線が逸らされて目が伏せられた。その顎が引かれて俯く。

 白状したか。

 その頭頂部を見下ろしながら、思考を巡らす。迂闊どころか失策。いや、由々しき肯定。彼女は分かっているのだろうか。これほど軽々と頷くようなことではない。もっと強く反抗すべき事柄だ。

 これでは、愚かに過ぎる。理解不能だった。スパイとして、考えられない存在だ。

 ……そこまで考えて、ようやく気がつく。

 チキュウには、理解不能なものがたくさんあった。電灯だって電車だって、そういうものだと割り切っている。

 当初は、好奇心による知的欲求が留まるところを知らなかったが、異世界の文化は片手間で学べるようなものではなかった。

 その文化で生きているものたちだ。同職であっても、まったく同じものであるとは限らない。でなければ、これほどまでに絶望的な失態をあっさり認めはしないだろう。

 そうか。色々あるのだな。

 そう思えば、今までの彼女の行動にも合点がいく。アグニス……少なくとも、俺が本拠地としているユーニテェッドのスパイとは、まるで違うほどに杜撰であった。これが彼女にとって通常であるのならば、飲み込めるものもある。

 だが、こうしてどこか後ろめたいような態度を取るということは、チキュウ基準にしても、彼女の仕事状況は明るくないのかもしれない。


「上手くいっていないのか?」

「えっと……まぁ、そうですね」


 視線がふよふよと泳ぐ。

 まったくもって、何ひとつ繕えていない。彼女は大丈夫なのだろうか。スパイの内容が違うことを理解しようとも、その心配は消え去らない。それどころか、手助けをしてやりたいような心地すらあった。


「困っているのなら手伝うこともできるが」


 それが奇矯な申し出てあることは、自分が一番分かっている。何より、自分がそんなことを口走るとも思っていなかった。やはり、チキュウにいる間は、かなり気が緩んでいる。ユーニテェッドにいて、思わず口走るなんて状況に陥ることはまずない。

 彼女もかなり困惑したようだ。

 整えられた眉尻が下がって、口角が誤魔化すような緩い円弧を描く。愛想笑いのうちに、次の一手を探しているかのようだった。


「……とりあえず、話さないか?」

「えっと、あの、」

「ファミレスはどうだ?」


 ナンパというものがこの世界に存在しているのは知っている。

 ユーニテェッドでは、そうあることではなかった。婚約は諸々の関係を勘案されるものであるし、許嫁は決定しているものだ。そんな世界で他人に声をかけるような真似はしない。するとすれば、それは強姦などの犯罪行為目的であることがほとんどだ。

 自分がそのような真似をするとは、ひどく不思議な心地がした。チキュウであればこその所業だろう。


「あの、私、そんなお金もないですし……」

「君の悩みを聞いてあげられると思ったんだが……身分を証明できればいいのか?」

「どうして、そこまで??」

「見ちゃったから?」


 理屈ではなかった。気になってしまうものは仕方がないだろう。しかし、その主張で彼女が納得できるわけもない。不信感は募る一方だろう。

 俺はバッグの中から渡航証明書を取り出した。

 これは、こちらの運転免許証というものに似せて作られたカードだ。身分をとことんまで調べられて、犯罪歴がないことが証明されて、ようやく発行されるカードであり、こちらでの安全性を保つ証明書だった。

 チキュウにしかない材質で作られたカードを偽造することはできない。……その調査内容が徹頭徹尾真実かどうかは言明しないが。


「あ、これ、異世界の!」


 彼女の調子が、一瞬で砕ける。それほどまでに、このカードは身分保障の中でもかなりの安全性を保っていた。


「すごいですね。私、初めて見ました」

「あまり遊びに来られるものではないからな」

「お金持ちなんですね」


 それがするりと出てくるほどに、アグニスの住人がチキュウに来るにはお金がかかると理解されている。


「まぁ……それはいいけれど、これで俺の身分は保証できたと思うんだが、どうする?」


 自分でも意外なほど、彼女のことが気になっていた。

 彼女が睫毛を瞬く。それから、ぎゅっと拳を作ってこちらを見上げてきた。


「アドバイス、してくださるんですか?」


 本当に? と疑いの眼差しは残っている。だが、それは俺へ対する不審というよりは、現状を打破できるのかという期待へと変化しているようだった。


「ああ」


 できる限りの力添えをするのは吝かではない。こうして目に入った、商売敵ではない同業者を見殺しにするつもりはなかった。

 頷いた俺に、彼女はまだ少し憂いをまとわりつかせながらも、


「お願いします」


 と笑顔を浮かべる。

 初めて見る笑顔は、ひどく印象的だった。

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