第一章

堕としたいもの①

 煌々とした電灯が、建物内の暗さを消している。ランプや魔道具とは違う。高級品である電灯が、ごく普通に流通し、ごく普通に利用されていた。

 この世界は、随分と文明が発達している。電車という乗り物もかなり便利だ。魔術を除けば、最も早い移動手段が馬車である我が世界・アグニスとは何もかもが違う。

 この贅沢な世界に遊びに来られるようになったのは、たったの数十年前のことらしい。

 俺がこちらに初めて遊びに来たのは、六年前のことだ。初めて仕事の報酬を得て、試しにと遊びに来た。それから、俺はこちらの面白さに魅了されている。

 この世界……チキュウという世界の物価は、アグニスと比べれば段違いに高い。行き来にも、それなりの渡航費がかかる。

 だが、俺の仕事は特殊だ。命の危険がある分、その報酬は桁外れである。職務の褒美に遊びにいくくらいは、何も難しいことはない。

 しかし、スパイの任務は長期に亘る。その問題で、遊びに来られる回数はさほど多くはない。従って、収入に対して支出は余裕がある。ゆえに、休みのたびに遊びに来ることも余裕だった。

 それに、チキュウは仕事から完全に切り離された世界だ。

 アグニスでは首都ユーニテェッドを基点に活動している。そこから各主要都市に赴き情報を収集したり、ユーニテェッド内のお貴族様からの依頼をこなしたりするのが平常だ

 私生活でも、ユーニテェッドに居を構えている。そして、一般市民として生活をしていた。

 なるべく目立たぬように生活している。突出すべき点をなくし、息を潜めなくてはならない。どこにでもいる市民として生きている。

 家を空けがちになってしまうのは、仕事の特性上仕方がないものだ。市井では、行商人であり、商品の買い付けに出かけていると思わせている。

 他の都市に潜入する際には、豪商や貴族の身分を偽り安全を買うこともあるが、私生活ではそんなことをしていられない。俺たちの一族は、代々どこにも肩入れをせずに、その実力だけで仕事を任されてきたスパイ一族だ。

 その分、命の危険も高く、私生活でさえも一定の隠密行動が求められる。ただの市民として、慎ましやかに生活を営んでいなければならない。どれだけ贅沢できる収入があろうとも、度を弁え、目をつけられぬように。

 その生活には納得している。俺は幼いころから、スパイ一族として教育を受けているし、またそうあることに誇りを持っていた。

 仕事のために敵にすら情報を売る職務を忌避されることもあるが、どの世界にも裏事情がある以上、蔑ろにはできないものだ。ときに生死に関わることもある。重大なお役目として、日々の生活のことも納得はしていた。

 しかしながら、羽を伸ばせる環境を持ちたいと思うのも本心だ。そして、それにお誂え向きの世界がある。利用しない手はなかった。

 こちらでは、どれだけ派手な姿でいても問題はないし、豪遊をしても構わない。アグニスでは、服装すらも地味を心がけている。そんな雑事からは解き放たれたチキュウでは、俺はチキュウ産のカラフルな衣装を好んでいた。

 こちらでは、アグニスにないような面白い服が数多くある。文明の発達は科学に限ったことではない。衣装から食事まで、ありとあらゆることが豊富だ。娯楽も山のようにあり、何度来たって体験しきれそうにない。何度だって新鮮な世界だ。

 物に溢れている点でも飽きないが、チキュウには四季というものが存在する。来るたびに、季候が違っていた。アグニスにも季節はあるが、麗らかな気候で安定している。

 チキュウの明らかな変化は物珍しい。まだまだ知らない四季の様子や、景色があるのだろう。それを思えば、飽きとは無縁であった。

 今は、五月だ。チキュウはアグニスと違って、確とした日付管理がされている。

 アグニスも七つで数えが一巡りするのはチキュウと同じだ。月の区切りなどはなく、一の日と七の日までが数えて繰り返される。一年が三五十日と定められているだけだった。七つの巡りが五十である。チキュウは三六十五日であるらしいから、年周期がズレていた。

 遊びに来てみたら、こちらでは新年になっており、ショッピングモールはお祭り騒ぎのようになっていたりもしたものだ。

 そのころに比べれば、今日の電車は空いている。しかし、アグニスではこんなにも人が集まることなど、常日頃にない。十分にお祭り騒ぎのようなありさまだと、ユーニテェッドの市民は思うことだろう。

 俺はその人混みを縫うように移動して、目的の駅に降り立った。

 初めは電車の乗り方も覚束なかったが、今では慣れたものだ。人波に乗り遅れることもなくホームを移動する。

 制服に身を包んだ学生という身分が多い。チキュウでは、教育が義務付けられているらしい。ユーニテェッドのように、一定の年齢とともに職業見習いとなる必要はないようだ。文明が発達していると世界は裕福で平和なのだろう。

 こちらでは、常に武器を持つものはいない。少なくとも、俺が遊びに来ているチキュウの中のニホンという土地ではそうだ。例外は、治安を守る警察官だけであると聞いている。俺は警察のお世話になったことがないので、実態は知らないが。

 学生たちは賑やかで、交遊に夢中であるようだった。アグニスで学校と言えば、上級貴族の上澄みだけが通えるような宮殿学校しかない。どのような日常を過ごしているのか。てんで予想がつかなかった。

 放課後と呼ぶべき時間に遊びに行く、という話は聞くが、その内容は知らない。周囲にいるものたちの様子を見ていても、想像はつかなかった。

 一般市民に比べれば、チキュウには慣れているだろう。だが、詳しいかどうかは別物だ。潜入するのであれば、情報収集は欠かさない。

 しかし、俺はこちらに休暇で来ている。興味があることは事実だが、仕事と切り離した日々のために選んでいるのだから、仕事の一部であるかのような行動を取ることもない。興味の部分で知識を得ることもあるが、徹底はしていなかった。

 そんな中、奇妙な行動を取っている学生を発見する。

 他のものは気にしていないようだ。チキュウのものは他人に無関心なところがある。あまりにも周囲を巻き込む異質性を持っていれば無視することはないようだが、一人の人間が動いていることに対して注意を払わない。

 その子は、制服に身を包んでいた。セミロングの黒髪を靡かせて、他の子に比べるとスカートの丈は長い。楚々とした着こなしをしているようだ。その外見は、悪目立ちしているわけではない。

 しかし、彼女はホームの柱に身を隠して、一カ所を見つめていた。一見すれば、ただ突っ立っているだけにしか見えないが、その視線の先を追えば、そうではないことは分かる。

 俺たちが対象者を観察するかのような眼差しだ。

 こちらの学生はバイトをすると聞いている。スパイのバイトというのもあるものだろうか。本格的ではないにしろ、小さな情報戦線は存在するだろう。学生だからこその任務というものも存在するのかもしれない。

 彼女の視線は、どうやら同じ学校の制服を来た金髪の男に向けられている。

 視線を辿ればすぐに分かってしまう彼女の行動は杜撰で、眉を顰めた。バイトなのか。本業なのか。知ったことではないが、これほど杜撰な態度であれば、彼女は彼に早晩見つかるだろう。

 俺は人波に揉まれるように移動して、彼女のそばに近寄った。仕事の一端を思い出す行動であるが、杜撰さが気になって仕方がない。

 スパイは正体がバレてはならないものだ。

 それは、失態などという軽い話ではない。死である。社会的なものではなく、言葉通りの死であった。

 スパイはその身分が割れた瞬間から、秘密を胸に自死への道を進むより他にない。捕まることも、拷問にかけられることも許されはしない。スパイたちにどれだけ確固たる意志があろうとも、自白剤や魔術による催眠などを受ければ、脆くも崩れ去るものだ。

 ゆえにスパイは見つかってはならない。

 それを思うと、彼女の尾行とも呼ぶべき観察は心許なかった。それとも、バレたところで知り合いという逃げ道でも作ってあるのだろうか。学生というのは、同じ制服を着ているというだけで一体感を持っている。

 しばらく様子を見ていると、彼女がこちらを向いた。こちらも本気で盗み見てはいなかったが、彼女は尾行の杜撰さに比べて人の気配には敏感であるようだ。

 しかし、俺に見つかった時点で問題がある。

 はたしてどうするつもりでいるのか。あえて目を外すことなく捉えていると、彼女は訝しげな目をした。そうして、俺から距離を取るように移動を開始する。不審者から逃げるようなさまだ。

 なるほど。すぐに他人に責任の所在を擦り付けられるところは、評価できる。

 自分の身を最優先しなければならない。それはすなわち、自身の持っている情報の秘匿にも繋がるものだ。彼女は、それを迷わず実行に移した。それは、紛れもない才だろう。

 未だ若造扱いされる年齢ではあった。我が一族は、代々跡継ぎが二十歳になると同時に名を継ぐ。新進気鋭であることもひとつの売り文句であるのだ。逆に言えば、同業者からは舐められる。

 俺もまだ、名を継いでたったの二年。人のことを評価できるほどの存在と認められはしないだろう。しかし、これでも通算すればスパイ歴は七年目だ。

 認められはせずとも、他人の実力を測れるほどには経験を積んでいる。老獪なものに敵わぬのは、この際横に置いていいはずだ。

 彼女はそれなりの危機回避能力があるようだった。

 しかし、いつまでも見ているわけにもいかないし、見ているつもりもない。本当に不審者として通報などされようものなら、チキュウへの渡航が一定期間禁止されてしまう。異世界の往来には、さまざまな条件があるのだ。

 その許可を自らの手で手放すつもりは更々ない。

 俺は余計なことを考えずに、彼女に背を向ける。自分の休暇を堪能すべく、街へ繰り出した。

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