スパイの告白前日譚

めぐむ

プロローグ

 個性を殺して、組織に埋没する。常に緊張感を持ち、その身分を悟られてはならない。

 そうした世界に生きるのは、生まれたときから決まっていた。


「フェイ、よそ見しないで」

「ごめん。君があまりに眩しいから」

「口が回るんだから」

「悪かったよ」


 シルクのドレスが覆うくびれを撫でると、彼女が肩口に寄り添ってくる。そのつむじに鼻先を埋めて、甘えるように擦り付けると、彼女の機嫌が直ったのが分かった。内心で息を吐きながら、腰に滑らせた指先を骨盤に引っかける。彼女の肩が震えて、手のひらが重なってきた。


「ダメよ」

「君のほうがよっぽどひどいな」

「フェイの手が早いの」

「失敬だ。僕は君の誘いに乗ったつもりだったけど?」

「そんな甲斐性のないことを言うの?」

「それを言われたら、僕には逃げ場がないじゃないか」


 眉を下げると、彼女はくすりと笑みを浮かべる。楽しそうに。俺を弄ぶように。まったく困った態度に、俺は小さく肩を竦めた。


「逃げなくていいでしょ?」

「おあずけにしといてよく言うよ」

「お楽しみは取っておくべきじゃないかしら?」

「つまみ食いくらいは許されるべきじゃないかな?」


 首を傾げると、彼女は薄い笑みを浮かべる。


「高いわよ」


 掴みどころがない雲のような態度に、こちらも笑みを浮かべた。

 鏡のように返すのが俺の流儀だ。彼女がそうした戯れを好むのならば、それに足並みを揃える。


「支払いは金品で?」

「野暮なことを言うのね?」

「先に野暮なことを言ったのは、君じゃないか」

「可愛い戯れでしょう?」


 言葉遊びに、俺は目を細めた。行間を含んだ会話は、心地良さを誘引できている証拠だろう。彼女が伸ばす赤い紅の笑みに応えた。


「それでは、ご希望に添いましょう」


 わざとらしく紳士的な言葉回しで腰を折る。触れ合うだけの一瞬の口付けを、小鳥のような唇に贈った。

 翡翠の瞳を瞬く彼女は、どこかあどけなく、しかし染めた頬の赤色は艶やかでもある。どうやら心を許してくれているらしい。俺はうっそりとほくそ笑んだ。


「更なる寵愛を承りたく存じます」


 殊更改まって、その小さな耳朶に低く吹き込む。

 彼女は緩く伏せた瞳でこちらを上目に見上げ、身を寄せてきた。豊満な乳が、横腹よりも少し上。胸板のそばにぶつかって形を変える。その豊かな弾力に舌なめずりをして、彼女の腰と臀部の際どいラインを撫でた。ほっそりとした指先が、俺のジャケットを引く。

 堕ちた。

 無駄な言葉は重ねずに彼女の腰を抱いて、パーティー会場の人波を縫う。客室が宛がわれているパーティーだ。会場を抜け出す先は、彼女とて理解していよう。そうして、預けられる体温は、その先を望んでいるのだろう。

 俺はそれに応えるように、抱き寄せる手のひらに力を込めて足を速めた。

 部屋に辿り着けば、一も二もなくベッドへ向かう。彼女は抵抗なく俺に身を預けた。後はもう、快楽へと身を投じて彼女を眠りに落とすだけだ。

 そうして、彼女の握っている情報を手に入れる。そんな考えを微塵も見せずに甘い言葉を吐きながら、その柔らかな肉体を撫ぜた。

 俺の名はカイン・ジョーカー。

 個性を殺して、組織に埋没する。常に緊張感を持ち、その身分を悟られてはならない。そうした世界に生きるのは、生まれたときから決まっていた。

 スパイだ。

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