第28話 ボルダリングデート
電車で数駅乗った先に目的のボルダリングジムがある。
ボルダリングジムなんて今まで入ったことがない。
ジムの前を通ったことはある。でも縁のない場所だと思っていた。
勝手なイメージかもしれないが、なんとなく陽キャっぽい雰囲気が苦手だ。
そんな場所に、しかも美少女女子高生同伴で参加することになるとは、少し前の自分に話しても絶対に信じないだろう。
「ほら早く」
入り口の透明な窓の向こうに、壁を登っている人やそれを見ている複数の男女の姿が見える。
(入りづらい)
この中にいるのは陽キャ集団だ。
半引きこもりでバ美肉Vtuberをやっている矢井田が入っていい場所ではない。
「いやー、ちょっと入りづらくて」
「バカなこと言ってないで早く入るよ」
イコが矢井田の手を引っ張った。
心の準備ができないままジムの中へと突入する。
「おー、イコちゃん久しぶり」
受付にいたスタッフの女性がイコに手を振っている。
イコはこのジムに時々通っているらしく常連らしい。
「少々お待ちくださいね」
女性がイコを陰へと連れていく。
ヒソヒソと何かを話していた。
小声で話そうとしている割に、わー、きゃーと女性の黄色い悲鳴が聞こえてくる。
「……」
気まずい。
初めて来た場所で一人取り残されて非常に気まずい。
しかもなぜかジム内の人たち――特に男性から睨まれている。
敵視されているというか、品定めされているというか。
このジムは一見さんお断りタイプなのだろうか。
「お待たせ」
イコが戻ってくる。
ホッとした。
敵地ど真ん中なこの場所ではイコだけが唯一の味方だ。
イコと話していた女性スタッフが、初心者の矢井田に対してレクチャーしてくれることになった。
壁にはカラフルな石が無数にくっついている。
この石に手足をひっかけて上まで登るのだが、適当に登れば良いという訳ではなく、同じ色の石のみを使って登るそうだ。
まずは一番初心者向けのルートに挑戦した。
意外と簡単に上までたどり着くことができた。
もしかしたら自分には才能があるのかもしれないと思った。
「なぁ」
ボルダリングに挑戦している最中に、大学生ぐらいの男3人組がイコに声をかけていた。
「俺たちと一緒にやろうぜ」
「今日はあの人と一緒なので大丈夫です」
「あんなおっさんなんかより、俺たちとやる方が絶対楽しいって」
「結構です」
陽キャのイケメン大学生たちだ。
普段からブイブイ言わせているのだろう。
そんな彼らよりも、イコは矢井田を優先してくれるらしい。
「恥ずかしがらずにさ、とりあえず試してみようぜ――」
大学生の一人がイコの腕を強引に掴んで引っ張る。
止めに入ろうとするよりも先にイコが動いた。
逆に男の腕を掴み返して、素早い動きで相手の懐に潜り込んだかと思えば、身長180cmはあるだろう長身の男を背負い投げした。
「おぉ」
感嘆の声が漏れた。
あまりにあっさりと背負い投げされたことで男たちが動揺している。
スタッフがイコと彼らの前に割り込んだ。
険しい顔で男たちを注意し、彼らをジムから追い出す。
「美しいって罪だね」
「自分で言うな。でも今の背負い投げ、凄かったな」
「私ってさぁ、凄い美少女でしょ?」
「まぁ、確かに」
「だから護身術は猛特訓したんだ」
笑顔でそう言うが、きっと恐い経験もたくさんしてきたのだと思う。
「美少女も美少女で大変なんだな」
「ほんと大変なんだから。ずっと危機感を持ってないといけないし、24時間365日気を抜けないから」
「イコは危機感薄いだろ」
「はぁ? 私ほど危機感持ってる女はいないんだけど」
イコは妙に自分の危機感の強さに自信を持っているようだが、そもそも真っ当な危機感の持ち主であれば、隣に住むおっさんの部屋に上がり込んだりはしない。
「次は少し難しいルートに挑戦してみましょう」
仕切り直しという形でスタッフが提案してきた。
提示されたルートを確認する。パッと見た感じ簡単そうだ。
次も余裕だなと思いながら挑戦する。
「あ、あれ?」
すぐに登れなくなって床のクッションの上に落ちた。
全然登れない。
「コツは手じゃなくて足で登ることかなー」
「足?」
「こんな感じ」
お手本を見せると言わんばかりに、イコがスルスルと登っていく。
矢井田が失敗したところも容易くクリアしていた。
「ほら、簡単でしょ?」
イコは運動神経がいい。
矢井田はどちらかと言えば運動は苦手だ。
簡単に同じことをできると思わないでほしい。
「腕の筋肉がパンパンになっていませんか?」
スタッフに言われて気づく。
確かに腕が張っている。
意識すると腕が小刻みに震えていることが分かった。
「腕で登っている証拠です。まずは足で登ることを意識してみてください。なるべく壁に身体を近づけるようにしながら登るとやりやすいと思います」
登ったときは、腕がピンと伸びて、壁から身体が離れていた。
でもイコの場合は肘が曲がっており、身体は壁にくっついていた。
「なんとなく分かったかもしれません」
足を意識しながら登る。
そうするとさっき失敗したところも簡単にクリアできた。
そして、最後の一手。
あと一手でゴールなのだが、少し離れた位置に目標の石がある。
矢井田の腕の長さでは、どう考えても届かない。
「思いっきり右に重心を寄せて、その勢いを使って腕を伸ばして石を掴んでください!」
言うは易し。
失敗したら間違いなく落ちる。
結構怖かった。
「「ガンバ!」」
躊躇って動けないでいると、ジムの他の客たちが声をかけてくれる。
矢井田を敵視していた男性たちですら応援してくれていた。
声援が力に変わる。
覚悟を決めて、腕を伸ばした。
――ガシッ。
「ぉ、うぉおおおお!」
(掴んだ。掴んだぞ!)
「「ナイスー!」」
奮闘を称える声が聞こえる。
壁を登るという達成感。ジムにいる陽キャたちと同じ存在になれたような一体感。
(ボルダリングって楽しい!)
壁から降りると、イコがタオルを渡してくる。
「かっこよかったよ」
「お、おう」
照れを誤魔化そうとタオルで顔の汗を拭いた。
イコが手を伸ばしてくる。
「ん?」
「タオル返して」
言われるがままにタオルを返した。
イコはおっさんの汗を拭いたタオルという汚物を嫌な顔せず手に持っている。
そのタオルをジッと見つめたかと思えば、
「――えっ?」
イコがタオルで自分の顔の汗を拭き始めた。
彼女が手に持っているタオルは一枚だけ。
つまり、さっき矢井田の汗を拭いたばかりのタオルだ。
その様子を見ていた周囲の人たちが動揺している。
むろん矢井田も動揺していた。
「何?」
「い、いや別に……」
自分で言うのもなんだが、おっさんの汗は気持ちが悪いものだと思う。
彼女のような年ごろの子にとっては最悪の液体だ。
父親の下着と一緒に自分の下着が洗濯されることに嫌悪感を抱く娘も少なくないと聞く。
にもかかわらずイコは矢井田の汗がべっとりとついたタオルを使って自分の顔を拭いた。
躊躇う様子は一切なかった。
「もしかしてもっとタオル使いたかった?」
はい、とタオルを差し出してくる。
イコの使用済みタオルだ。
(使っていいんだろうか)
躊躇っているとイコがムスッとする。
「まさか私の汗が気持ち悪いとでも?」
「えっ、いやそういう訳じゃ……」
「ヤイダみたいなおっさんと違って、私みたいなスーパー美少女の汗は貴重だよっ」
彼女が言う通りではあるが、だからこそ余計に分からない。
イコが矢井田の汗が染み込んだタオルを使った理由も、彼女の汗が染み込んだタオルを渡してきた理由も。
「うりゃうりゃー」
業を煮やしたのか、イコが強引に矢井田の頭にタオルを被せてくる。
ほんのり彼女の匂いがする気がした。
「イコちゃんってそういう感じの子だったんだ……」
矢井田たち2人の様子を見て、女性スタッフが呆れていた。
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