第27話 嫌な夢

 昔から、コツコツした作業が好きだった。

 一つずつ丁寧に積み重ねて何かを生み出すことが好きだった。

 だからプログラマーという職は自分にとって天職だと思っていた。


「いつまでやってんだよ!」


 クソ上司の罵声が飛んでくる。

 せっかちな男だ。

 効率を追求し、コスパという単語を重要視している。


「お前は本当にどんくさいな」


 矢井田は確かにどんくさい。

 クソ上司が気に入るような要領のいい男ではないし、仕事が早いとは言えない。

 でも時間がかかっている理由は、矢井田の能力不足だけが原因ではなかった。


「まだテストが不十分で……」

「そんなのいらねーっつってんだろ! どれだけテストしたってバグはなくならない。細かいバグなんて無視して、致命的なエラーさえ防げればそれでいい」

「ですが……」


 現状では小さいバグが大量に潜んでいるはずだ。

 ユーザー側はそのバグにイライラさせられることだろう。

 単体では小さなバグでも、反応し合うことで致命的なバグに繋がる可能性もある。


「はぁ? 俺に口答えする気か? 無能なお前の面倒を見てやっているこの俺に」


 プログラマーにとってデバッグ作業は重要だ。

 パッと見では分からなかったとしても、実際に使用したときの品質に大きな差が出てくる。

 上司は間違っている。

 でも彼に反論することはできない。

 矢井田にはそれだけの実績や経験がないからだ。


「偉そうなこと言う暇があればさ、もっと自分のスキルを磨けよ。他のやつらより仕事が遅いの分かってるよな?」

「……」


 上司の言う通り、同僚と比べて仕事スピードが遅いのも事実。

 何も言い返せなくなった矢井田に上司が説教を始める。

 彼の説教は間違っていない。

 矢井田が自分の欠点だと思っているような部分や、上手くできなかったと思っているような部分をグサグサと指摘してくる。

 結局、説教は一時間も続いた。


「お前なぁ、これだけ怒ってもらえることをありがたいと思えよ? 俺じゃなかったら、お前みたいなやつはとっとと見捨てるのが普通だからな」

「はい、すみません。ありがとうございます」


 正しさという凶器でひたすら突き刺されて、心はすり減っていく。


「あぁ、そうだ。しょうもないテストに時間かけられるなら暇なんだろ? これお前がやっといて」

「えっ、これは……」


 上司が渡してきた仕事はかなり面倒なものだ。

 色んな部署に調整が必要だし、単純に手間がかかる。


「なんだ? まさか嫌なのか?」

「い、いえ、やらせてください」


 クドクドと説教されて反論の意志が完全になくなった状態だったから、頷くしかなかった。

 今日から帰るのが遅くなりそうだ。

 いつもは22時まで働いている。でも今日からしばらくは日をまたいで働く必要があるかもしれない。

 ちなみに定時は17時半が、残業代なんてものはもちろん出ない。




    ◆




「ハッ!?」


 周囲を見回す。

 見慣れた部屋だ。


「なんだ……夢か」


 嫌なものを見た。

 全身汗びっしょりだ。


「最悪の目覚めだな」


 思い出したくないことを思い出してしまった。

 幸先の悪い一日だ。


「……」


 ソファーに座ってぼーっとテレビを見る。

 朝食を作る必要があるのに腰が重たくて動けなかった。

 何をするでもなく時間がただ過ぎていく。

 玄関扉の鍵を開けて、イコがやってきた。


「あれ? 朝ごはんは?」


 イコは平日の朝はゆっくりしている時間がないらしく、矢井田の部屋には来ない。でも今日みたいな週末の場合は、いつも朝食を食べにくる。


「まだ作ってない」

「……ヤイダ、大丈夫?」

「あぁ」


 イコのためにも朝食を作ろうと、なんとか立ち上がって台所へと向かう。

 だが制止される。

 強引にソファーに座らされた。


「待って。今日は私が作る」


 イコの作った朝食は、意外なことに結構おいしかった。




    ◆




 朝食を食べ終えた後も、珍しいことにイコが食器を洗ってくれた。

 一通りの後片付けが終わる。

 イコはソファーに、矢井田の隣に座りながら言う。


「で?」


 その一言には「何があったのか話せ」という無言の圧力があった。


「大したことじゃない。嫌な夢を見ただけだ」

「夢?」

「前の職場時代の夢だ」

「あー、確かブラック企業で上司がクソ野郎なんだっけ」

「まぁ俺にも否はあったと思うが……」

「確かにヤイダはどんくさいからねぇ。私が上司でもヤイダのこと怒っちゃうかも」

「ぐっ」


(一回り以上年下の少女にどんくさいと言われる俺っていったい……)


「もう吹っ切れたと思っていたんだけど、そうでもなかったみたいだ」


 少し夢に見ただけで動揺している自分がいた。


「考え方を変えてみたら?」

「考え方を……変える?」

「ヤイダは心が疲弊して、仕事を止めて半分引きこもり状態をすることにもなった。すごく辛かったんだと思う。私にはその辛さがどれだけのものなのか想像もつかない。でもさ、一つだけ良いことがあるよ」

「良いことだと? そんなものはない」


 あのとき、完全に心を病んでいた。

 良いことなんて何一つなかった。


「私と出会えたこと」

「……は?」

「職場がブラック企業だったお陰で、上司がクソ野郎だったお陰で、この私に出会えた。私は感謝してる。ヤイダと出会えたから」


 イコは真剣な目をしていた。

 茶化したり、誤魔化そうとしている訳ではいらしい。

 本気でそう思っているようだ。

 呆れて肩の力が抜ける。


「本当に、羨ましくなるくらい自信満々だな」

「だって事実だから」


 確かにイコは物凄い美少女だ。

 自信満々ではあるが自信過剰ではない。


「私と出会えたことの価値は計り知れないよ。山ほどお釣りがくるね」


 これだけ自信たっぷりに言われたら、自分の悩みがちっぽけなものに思えてくる。


「そうだ! 嫌なことを思い出したのなら身体を動かして忘れようよ」


 名案だと顔を輝かせて、イコが提案する。


「ボルダリングデートしよう!」

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