第26話 ヤイダ摂取

 用事を済ませてマンションに帰ってくる。エレベーターに乗って10階の廊下に降りると、またイコが1001号室の玄関扉の前にいるのが見えた。

 最近会いに来なくなっていたからどうしているかと気になっていたが、またおかしなことになっている。

 今日はこの前とは違って眠ってはいないようだが、妙な恰好をして座り込んでいた。


 ブカブカな黒いスウェットを着ている。


(あれは俺のやつか? 確か捨てたはずなんだが……?)


 しかも青い歯ブラシを口に咥えている。


(あれも……俺が捨てたやつか?)


 なぜイコが持っていて、しかも咥えているのか。

 見当もつかない。


「ッ!」


 イコと目が合う。

 矢井田の存在に気がついたらしい。

 走ってくる。


「お、おい嘘だろ」


 歯ブラシを右手に持ちながら、全力でこっちに迫る。

 速度を緩める気配がない。

 案の定、その勢いのまま突進してくる。


「ぐっ」


 太ったおっさんと軽い女子高生。

 かなりの体重差があるとはいえ、速度をもってぶつかられると辛いものがある。


「ヤイダぁ~」


 逃がさないとでも言わんばかりにギュッと抱きしめてくる。


「汗臭いね」


 すんすんと体臭を嗅ぎ始めた。

 外出して歩いていたせいで少し汗をかいている。

 あまり嗅がれたくはない。


「ぉお~」

「わ、脇を嗅ぐな!」


 矢井田は男だ。

 女性ほど自分の臭いを嗅がれることに拒否感はないと思う。

 でも美少女な女子高生に脇の臭いを、しかも汗をかいて蒸れた脇の臭いを嗅がれたら平気ではいられない。

 グイっとイコの肩を押して距離をとった。


「どうしたんだ?」


 学校も休んでいるみたいだし、何かあったのかもしれない。


「すっごくヤイダに会いたくなった!」

「ん?」

「でもヤイダの家の鍵が閉まってて中に入れなくて、外で待ってたんだ」


 笑顔で告げられた。


(何かがおかしい。いや、何もかもがおかしい)


 とんでもない美少女女子高生が、自分に会いたいあまり外で待っていた。

 そんなことを言う男がいたらどう思うだろうか。

 妄想乙としか思わないはずだ。

 あるいは美人局の類を心配するかもしれない。

 あり得ないはずの状況が目の前にあった。


「合い鍵ちょうだい」

「な、なんでだよ」

「今日みたいにヤイダが家にいないときに会いたくなっても、ヤイダの家で待てるから」


 イコの目を見る。

 彼女は真っすぐに矢井田を見つめていた。

 嘘をついている様子はない。

 彼女は間違いなく本気で言っている。


「ねぇ、お願い」


 イコは隣に住むだけの他人だ。

 矢井田は独身のおっさんで、イコは美少女女子高生。

 そこに接点はない。

 家族でも恋人でもない相手に合い鍵なんて――。

 断られることが分かったのか、イコの目はうるうると悲し気だった。


「ま、まぁ勝手にあの部屋に入らないって約束してくれるならいいぞ」

「うん。約束するっ!」


(ちくしょう! 美少女ってのはズルいぜ)


 どんどんプライベートが彼女に侵食されている気がするが、まぁ仕方がないだろう。




    ◆




(やりづらい)


 何をするにもイコが傍にいた。

 お茶を入れるためにリビングからキッチンに移動すれば、親鳥の後ろにひっついているひな鳥みたいに、ひょこひょことついてくる。


「なんでついてくるんだ?」

「ダメ?」

「別にダメじゃあないが……」


 今日の彼女はおかしい。

 この前までは普通に同じ部屋で生活していただけだった。四六時中傍にいるなんてことはなかった。

 どうしたものかと悩んでいる内に便意を催してきて、トイレに向かう。


「まさかトイレまでついてくる気か?」

「ダメ?」

「ダメに決まってるだろ!」


 当たり前のように一緒にトイレに入って来ようとする。

 無理やり追い出してトイレの扉を閉めて鍵をかけた。

 完全なる個室だ。密室状態だ。


(これで安心して大便を――いや、違う!)


「イコ?」

「ん~、なに?」


(やっぱりか)


 彼女は扉のすぐ向こう側にいる。

 このままでは排泄の音が聞こえてしまう。


「あっちいけよ」

「えっ? イヤだけど」

「俺はこれからおっきい方をする。音を聞かれたくないから離れてくれ」

「えっ? イヤだけど」

「……イヤじゃなくて――」

「えっ? イヤだけど」


 まるで機械みたいに同じ返事をする。

 絶対に動かないという強い意志を感じた。

 イコを追い払うために下手に扉を開ければ、逆に中に入ってくる可能性がある。それだけは絶対に避けねばならない。


(仕方ない……か)


 もうあまり我慢もできない。

 暴発して爆音を出してしまうより、今の内に小さな音で済ませる方がマシだ。


「……」


 できるだけ音を立てないように集中しながら排泄した。

 美少女に排泄音を聞かれるという羞恥プレイ。

 得も言われぬ感覚だった。

 トイレの中を念入りにスプレーで消臭した後、スッキリした気分でトイレを出る。


「むぅ」


 イコが不満げに立っていた。


「全然聞こえなかった! トイレの中は消臭スプレーの匂いしかしないし!」

「そりゃ良かった」

「良くない! ヤイダのことは何でも知りたいの!」




    ◆




「ふぅ……」


 お風呂に浸かりながらひと息つく。

 ようやく心を休められる。


「そういえば、一番風呂は久しぶりだな」


 いつもは「私が一番じゃないとかあり得ない」とイコが主張して、彼女に一番風呂を譲っていた。

 でも今日はまだ入る気分じゃないそうで、先に入るように言われた。


 今日のイコはおかしい。

 元々自分勝手だし突拍子もないことばかりする子だったが、それにしても今日は特別におかしい。明らかに情緒が不安定になっている。

 しばらく会っていない内に何かがあったのだろうか。

 また学校で何かあったのだろうか。


「どうしたものか」


 イコは自信満々な少女に見える。

 でも精神的には脆いところがあるのかもしれない。

 半ば同棲のような生活をしている内に、彼女に対してかなり情が湧いている。

 もし彼女が何かに悩んでいるのなら力になってあげたいところだ。

 イコのことを考えながらしばらくお風呂に浸かった後、浴室から出る。


「お先」


 リビングでテレビを見ていた彼女は、矢井田がお風呂から出たことを知ると、即座にお風呂に入る準備を始めた。


「もうお風呂に入る気分になったのか?」


 さっきまで、まだお風呂に入るに気分じゃないと言っていた癖に、妙に入る気マンマンだ。


「うん、もうバッチリなったよ」


 待ちきれないとばかりに浴室へと向かっていった。


「あっ!?」


 急にイコが立ち止まる。


「最近、風呂掃除したのはいつ?」

「今日したばかりだな」

「ヤイダって浴槽に入る前に、身体洗ってる?」

「身体も頭も、全部一通り洗ってから入るぞ」

「ほほぅ……完ぺきだね」


 イコがおかしなことを気にしている。

 矢井田が先にお風呂に入ってしまったことで、色々と気になってしまったのかもしれない。

 女子高生なのだ。

 おっさんが入った後のお風呂に入るのは嫌で当然だ。


「いきなりお風呂に入られてたら、さすがに汚いからねー。口に入れたらお腹壊しそう」


 浴槽の水が口に入ることはまずない。

 水しぶきが入ってしまうようなことはあるかもしれないが微々たる量だ。

 だから口に入ったらどうなるかなんてわざわざ心配する必要はない。

 でもなぜかイコは心配している。

 彼女はどちらかと言えばズボラな人間だと思っていたが、もしかしたら意外と潔癖なところがあるのかもしれない。

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