第29話 クソ上司

 ボルダリングジムからの帰り道。

 隣に歩く少女に感謝の気持ちを伝えた。


「ありがとうな」


 新しいことに挑戦するのは凄く良い気分だった。

 前の職場のことを夢に見たせいで塞いでいた気持ちは、すっかり元通りになっている。

 これも全部、イコのお陰だ。


「良いってことよ」


 イコが快活な笑みを浮かべる。

 見ているこっちまで元気になった。

 駅について改札を渡る。

 赤いランプが点灯し、イコは改札にブロックされた。


「あれ?」


 どうやらICカードのチャージ金額が不足していたらしい。

 駅の券売機にチャージしに行った。

 何人か並んでいるからしばらく時間がかかりそうだ。

 特に何かするでもなく待っていると、後ろから声をかけられた。


「お前、矢井田か?」


 その声の持ち主は――矢井田が一番会いたくない相手だった。


「あ、ぁ」


 クソ上司だ。

 退職したっきり会っていなかったから2年ぶりの再会になる。

 全く想定もしていなかった最悪の再会。

 動揺してまともにあいさつをすることもできなかった。


「お前、太ったなぁ。一瞬誰だか分からなかったぞ」


 そのまま分からないでいてほしかった。


「随分楽しているみたいだな。まぁ俺みたいなちゃんとお前の面倒を見てやる奴もそういないだろうし仕方ないか」


(何が面倒を見るだ。好き放題説教したり、過度に仕事を押しつけてきたりしただけじゃないか)


 心の中の怒りを彼にぶつけることはできなかった。

 反抗するために必要な牙は、ポッキリとへし折られている。


「今はどこで働いてるんだ?」

「その、フリーの仕事をしてます」


 バ美肉Vtuberをやっています。

 とは当然言えない。


「おっ、丁度いいな」


 クソ上司がポンと手を叩いた。

 嫌な予感がする。

 彼がその仕草をしたときは、大概ロクでもないことを押しつけてくるのだ。


「戻ってこいよ」

「えっ?」

「人事に話を通しておくから、もう一回一緒に働こうぜ」


 何を言っているのか。

 なぜ矢井田が会社を辞めたのか考えたことがないのだろうか。


「最近ソフトの開発がちょっと上手くいってなくてなぁ。バグの多さが問題になってんだ」


 デバッグ作業を軽視した人物が、プロジェクトを仕切ればそうなるのは必然だ。

 完全に自業自得である。


「お前さぁ、そういうちんまい作業、好きだったよな?」


 呆れてしまう。

 矢井田がデバッグの重要性を説いたときにはバカにして、痛い目を見た今になっても、自分たちでなんとかしようとせずに押しつけようとしている。


「まさか嫌って言わないよな? あれだけ世話してやった恩を忘れるなよ?」


 一緒に働いていた頃のことを思い出してしまう。

 当時の矢井田は、彼に逆らうことができなかった。


「何も明日から来いって言ってる訳じゃない。お前にも都合があるだろうからな。来月から来てくれたらいいから」


 いつの間にか、クソ上司の中では決定事項になっている。


「事務所の場所は覚えているだろ? 来月の1日から来い」


 よろしく頼むわと言い残して、クソ上司は去っていった。


「……」


 頭がぐるぐるする。

 汗がとまらない。目まいがしてきた。

 気持ち悪い。

 平衡感覚がなくなっていく。


「お待たせ、ヤイダ」


 声がした。

 その声が誰のものか認識する前に、身体から力が抜けて視界が暗転した。




    ◆




 誰かが両手で、矢井田の右手をぎゅっと握りしめている。

 最初に認識したのは右手から感じる温かさだ。

 目を開ける。


「ここは……?」


 周囲を見回した。

 矢井田の部屋ではない。

 記憶にない場所だ。この感じは……病室か?


「ヤイダ!」


 右から声がした。

 気だるい身体を動かして彼女の方を向く。

 イコが矢井田の右手を握りしめていた。

 その綺麗で大きな瞳が涙で潤んでいる。


「俺は……倒れたのか?」


 状況が少しずつ分かってきた。

 クソ上司と再会して復職を要求された。

 精神的ストレスが限界を超えたのだろう。

 駅の改札前で、意識を失って倒れてしまったのだ。


「ヤイダぁ……良かった、良かったよぉ」


 矢井田が意識を取り戻したことが分かって安心したのか、イコがわんわんと泣き始めた。


「泣くやつがあるか」

「だ、だっていきなりヤイダが倒れて……死んじゃうかと思った!」

「大げさだなぁ」


 いや、そうじゃない。

 彼女はまだ高校生だ。

 今こうして病室にいるということは救急車で運ばれたのだろう。一緒にいた人が駅前で倒れて救急車で運ばれるとなれば、大人でもかなり動揺する。こどもの彼女には相当な心理的負担があったに違いない。

 言うべきことは一つだ。


「ありがとう」

「ま、まぁ当然のことをしただけだし?」

「イコが傍にいてくれて良かった」

「~~ッ!?」


 イコが照れている。

 真っ赤な顔をベッドに埋めて隠していた。

 可愛い。




    ◆




 発券機でチャージをしていたイコは、クソ上司とのやり取りは聞こえていなかったらしい。

 知り合いと話しているのかなと思って遠巻きに見ていたら、いきなり倒れてそれはもう焦ったとのことだ。


「よし、私が殴り込んで断ってきてあげる」


 クソ上司と話した内容をイコに伝えると矢井田のために怒ってくれた。

 立ち上がり、今から文句を言ってくると病室を去ろうとする。

 彼女が本当に行動に移せば余計にややこしくなってしまうため、慌てて制止した。


「ちゃ、ちゃんと俺から断っておくから」

「本当に?」

「もちろんだ。二度とあそこで働く気はない」

「でもヤイダって意気地なしじゃん」

「ぐっ」


 クソ上司を前にして本当にちゃんと断れるのだろうか。

 自信が持てなかった。


「ちゃんと断るから……少し時間が欲しい」

「えー? とっとと電話するなりして断った方がいいと思うけどなぁ」


 なぜかクソ上司は矢井田が従って復職すると思い込んでいる。

 なるべく早く断った方が後腐れがないだろう。

 そんなことは分かっている。

 でも自分が思っていた以上に、前職のことを、クソ上司のことを引きずっていたらしい。

 目の前の壁を乗り越える気力が、どこかに消えてしまっていた。


(情けない男だ)


 クソ上司と少し会話をしただけで、こうして何もできなくなってしまった。

 きっとイコも呆れているだろう。


「前から思ってたけどさぁ、ヤイダはもっと自信を持ちなよ。嫌なら嫌って言わなきゃ。そうじゃなきゃ、また倒れちゃうよ? 今度はほんとに死んじゃうかも」


 素直に嫌なことを嫌だと言える性格なら苦労はしていない。

 そもそも前職で心を病む前に、クソ上司と争うなり退職するなりできただろう。


「そういうの苦手なんだ。仕方ないだろ」

「ヤイダが仕方ないなって私に言ってくれることは好き。私を甘やかしてくれてるって分かるから。でも今みたいな状況で仕方ないってなるのは逃げだと思う」


 全くもってその通りだ。

 嫌なことから逃げてばかりの人生。

 否定のしようがないイコの正論が心を抉る。


(正論は……嫌いだ)


「鬱陶しい」

「はぁ!? この私が慰めてあげてるのにその言い方はないでしょ」

「何が慰めだ。ただの説教じゃないか」

「私はヤイダのことを思って――」


 ――俺はお前のために怒ってあげてるんだぞ。ありがたく思えよ。


 クソ上司に何度も言われた言葉が脳裏によぎった。


「出て行け」

「……えっ?」

「頼む。今すぐ俺の前から消えてくれ」


 このまま一緒にいると、クソ上司と重ねてイコのことを嫌いになってしまいそうだった。

 イコは悲しそうな顔で何か言いたげにしていたが、結局何も言わないまま病室を出て行った。


「はぁ……」


 ため息が出る。

 心配してくれた少女に対して、酷い八つ当たりだ。


「俺はダサいなぁ」

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