『攻殻機動隊 SAC_2045』アニメ評 何を語れるかより何を語れないかで自分を語れよ
素晴らしいアニメだった。まず、そのことを確認しておこう。人は何が嫌いかより何が好きかで自分を語るべきである。素晴らしいアニメだった。しかし、また同時に、その素晴らしさは残念ながら、本当に後半になってからしか訪れない。そのことも確認しておこう。人は存在の分析の前に分析の当為を語るべきである。
体験から始めよう。このアニメはNetflixで配信されたものであり、そして、第一シーズンと第二シーズンの配信の間には大きな空白があった。第二シーズンの配信開始前には、第一シーズンを再編成した劇場版が配給されたほどであった。そして、私はその長い時間に、さらに、時間を追加した。このアニメの素晴らしさが、本当に後半になってからしか訪れなかったためだ。第一シーズンを観たあと、私はこの作品に失望し、第二シーズンが配信されるようになってからも、しばらく視聴を開始しなかった。ただなんとはなしに、いよいよNetflixに月々千円以上払いながら、観るものを思いつかなかったので、視聴し始めた。そして素晴らしさが訪れ、こうして、今、批評を試みている。
既に全編を観た私は、この作品の制作陣は間違いを犯さなかったと、ここに書こう。後半において提起された問いと、その答えが、前半の「退屈さ」を説明しているのである。彼らは正しいことをした。ただ本当に第一シーズンはしんどかった……。
公安九課は既に、私が知っている限り、人工生命、セクサロイド製造企業、厚生労働省の官僚、防衛省の官僚、大陸浪人、放火魔などと戦ってきた。『攻殻機動隊 SAC_2045』で彼らが戦うのは、超能力者である。これは作中ではポスト・ヒューマンと呼称されている。
もちろん、これはレイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマンの誕生』に由来していると推測できる。あらすじを書くと同時に、このことを説明しておこう。このアニメのポスト・ヒューマンは、人間の産み出した高度に発達した人工知能が人間を改造して作り出したものである。この人工知能は作中、北米大陸の内戦後に誕生した「米帝」の作り出したものである。人工知能は米帝から世界の持続可能性と米帝の覇権を同時に達成するような国際戦略を立案するように要求される。この解答不可能な問いに答えるために、人工知能はポスト・ヒューマンを作り出す。人間社会が前提していないあまりにも高い能力を有するポスト・ヒューマンは既存の社会秩序と対立することになり、ひいては公安九課と対立することになる。
この作品について語ろうとすれば、まず誰もが真っ先に取り組もうとする謎は、結局、物語の最後、少佐こと草薙素子はどのような選択をしたのか、ということだろう。しかし、これは撒き餌である。実際、あれは謎でも何でもない。あれは、ただ、記述できないから記述しなかったという、それだけのことなのである。つまり、私が言いたいのは、あの場面について語るならば、あの場面で何が行われたか、少佐がどのような選択をしたかということではなく、どのような選択をしたのか何故描かなかったのかという謎を解くような形で語るべきである。
それよりも私は、上記の「正しい」疑問と同時に、より大きな問題のほうを考えてみたいのである。少佐の選択の謎は、その問題を解くために解かれるだろう。その問題とはすなわち、トグサは刑事を殺したのか、トグサはどうやって生き残ったのかということである。
私は、トグサは自分の仲間である刑事を射殺して生き残ったのではないかと言っているのである。それは、まさにあのアニメの結末のために、そう言えるのである。そして、そのように言うことで、何故、少佐の選択が描かれなかったのか、ひいてはこのアニメは優れていると、この私があなたに言うことができるようになる。
シーズン1の最終話でトグサはトラックに乗り込んで何処かへと消え去る。これはポスト・ヒューマンの能力のためである。攻殻機動隊と言えば、「ゴーストハック」や「俺の視界を盗みやがったな」や「今来須!」や「てめぇの半端な電脳を恨みな」といった台詞に象徴されるように、SF的な設定で説明される他人の意識の操作であるが、『SAC_2045』ではポスト・ヒューマンがトグサを操作する。
シーズン2では些か唐突にトグサの、公安九課に参加する前の任務についてのエピソードが始まる。トグサはそれが過去の話、想起であることを理解しており、自分がどういう状況にあるのかを予め、しかし「半端」に知っている。彼はある犯罪組織に潜入しているが、やがて潜入捜査官ではないかと疑われる。そしてトグサは選択を迫られる。同じように、しかし別の法執行機関からの潜入捜査官と疑われている男がおり、自分の疑念を晴らしたいのならば、その男を殺すようにと命令される。トグサはこれを英雄的に拒否し、刑事とともに組織の施設から逃亡する。ここまではトグサも「覚えている」。しかし、そこからどうやって、何の装備もなく、敵に追われながら、生き延びたのかを思い出すことができない。彼をこの不可解なフラッシュバックから救うのは、『攻殻機動隊』作品には些か相応しくない、少佐の叱咤激励の言葉の想起である。
私はこれは『二重思考』であると、今、ここに記そう。そう、作品中では描写されていないが、トグサは物理現実においては、「事実」においては、刑事を殺して、自分の潜入捜査を続行したのだ。
このことは次の二点によって、説明することができる。その二点についてあなたが理解すれば、あなたはトグサが刑事を殺していなければ、このアニメが成立しないことを理解するだろう。
第一に、シーズン2のトグサの潜入捜査のエピソードは些か信頼できない語り手、視点から描かれている。過去回想が終了すると、トグサは電車で今一度、あの刑事に会い、さらに電車から降りて、神山健治の師匠である押井守の作品世界を思わせるような寂れた煙草屋に辿り着き、そこから公衆電話で公安九課に生存していることを報告する。
第二に、これがこの文章の本論なのだが、アニメのラスト、少佐の選択が描写されなかったためである。どういうことか?
問題の「少佐の選択」のシーンについて、少し詳しく説明しよう。ポスト・ヒューマンはついに自分の目的を達成する。彼の目的はユートピアの実現だった。彼はポスト・ヒューマンとしての高い「意識の操作」能力を全人類にまで及ぼし、ユートピアを実現する。それはどのようなユートピアかと言えば、作中の言葉で言えば「摩擦係数ゼロの世界」である。ポスト・ヒューマンが少佐を案内するユートピア世界では、人々の欲望は全て、例外なく、実現している。ただし、そこでは主観世界と客観世界は(ポスト・ヒューマンの能力によって)分離されている。人々は(作中での描写を見る限り)それぞれ社会の再生産を担う労働に引き続き従事しながらも、しかしそれぞれの欲望が十全に実現された世界を生きている。つまり、あなたは甘美な白昼夢か、面白い映画かアニメ、Vtuberの配信を見ながら、あるいは冷えたオフィスでのシンボリックアナリストとしての仕事で褒め称えられながら、あるいは(デヴィッド・グレーバーが有り難くもブルシットジョブに従事するシンボリックアナリストが嫉妬していると分析してくださった)エッセンシャルワーカーとしての本来的な価値が認められながら、しかし物理的現実としては、全く何も起きていない、ただ生産活動だけがあるような世界に生きることになる。これがポスト・ヒューマンによるユートピアであり、ポスト・ヒューマンが言うところの「二重思考」、その応用である。
あなたは既に、映画『マトリックス』のことを考えているし、『ハーモニー』のことを考えている。または、それは実にトラディショナルなSFの再演だと思っている。あなたは正しいが、間違っている。このアニメでは、ポスト・ヒューマンがそのようなユートピアを実現できたのは、人類が二重思考をするようになったからと説明されているのである。
摩擦係数ゼロの世界はポスト・ヒューマンが作り出したのではない。そうではなく、既に作られつつあったそれを、ポスト・ヒューマンが完成しただけなのだ。
少佐の選択については、既に殆ど明らかであるが、このアニメが完全な二重思考に覆われた世界、完成された摩擦係数ゼロの世界をどのように描いているのか見てみよう。
ここで非常に面白いのは、その世界には一見して、以前の世界と何の変化もないということである。ただし、少佐が職場に行けば、課長は上層部からの正当な評価に喜び、隊員は朗らかに「次の事件」に向けて準備をしており、さらには死んだはずの隊員までもが――死者が蘇ったというのに! 誰にも何の葛藤も引き起こすことなく、受け入れられている。さらにまた、ポスト・ヒューマンの台詞を参照するならば、世界ではポスト・ヒューマンによるユートピアの実現を阻止したと思っている人々と実現したと思っている人々が共存して暮らしているのである。
ついに我々は少佐の選択について、それがどのようなものだったかを想像できるようになる。少佐はポスト・ヒューマンによるユートピアを見た後で、それを破壊するか否かの選択を迫られる。さて、彼女はどうしたか。そのシーンはカットされて、我々は少佐がまた、これまでの『攻殻機動隊』の映画、アニメシリーズと同様に摩天楼から地の底へと飛翔するのを見ることになり、そして『攻殻機動隊 SAC_2045』は終わる。この間に、彼女は間違いなく、ポスト・ヒューマンによるユートピアを破壊しないという選択したであろう。あなたはこのアニメのタイトルを思い出すべきである。2045年とは、『ポスト・ヒューマンの誕生』を書いた未来学者レイ・カーツワイルが人間の終わりの年として予想した年なのである。彼の言う人間の終わりとは、人間が人間よりも高次の知性を作り出すことであった。しかもそれは、単にその高次の知性に支配されるといった三流SFではなく、その知性は自らを作り出した人間のように自身よりも高次の知性を作り出せるであろうから、さらに高次の知性を作り出し、そしてその知性もまた……という知性による知性の構築と自身の無価値化の爆発的な連鎖によって歴史そのものが終わるという、世俗化された終末論である。このアニメはそのタイトルからして、少佐の敗北を示唆していた。そして実際、彼女は敗北したのである。何故なら、彼女もまた、摩擦係数ゼロの世界を目指していたからだ。そもそも、攻殻機動隊とは、「犯罪の芽を未然に摘むために組織された、内閣総理大臣直轄の防諜機関」であった。人々が自己の欲望を十全に叶えつつ、しかし文明の再生産が可能になったのならば、そんな機関に存在意義などない。今や、人々が無限の欲望に基づいて有限の資源を奪い合う歴史としての人類史は、終わったのであり、そして、少佐は敗北した。
しかし、私はまだ、少佐の選択がなぜ描かれなかったということについては解答していない。その問題は、トグサが刑事を殺しているということの証明の後で、取り組むことにしよう。
あなたは、いい加減に、私がトグサは本当は刑事を殺していたと繰り返し主張すること、そのことに拘泥することにうんざりしている。しかし「人間の解剖は猿の解剖のための、一つの鍵である」。ポスト・ヒューマンが「旧」人類に対して指摘した、二重思考は実現しつつあったという指摘がトグサにも適用されるとすれば、トグサの、あのシーズン2で展開される不可思議なエピソードがこの作品における「二重思考」というものを詳らかにするであろう。
さて、あなたが考えなければならないのは、二重思考の完全に実現したユートピアの不可欠な条件は何かということである。
これは簡単で、ユートピアの起源の認識を忘却すること、消し去ることである。もしそれが想起されたのならば、ユートピアは崩壊する。人々にポスト・ヒューマンの誕生を要求させるほどに限界状態にある文明を、このユートピアは延命しているのだから。
これが二重思考の秘密であり、トグサの秘密であり、そして文明の秘密である。起源を忘却すること――。抹消し、修正すること。まさにそれによってこそ、秩序が可能になり、革命は不可能になる。
トグサは、自分が刑事を殺したということを忘却することによって、その歴史を修正することによって、少佐に引き抜かれた九課で唯一の「妻子持ち」で、情に厚い、地取り捜査の経験もある元刑事の特殊部隊隊員となったのである。だから、それは描かれることはなかったのであり、描かなかったアニメ製作者たちの判断は完全に正しい。
起源の忘却こそ、秩序だった世界に必要不可欠な条件である。もしも人々が世界の記憶を取り戻し、生活の全てにおいて、世界の記憶を味わうとすれば、文明は存在しえないだろう。あなたが日本円に触るたびに、西洋の資本主義を準備した本源的蓄積――歴史家エリック・ウィリアムズが指摘したような、黒人奴隷と砂糖と武器を商う大西洋奴隷三角貿易の歴史を味わうとしたら、あなたは明日にでも餓死するであろう。
私は、今や、自分の言葉に酔っているのか? しかし、あなたはあらゆる既存の秩序の崩壊に、まずは起源の(それが社会科学的に誤りであったとしても)想起があったことを想起するべきである。
例えば、ジャン・ジャック・ルソーがフランス革命を理論的に準備したと言われるのは、社会の起源を記述したからであり、あるいは、マルコムXはそのアジテーションで常に米国の黒人の起源を説明した。
または、その逆に、忘却による秩序の生成も、我々は見ることができる。例えば、アメリカ合衆国はどうだろうか? あの国の南北戦争は、既に私が南(部)北(部)戦争と書いたように、今では内戦と理解されているが、そもそもは、アメリカ合衆国とアメリカ連合国の、主権国家同士の戦争だった(それを「内戦だった」と修正し、「想像の共同体」を可能にしたのが出版文化であるというのがベネディクト・アンダーソンの指摘である)。
つまり、私はトグサが刑事を殺したということを徹底的に描かないことによって、逆説的に、トグサが刑事を殺して生き延びて公安に引き抜かれて特殊部隊隊員になれたという、暗黒の歴史が徹底的に描かれていると言っているのである。それゆえに、このアニメは傑作と言ってよい。
さて、私は最後に少佐の選択が描かれなかった理由について書くことで、この文章を終わらせよう。もちろん、それは何かを描くために描かれなかったのである。
あなたは、まだ、文明の生成に不可避の二重思考という枠組みを使うことができる。少佐の選択が描かれなかったのは、こういうことだ。つまり、それは、フランス革命がヴァンデ戦争(『ヴァンデ戦争 ――フランス革命を問い直す』を読むこと)を忘れることで共和国と第一帝政を打ち立てたように、あるいはアメリカ合衆国がアメリカ連合国を忘却して、内戦の記憶を作り出したように、ポスト・ヒューマンのユートピアが実現するためには、抹消されなくてはならないシーンだった。
かくして起源が完璧に抹消され、ポスト・ヒューマンによるユートピアが盤石のものとなり、我々にはもう未来はない。そもそも、未来は、よく忘れることのできる者たちのものである。誰が文明の起源を明らかにできたか? 我々は既にポスト・ヒューマンによるユートピアの中にいる。だからポスト・ヒューマンは勝利した。その現実を、ここまで描くことのできたこの作品はシーズン1の退屈さを遡及的に、必要不可欠な退屈さに変える。間違いなく傑作だ。そして、このクオリティで「現実」を描きつつ、最後には希望の僅かの香りを残す。
「忘れないで。私たちがこの時代に存在していたことを」
未来はない。では、過去に行くべき時である。あるいは、新しき人のために、過去を保存する作業の時間である。
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