『三体(三体、三体Ⅱ、三体Ⅲ)』書評 中国が水爆実験に成功したのは文化大革命の最中においてである

 読み終えて、これほど壮大なサイエンス・フィクションについて、何を言うことができるのかわからないという気持ちになったが、私は最高の映画評論家の思い出して、とりあえず書評を作ることにした。曰く「映画って、本当にいいもんですね」。これこそ、私が取り組むべきことである。私が「三体って、本当にいいもんですね」という、その「いいもん」という感覚を汗水垂らして、あなたに伝達する(という不可能な試みを試みる)ことである。これが、どれほどに壮大なサイエンス・フィクションであるかを、私があなたに伝達することである。

 バラク・オバマが現役の大統領であった時に、その労働のストレスをこの小説で癒やしたと言われるほどの、この小説の壮大さは何に由来し、我々を圧倒するのだろうか。あるいはまた、ある人々の不快感を惹起するのか? この問いを、私は、些かの強引さもなく、次のように変換することができる。

 何故、物語の最後に「彼ら」が生き残るのか? というのは、この巨大な叙事詩は「彼ら」が生き残り、彼らが観測することなしに、完結しなかったからである。逆に言えば、「彼ら」には何故、それほどの地位が与えられたのだろうか。例えば、『三体』と『三体』以外の劉慈欣の作品を読めばわかるように、彼は必要があれば、蟻にすら語らせることができる作家である。つまり、単に語り部、叙述する視点の確保ということでは、人間である「彼ら」の必然性は説明できない。だから、この問いに答えることができれば、「彼ら」の生存によって成立する「壮大さ」について説明することができよう。

 結論から言えば、それはこの作品が現代中国の社会主義の最もラディカルな部分の影響下にあると推察できるからであり、そしてその影響下においてサイエンス・フィクションは宗教(ところで、私はあらゆる信念体系は宗教であり、全ては宗教であるといった概念操作先行の議論には与しない。全てが宗教ならば、あえて宗教という概念を使う必要はなくなるのだから)の機能的等価物に限りなく近づくからである。ここでいう、最もラディカルな部分とは、単に、毛沢東主義のことではない。そうではなくて、プロレタリア文化大革命を発動するような毛沢東主義、しかし中華人民共和国を建設した毛沢東主義とそれと鬩ぎ合うようにして存在し続けている猛烈なエリート主義、テクノロジー重視の(人によっては鄧小平理論と言うだろう)姿勢の間の運動ということである。

 このことを証明するのに、私はそれほどの努力が必要であるとは思えない。あなたは既に、『三体』一巻を手に取り、半分ほど読んだ時点で、そのことに気づくべきある。

 物語は基本的に、地球人類が外宇宙にある全く別の文明「三体文明」と接触し、抗争し、さらに宇宙規模の生存闘争を行うことになるという話なのであるが、一巻では、この接触の発端が描かれている。

 三体文明は宇宙艦隊を作って地球へ派遣し、侵略しようとするのだが、このことの発端はある中国人女性科学者の行動のためであった。彼女は文化大革命で同じく科学者である父を失い、人類に絶望していた。彼女は西側資本主義に先んじて外宇宙人との接触を試みる基地に配属される。それは殆ど税金の浪費のようなプロジェクトであったが、彼女はついに三体文明からのメッセージを二件、受信することに成功する。二件目は三体文明の中の平和主義者からメッセージで、絶対に三体文明からのメッセージに応答するなというメッセージだった。三体文明は地球側からの応答から地球の正確な座標を割り出し、攻め込むつもりである。さて、彼女はそれを確認した上で、喜びとともに応答してしまう。

「来て! この世界の征服に手を貸してあげる。わたしたちの文明は、もう自分で自分の問題を解決できない。だから、あなたたちの力に介入してもらう必要がある。」

 以上のあらすじからもわかる通り、少なくとも表面的には、『三体』は、そして劉慈欣の作品一般には、プロレタリア文化大革命とプロレタリア文化大革命に代理表象されるような、移り気な大衆への嫌悪、批判というものが存在する。『三体』シリーズを通して、人類を救うのはプロレタリア文化大革命で否定されたような「科学者」であり、テクノクラートであり、スペシャリストであり、エリートたちであり、劉慈欣の作品を通して、いつも悲劇を引き起こすのは、無知蒙昧で感情的な大衆、人民なのである(『三体』の面壁者たちの末路、『流浪地球』の地球連合政府に対する陰謀論を信じ込んだ民衆の反乱を想起せよ)。

 しかし、私は既に、「『三体』一巻を手に取り、半分ほど読んだ時点で、そのことに気づくべきある」と書いたのだが、そのこととはつまり、何よりも毛沢東主義の影響のことである。

 わざわざ、あの分厚いハードカバーを取り出す必要はない。私の書いたあらすじを参照すればよい。プロレタリア文化大革命によって父を殺された女性科学者の、三体文明へのメッセージは、それ自体が極めて毛沢東主義的であると、私は言っているのだ。

 まず単純に読んでも、それは、あのボルシェヴィキが採った戦術である、革命的祖国敗北主義のテーゼに酷似しているし、また、毛沢東が日本軍を大陸から追い出し、続いて国民党を大陸から追い出した戦術の、まさに映し絵とも言えるのである。毛沢東は日本軍の大陸進出を巧みに利用して、国民党と日本軍をともに滅ぼしており、皮肉であるのか否かについての判断は留保するが、国民党と相討ちになってくれた日本軍への「感謝」を口にしていたという(遠藤誉『毛沢東 日本軍と共謀した男』)。

 ここまで読んで、あなたは人類が三体文明と戦うために採った戦略にもまた、毛沢東の影を感じることだろう。毛沢東は共産党と国民党、共産党と日本軍という枠組みでは戦わなかった。彼は、その敵を人民の海に沈めてきたのである。あたかも、人類が、三体文明が銀河の他の文明の海に沈められる恐怖を利用したようにして。

 以上のように、本作品は、少なくとも表面的にはプロレタリア文化大革命に代理表象されるような毛沢東主義を否定しているのだが、その根本において非常に毛沢東的な、毛沢東主義的なモチーフを利用しているのである。

 ただし、ここで思い出されなくてはいけないのは、同時に、劉慈欣という元発電所のシステムエンジニアの作家の作品では、基本的に(繰り返しになるが)人類を救うのはプロレタリア文化大革命で否定されたような「科学者」であり、テクノクラートであり、スペシャリストであり、エリートたちであるということだ。

 とはいえ、このような混交は劉慈欣という作家が中国において、異端的であることを意味しない。そもそも彼の作品は既に『人民文学』にすら掲載されており、彼は今や魯迅のように、国民作家なのである。

 そう、私が言いたいのは、その、これだ。中国社会主義のダイナミクスが毛沢東主義と鄧小平理論の間の闘争を意味するならば、劉慈欣は間違いなく正統な、中国社会主義の国民文学なのである。だから「人民文学」にも掲載されたのだろう。つまり、『三体』の(バラク・オバマを癒やした)壮大さは、明らかに正統な中国社会主義の想像力に由来しているのである。あなたは一国家の夢を見せられたために、『三体』に魅せられたのであり、あるいは嫌悪して、本を閉じたのだ。

 そして、この「中国社会主義の想像力」が結実したがために、最終巻の最後、「彼ら」が生き残り、さらに旅を続けるという形で物語は終わったのである。

 どういうことか? 劉慈欣はこの作品で以下のことに、同時に取り組まねばならなかった。第一に社会主義が無神論であり、反宗教であるということ、第二に人類・宇宙、そして宇宙を包含する世界というものの巨大な歴史の終わりまでを描くこと、そして第三にその中で最善を尽くそうと藻掻く「科学者」であり、テクノクラートであり、スペシャリストであり、エリートたちの個人史である。もしも宗教のモチーフが利用できれば、これは簡単な仕事であった(それを簡単にするのが宗教の偉大さであるのだから)。巨大な歴史の終わりは最後の審判であり、そしてそれまでの英雄的な個人の歴史は天国において永遠に顕彰されるのだから。

 しかし劉慈欣にとって、これはさほど困難な、葛藤を生み出す仕事ではなかっただろう。彼は中国国民文学の優秀な作家として、屈託なく神を擬人化し(『老神介護』)、伝統宗教を消滅させている(『流浪地球』)。そして『三体』では、彼は上記の全ての課題に、完璧に取り組んだ。『三体』は、こういって良ければ、中国社会主義の神話なのである。彼は独力で神話を作り出し、その営為が我々に「壮大」さの印象を刻み込む(「精神印章」……)。あらためて書く必要もないだろうが、だからこそ、最後に生き残り、全ての終わりを見届け、さらなる旅へと進んで神話を完結させるのは中国人のキャラクターなのである。これは、どうしても中国人である必要があったと、私はあえて書こう。何故なら、天国を持たない(ということは完璧な記録者である天使をも持たない)中国社会主義の夢は必然的に、記録を保持し、次に伝える人間の存在を無限に必要とするからである。

 あなたは、ここで、あの偉大なロシア革命初期の作家であるアンドレイ・プラトーノフが『永遠の生命』で次のように書いていたことを思い出してよい。「そしてぼくらは世界の目的のために、世界に対して自ら投降し、八つ裂きに引き裂かれもしようではないか。今や顕らかとなったその目的というのは――驚くべき唯一の理性ある心をもった、不死の人類の創造であ」る(アンドレイ・プラトーノフ『永遠の生命』)。

 以上、私はこの小説のこれほどまでの壮大さは、この作品が一つの中国社会主義の想像力の発露、それも宗教の機能的等価物を作り出そうとする発露であることを明らかにした。

 ところで、これは『飢餓ゲー批評』であり、私はまだ「飢餓ゲー批評」というプロジェクトが何かを説明していないのだが、ここでこの小論も飢餓ゲー批評であることを示すために、一つの問いを残して、文章を終わることにする。

 我々にはこの神話に対抗できる神話はまだ残されているだろうか?

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