第41話 行かなくちゃ


 誰かとの関わりを終わらせるのは重いものなのだと俺は思い知らされていた。足がトボトボとしか動かない。駅に降り商店街を歩き始めても、気の早いクリスマスソングが青空に流れても、一向に心は晴れなかった。

 家に帰れば隣にはうっかり関係してしまったばかりの夏芽が暮らしている。昨夜の互いの意図は不明だ。

 俺の心はどこにある。わからない。何かの勢いだったと、利用しただけだと言い訳するのか。今朝はなんだか幸せに布団にくるまっていた気がするが、夜が明けて俺は我に返ったらしい。そしてたぶん夏芽も。

 〈喫茶・天〉の前でふと立ち止まった。先生の容態はどうなったろうか。もう夏芽には連絡が入ったかもしれない。店のドアには「店主急病のためしばらく休業いたします」という昨日貼った紙がそのままだった。


 真っ直ぐ部屋に帰ってきてはみたが、夏芽の所在がわからなかった。アトリエをのぞけばよかったと少し後悔する。隣は静かだ。だが会っても何を言えばいい。

 部屋着に着替え、昨日もらった食材で何が作れるかと考えてみた。いやその前に台本チェックをしなくては。明日はレギュラーの吹き替えドラマが最終回の収録だ。

 ゴソゴソしていると隣で物音がし、鍵を開けたのが聞こえた。あいつ、いたのか。

 ドアは開いたがリリンというキーホルダーは鳴らない。ということは鍵を掛ける必要のない用事――だ。立ち上がったところでインターホンが押された。


「夏芽?」


 呼びながらドアを開けた。困ったような怒ったような顔で立っているのはどういう感情なんだろう。


「静かだから出かけたのかと思ってた」

「……ダルいって言ったでしょ」


 ムスッとうつむかれる。そういう苦情を直接言われると居たたまれない。


「ごめんて」

「先生、大丈夫だった」


 夏芽が突然言ってハッと息を飲んだ。


「……よかった」


 処置が早かったおかげだろうか。俺は心底安堵したのだが、夏芽はまだ迷うように目を揺らしていた。手招いたが夏芽はドアの内側に挟まるだけで三和土にも上がらなかった。


「命はとりとめた、てだけよ」

「でもよかった。人目のあるお店でだったから助かったのかな。運がいい」

「そう、ね」


 浮かべた笑みは苦しげだった。どうした。


「お店はどうするかわからないって」

「あ――ああ」

「私さ」


 夏芽は唇をとがらせて、拗ねた子どものようだ。だけど組み合わせた両手を強く握り、指がギュと白くなっていた。


「――もう先生にしがみつくのやめる」

「え」

「ちゃんとする。自分で逃げる」

「逃げる?」

「かがみん言ったでしょ。逃げていいって。八田の家は嫌いだから、戻らないで逃げる。けど、ここにはもういられない」


 なんだか悲しそうにつまらなそうに言う意味がわからない。


「いられないって、どうして」

「お店を閉めるなら、アトリエもなくなるかもしれないの」


 ――そうか。夏芽は居場所を失うんだ。

 あそこは先生が兄弟で受け継いできた店とアトリエだ。先生にお子さんはいないそうだし、元の経営者の兄の子どもたちも継ぐ気はないらしい。店だけを借りて利用してくれる人が現れない限り、売却して建て替えなんてこともあり得るのだった。

 夏芽にとっては金銭的な支えであり芸術家としての製作の場でもあった〈アトリエ喫茶・天〉。

 先生が与えてくれたものは大きすぎて、そのうえ才能を認め横暴な実家から守ってくれて。そうだよな、そりゃ恋い慕うのもわかる。


「ずうっと先生に甘えてたんだもん、そんなんじゃ駄目だよね。自分でなんとかしなきゃ」

「なんとかって、どうするんだよ」

「アトリエにできる所、探す。その近くで働ける所も見つけて」

「そんな急に」

「急でもないよ。しばらく考えてた。かがみんに先生のこと言われて、お兄ちゃんもうるさく連絡してくるようになって、私なにやってんのかなあって思ってた」


 俺。俺もか。バレバレだぞと注意したかっただけだが行く末を考えさせたのか。


「そしたら、これだもん。もうそういうことなんだよ。全部吹っ切れ、ていう時なんだよね」


 そう言う夏芽は笑ってみせたが、同時に泣きそうでもあった。


「夏――」

「私、先生んの子に生まれたかったなあ」


 俺に何も言わせずに夏芽は一歩下がる。ドアから入る空気が冷たかった。

 親から与えられなかった愛情の代わり。先生への思慕をそう規定してみせても真実はわからない。どんな感情だったのかなんて本人にも定かではないのだろう。人の心の在り方は一色ではないし一言に表せるものでもなかった。夏芽は奔放なふりで笑った。


「そういうの振り切るために利用したの。だから怒っていいよ」

「――怒らない。俺も助かったって言ったろ」

「そうなの?」

「ああ」


 俺も少し笑ってみせる。本当のことだから。

 美紗の拒絶と執着に傷つけられグズグズに崩れた俺をこねて形作ってくれたのは夏芽の手。あたたかい体。夏芽と溶け合いかけたことで俺は俺に戻れた。


「俺も、かなりキツかったんだ。利用したのは俺の方」

「――そ? じゃあ、いいのか」


 いい。

 ――のか?

 こうして互いに一歩ずつ下がって。あったことを有耶無耶にして。

 焦燥にかられた俺がしゃべるために息を吸った時、夏芽が先に口を開いた。


「でも私、かがみんのこと好きよ。こんな風に頼るくらいに」


 俺はまた何も言えなくなり夏芽を見つめる。あっさりと言い切る夏芽のがわからなくて。

 言葉としてのにこめられた心の重さを量りかね、受けとめかねて黙り込む俺を夏芽はどう思う。昨日の夜には泣いていて、なんとか俺が世界につなぎとめていたはずのこの女はどうしてこんなに強い。


「かがみんは、優しいね」


 微笑んでスルリとドアの向こうに消えた夏芽を俺は引き留められなかった。

 だから俺の言葉はどこにある。俺に言えることはなんだ。いいかげんにしろよ。動け、口。

 焦っても声は出てこなくて、俺はピクリともできなくて、そのうちに隣のドアが閉まり、鍵が掛けられた。


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