第40話 あとの始末を
明くる朝は十時に仕事だった。また気持ちがぐちゃぐちゃになりかねない状況ではあったが、俺はなんだか静穏で満ち足りていた。
「仕事あるから出るよ」
そう夏芽にささやいた時、まだ部屋は暗かった。青白い薄明が窓から漂う。夜早いうちにあんなことになだれ込みそのまま寝入ってしまった俺たちはもうなんとなく目を覚ましていて互いにぼんやりと考え事をしているのが伝わっていた。
昨夜のあれがなんだったのか、どういう意味を持つものなのか、二人で話さないといけないのかもしれない。だけど少し時間がほしかった。
「ん……」
曖昧に返事した夏芽はもう泣いていなくて、むしろ微笑んでいて、それが嬉しい。嬉しいと感じる心は俺のものだ、とまた一つ確認した。
俺は最低限のものだけ身に着けて隣に帰りシャワーだのなんだのを済ませたが、俺が家を出る時間には夏芽の方でも動いている気配がした。ちゃんと起きられたんだと安心した。
「おはようございます各務さん。舞台、本村がほめてましたよ! やっぱり私も観ればよかったです」
「そんなことは。ジョーカさんの演出と他の俳優さん方のおかげですから」
今日は座間さんが入れてくれたアニメ。まだまだ動画に慣れるために勉強中の若葉マークなので気が抜けない。スタジオ内での立ち位置にも戸惑いがちだったが中に入ると浦さんが座っていて、あ、と手招きしてくれたのがありがたかった。
「公演お疲れさまでした」
「いえ、ご来場ありがとうございました」
「あのお祖母ちゃんやられた方、調べたらまだ五十代なんですね。すごかったです」
「二ノ宮さんね……」
苦笑いしてしまう。舞台に生き、芸を楽しんでいるあの人には困らされたが、凄みは感じた。裏の素顔を見ていない浦さんにもそれは伝わったらしい。
「ああいうのできたら、長く生き残れますかね。私チャワチャワと子ダヌキ役とかやってますけど。そんなの
「あ、ええと……」
「すみません、朝から毒吐きました」
隣に座っての小声ではあるがスタジオ内でそれは。慌てる俺に申し訳なさそうにして浦さんは口をつぐんだ。たぶん何か去就について思うことがあるんだろう。一度デビューしたからといってそのまま声優としてやっていける人の方が少ないのだから。
この人は美紗と同い年ぐらいかな、とチラ見した。やはり考える頃合いなのか。
美紗に何か返信をと思っていたのはできていない。
ちゃんと向き合おうとした矢先に他の女と流される俺は大馬鹿野郎だ。どちらにも失礼極まりない。襲われたのは俺で、なし崩されたのも俺。だけど応えたのは俺だ。節操がないと非難されても仕方なかった。
仕事を終えてスタジオを出ながらスマホを確認した。事務所からは何もなし。メッセージを見ると美紗からも夏芽からも一通ずつ届いていた。ぶわ、と汗が出た。
「――はあぁ」
ため息が震えたのは自業自得だ。だけどなんだか怖い。
立ち止まって見上げた空に風が乾いていた。もうすぐ師走か。そんなことを思ったが、逃避していられないので迷った末に夏芽のから開いた。
〈ごぶさただったんでダルい〉
吹き出してしまった。あいつは。
「何言ってんだよ……」
とたんに気が楽になった。店は開けられないのだし今日はゆっくりしていればいい。先生のことは心配だろうが、俺にすがりついて何かしら変化はあっただろうか。
〈なんというか、ごめん〉
どうとも取れる言い方を俺は送信した。
ただ体を疲れさせたことについてか、流されて抱いたことか、気持ちはどこにあるのか。そんなことを何も言わずにおくのは自分でもわからないからだ。俺の心とは。スマホを握ってしばらく考え込んだ。
俺は夏芽をどう思っている。近所の犬のままなのか。
するとポコンとメッセージが返ってきた。目を落とすうちに続けざまもう一通受信。
〈私もごめん〉
〈利用して〉
凍りついた。これはやんわりした拒絶?
あくまで俺を便利に使っただけで、一晩だけの関係にすぎなくて、これから先どうこうという気はないのだと機先を制してきた、そういう意味にも取れる。
――まあそうなんだろう。夏芽が心を寄せるのは先生だ。その人が倒れたからといってそこは変わるものじゃない。なら何故俺に、といえばただそこにいたから助けを求めただけだ。俺だって同じく、グズグズに崩れた何かを夏芽の手で形作ってもらいたかったのかもしれなくて、そのおかげで今日は平らかだったじゃないか。傷つくのはお門違いだ。
いや傷ついたのか俺は。まずそこだ。そこでまた問いが元に戻る。俺は夏芽をどう思っている。
この先夏芽とどう接していけばいいのか。
向こうがどう考えているのか知らないが、大事なのは俺がどうしたいかだ。なのにそれがはっきりわからない俺がいる。仕方なく俺はせめてもの誠意を送信した。
〈利用されたなんて思ってない
俺も助かった〉
〈ありがとう〉
すぐに既読はついた。だが待っても返信はなかった。だよな、俺が何に打ちのめされていて何故助かったのか夏芽は知らない。何も返せないだろう。それでいい。
そうしておいて俺は、美紗のトーク画面を開いた。一通の未読は。
〈悠貴がほしかった〉
「――」
激しく直接的な言葉に殴られた。美紗ならばもう少しやんわり言うと思っていた。
〈わたし〉
〈伝えられなくて〉
の続きがこれか。俺は瞠目した。情念。
美紗が火縄銃を持って追ってくるような気がして息が上がった。『
なんてずるい。そんな熱は感じさせなかったくせに、こうなってから開陳するのか。卑怯だ。
だがその怒りはぶつけてはいけないものだった。俺にも非がたんまりとあった。深呼吸してから数分考えた。
〈できない〉
〈悪かった〉
そう送った。
スマホをカバンに放り込み駅まで歩く。帰る電車の中で通知が鳴った気がした。
〈知ってる〉
〈さよなら〉
短いやりとりで俺たちは終わった。
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