第39話 二人の境界線
のろのろとしか進められなかった閉店作業をなんとかクリアし、置いておけなそうな食品を袋詰めして夏芽を連れ帰ったのは午後遅くなってからだ。すでに夕日の気配。なんて休日だろう。腹が減って死にそうだった。
夏芽は言葉少ない。やや白い顔をして、ゆっくりと歩いていた。その危うさに、倒れる前の美紗もこんなだったかもと想像して胸がつぶれた。俺は本当になんてことをしてきたんだ。
誰かと心をつなぐというのはこんなに難しく、悲しい。
一方通行でも相互でも、気持ちの行く先が突然に失われることはままあるのだった。こうして途方に暮れる心は放っておけば死んでしまうこともあるのだろう。
死にかけた美紗がどうなっているのか、夏芽はこれから死んでしまうのか、そして俺には何ができるのか。
とにかく夏芽を送り届けたらしばらく隣を気にしよう。それと、分けてもらった食材で何か食べたら美紗のトークをまた開こうと思った。俺からも何か言えることはないか考えなくてはいけない。
「ほら、鍵あるか」
夏芽の部屋の前で声を掛けたら夏芽は黙ってカバンの中を探った。取り出した鍵がリン、という。鍵穴に差そうとした手が止まってリリ、リリと鈴がうるさく鳴った。
「――」
俺は震える手を取って、一緒に鍵を開けた。ドアの中に夏芽を押し込む。俺は初めて隣の部屋に入り、狭い
「靴脱げ。おまえの分の食材これな。ちゃんと冷蔵庫に入れろ」
言う通りに夏芽は行動する。俺のところと左右が反対な部屋は、女にしては殺風景でガランとしていた。台所には夏芽が作ったのだろう器がいくつかあって、それだけが妙にいい物感がありアンバランスだった。
「ちゃんと何か食べろよ。俺も腹ペコだ」
なるべく明るく言って帰ろうとしたら、夏芽はこちらを見た。捨てられた犬の目。
「……作るから、食べてって」
拒否することはできなかった。
夏芽はちゃんと自炊しているみたいだ。肉を味付けるスパイスも生野菜にかけるドレッシングもちゃんとあって、朝仕掛けたのだろう予約炊飯で米も炊けた。味噌汁は出汁粉だったが作るだけ偉い。そんな風に食事の支度をするのを俺はながめていた。
ひとつひとつの動作を確かめるような夏芽。いつもの速さではないと思う。間違えないように危なくないように気をつけているのだろう姿が痛々しかった。
「いただきます」
「めしあがれ」
こんな風に挨拶して食べるのはいつぶりだろう。人の家で、人が作った食事。美紗の部屋には何か食べてから行き、何も食べずに出るのが普通だった。
いい器に盛られたご飯は美味しかった。夏芽の器ならちゃんと作った食事を盛りたいと考えたことを思い出した。こんな形で実現するなんて思わなかったけど。
ご馳走になったので皿を洗うと申し出てやらせてもらう。後ろでぼんやりしている夏芽が気になって手がすべりかけた。危ない。でも夏芽の方がもっとあやうくて怖い。
「――じゃあ」
手を拭いて、帰ろうかと夏芽に視線をやった。怯えを封じ込めたような無表情がずるかった。頭に手をやってモフった。
「大丈夫、先生元気になって戻るよ。しばらく休暇だと思ってアトリエに通えばいい。たくさん作れるぞ」
「――ん」
ポスンと肩に寄り掛かられた。あごと頬に髪がフワリとくすぐったい。美紗とはこんな風にしたことがなかったのに、彼女でもない女との方が近いなんて俺は何をしているんだろう。
「いっしょにいて」
「え、おい」
夏芽はギュと俺に腕を回す。肩から顔も上げずにねだられて俺はため息をついた。
「今度は俺が三和土か」
「……床でいいよ」
「寒いんですがそれは」
「布団あげる」
そこまで譲歩されて見捨てるのもどうしよう。困っていたら部屋の方に引っ張られた。
「え、そっち?」
「いっしょにいてってば」
待てよ一緒って一緒か。さすがにそれはと抵抗したが泣きそうな顔で抱きつかれた。どうすればいい。
ズルと崩れ落ちるのに巻き込まれながら床に座った。膝に乗られて手が俺の顔や首すじをなぞった。シャツの上から肩も、胸も。粘土をかたどる手つきのようだった。何を確かめられているんだ。
俺は粘土じゃなく血肉のある体。腕が首に回される。夏芽の腕は細いが強い。土をこねる腕が俺をとらえる。唇が寄せられ、ふさがれた。
あ、だめだ。
何年かぶりのキスで俺の理性が飛んだ。
流されてはいけないと胆に銘じたのではなかったのか。貸してもらった布団の中で俺はとろとろと考えた。
床ではなくベッドの上、夏芽の掛布団にくるまって、夏芽もその中に一緒で、肌がふれあっていて気持ちいい。こうしていると何も寒くなかった。
のら犬に噛まれたような久しぶりの口づけで俺の脳みそは痺れ、それに応えてしまった。むさぼるように。
二人して互いの体の形をなぞりあい、世界と自分との境界線を認識することでやっと自我を保った。小さくあえぐ声が泣いているようでたくさん泣かせてやりたくて強く抱きしめた。
夏芽と俺の体は混ざりそうで混ざらなくて二人はそれぞれに存在していて永遠に溶け合うことはないんだろう。俺たちは粘土と釉にはならず決して合一せず、でもだからこそ寄り掛かり合っていられた。
別個のものとしてあるからこそ、つながることもそれで満たされることもできる。だがつながって満たされたいのは俺も夏芽も、美紗も同じだったのを知り、そのギリギリのもろさと応えられなかった自分と応えた今とで背反に吐きそうだった。そのはけ口としてもまた夏芽を求めた。
俺も夏芽も今は流されることが必要で、こうなるのは単に必然だ。そう納得した。これはただ、そういうものなのだった。
「――ん」
身じろぎすると夏芽が薄く目を開けた。肩をなでるとそのまま眠る。力の抜けた顔だ。
こうして人肌を感じて横たわるのも久しくないことだった。その心地よさとそれにすがりたくなる自分とを眺め渡し泣きたくなった。流されてはいけなかったのに、流されてよかったと思ってしまうのが情けなかった。
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