第38話 崩れる


 リリリン、という鈴の音で俺は目を覚ました。夏芽が店に行く時間だった。劇団の公演中は気にしてやれなかったが、兄に負けずちゃんと働いているらしいとキーホルダーの音でわかった。

 今日の俺は休日。久しぶりに何も予定がない。千秋楽で打ち上がるのを前提に仕事を入れてもらえなかったのだとしたら気を回し過ぎだ。NGは入れていなかったのに。

 昨日は終始穏やかに飲んだ。家に帰るまでが公演です、と心に念じ続けていた。最後に醜態をさらしたくなかったから。

 公演中は精神の安寧を守るために放置しておいた美紗のトーク。確認しなくちゃいけないとは思っている。

 それでも見たくなくて俺は洗濯機を回し、先生の淹れるコーヒーとは比ぶべくもないインスタントをマグカップに注ぎ、その時を引き延ばした。だけどやることがなくなり、仕方なく俺はスマホを手に取った。

 未読は一通のまま。一口コーヒーを飲むと相変わらず旨くなかった。


〈伝えられなくて〉


 開くとそう、飛び込んできた。もう一口飲んでも美味しくない。少しさかのぼって読み直した。


〈つきあったのなら〉

〈気持ち、ないのおかしくない?〉

〈悠貴だからだよ〉

〈悠貴とつながりたかった〉

〈つながってたから〉

〈生きてたの〉

〈嫌だった?〉

〈うそだったんだ〉

〈切れてたのかな〉

〈さいしょから〉

〈私は〉

〈わたし〉

〈伝えられなくて〉


 そこでメッセージは途切れていた。俺が既読にしなかったからだ。


「――何をだよ」


 つぶやくと心がザワとした。知ってるだろう俺は。美紗がぶつけられなかった言葉。

 俺とのつながりがギリギリ世界とのつながりで、それは心でも体でも言えることで、それほど必死に求めていることを悟らせないようにうわべを取り繕っていたのは上っ面な俺の彼女として最高にお似合いだった。

 お似合い過ぎて俺たちは踏み込み合えず、何もさらけ出すことなく終わってしまった。いや、俺にはさらけ出すものすら何もなかった。空っぽだったから。


「――どうすりゃよかった」


 絞り出す声は苦しかった。ああこれも俺の言葉だなと思った。だけど本当に俺にできたことがあるのかわからなくて、こんなに俺に心の在りかを教えてくれた美紗なのに俺はなんてひどいんだろう。こうして未読のまま三日半放置したことも甘えでしかない。美紗ならば本番中なのをわかっているはずだというのは勝手な言い分だ。

 とはいえどんなに考えても俺が美紗にできることなんて思いつかない。俺は美紗のことを恋したり愛したりという存在として見られなかった。せいぜいが仲間。役者同士。ならば体の関係などつなげなきゃよかったのに流されたのが間違いだとのそしりは受ける。俺は馬鹿だ。

 でも〈つながっていたから生きていた〉なんて告白されたら戦慄する。傷つけたことについては喉が締めつけられる気分になるが、美紗と過ごしたすべての履歴を消去してしまいたいとも思った。

 きちんと読み直し考え直してみたら俺を鎧っていたブリックパックはあっさり潰れ俺は中身をぶちまけて形をなくした。やはり公演中に手をつけなくて正解だった。


「……出かけよ」


 もう部屋にはろくな食べ物もない。先生に朝昼兼用の何かを作ってもらい、帰りに買い物すればいい。そう思ったんだ。思ったのに。



 洗濯物を干してから俺はぶらぶらと部屋を出た。もう昼近い。駅の方に向かって歩き〈アトリエ喫茶・天〉にたどり着くと何故か〈close〉の札が出ていた。今日は定休日じゃないと思ったが。

 夏芽は出かけて行ったのだからアトリエかな、とドアの前で考えていたら店から人が出てきて俺を手招いた。白髪のご老人は熊田さんだった。


「夏芽ちゃんの友だちだったね?」

「……はあ。今日お店、休みなんですか」

「いいから入りな」


 迎え入れられた店内には夏芽だけだった。カウンターに座り込んで泣いていた。泣いて。


「え……おまえどうしたの」

がくさんが倒れたんだよ」


 熊田さんが困った顔で教えてくれた。いや岳さんて誰だ。俺はそんなこともわからないのだった。

 近づいた俺に気づいた夏芽が目を見開き、ポロポロと大粒の涙がこぼれた。座ったまま手を伸ばし俺のシャツをつかむとしゃくりあげる。さすがに振り払えなかった。


 岳さんとは先生の名前だった。

 今朝も店を開けたのだが、しばらくして胸を押さえてうずくまり救急車で搬送されたそうだ。つきそいは奥さんが行った。そういえばサイレンが聞こえたが、あれは先生を運ぶものだったのか。


「心臓の何かだろ。みんなのいる所で対応が早かったから、きっと助かる。でも夏芽ちゃんがこの通りで」


 夏芽は俺にしがみついたまま震えている。無理もないがこのままでは熊田さんも帰るに帰れなかった。俺は少し厳しく言った。


「しゃんとしろ。店の片づけしたか? 先生いないなら今日は休みにするしかないんだろ?」

「そうだよ、お店を閉めておいてって奥さんに頼まれたじゃないか」


 熊田さんも言ってくれる。体の弱い奥さんは取り乱しながらも夏芽に謝っていたそうだ。しばらくお店は開けられないだろうから働けなくて申し訳ないと。心臓発作を起こした人をすぐ復帰させるわけにはいかない。


「……うん。掃除、する」


 夏芽はズルズルと立ち上がった。俺のシャツは握られた形にすっかりシワになっていた。動き出した夏芽に熊田さんはホッとしたようだ。


「よかった。ああ悪かったね、お仕事とか大丈夫なの? 若い人に手間取らせちゃってすまなんだ」

「いえ、今日は休みで。ここで何か食べようと思ってたんですけど……」

「かがみん、食べに来たの?」


 キッチンに入った夏芽が顔を上げた。


「そうだけど」

「何か、つくる」

「え、いやいいよ。勝手にそんな」

「ああでも、生鮮食品はなんとかした方がいい。置いといても腐らせるから、夏芽ちゃんが持って帰るなりして処分しないと」


 とても現実的な提案を熊田さんがしてくれた。すぐにそんなところまで気が回るのは、さすがの人生経験。そんな熊田さんと俺で夏芽を手伝い、なんとか店を閉めた。


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