第42話 違う道


 それからも夏芽は何もなかったような顔で隣に暮らしていた。

 ばったり会えばこれまでと同じ軽いノリで話しかけてくる。だが俺の部屋には来ないし、俺も向こうに行ったりしない。

 喫茶店の仕事がないのに毎日出かけて行くのはアトリエを整理しているのだそうだ。作りかけの作品を焼き上げるのもその一環。すべてを移動できる状態にしなくちゃね、と寂しそうに首をすくめていた。


「だからしばらく新しい粘土はこねられなくて」


 それは少しかわいそうだが、本気の夏芽に対して俺は何もできなかった。

 整理と並行して移転先も探しているらしい。ろくろや窯は普通の室内に置けなくもないが、一部屋占領してしまうので都区内だと広さと家賃の兼ね合いで厳しいのだとか。

 ――本当に、出て行くのか。




 十二月になったある夜、橘さんと待ち合わせた。〈のみに行くぞ〉と呼び出されたのは以前聴きに行った寄席近くの居酒屋。今日も仕事帰りなのだろう。会うのは俺の舞台を観て難癖つけられて以来だった。


「よう」

「いきなり飲もうだなんて、なんです」

「冷たいな、後輩」


 店の前に現れた橘さんは寒そうにコートを着て縮こまっていた。外で立って待っていた俺の横を止まりもせずすり抜ける。


「さっさと酒であったまろうや」

「寒いのに冷たい後輩呼ぶんですね」


 仕方なく後について店に入った。威勢よく迎えられ「二人で」と指で示すとテーブル席に案内された。熱いおしぼりに懐くようにして顔を押さえた橘さんは熱燗を頼んでからやっと上着を脱ぐ。俺は焼酎のお湯割り。適当に焼き鳥や煮込みをみつくろった。


「だっておまえも彼女と別れたって言ってたからさ」


 落ち着いたところで言われたのは、何故俺を呼んだのかという問に答えてくれたらしい。というかツッコミ待ちだろう、これ。


「……別れたんですか?」

「うん」

「マジで彼女いたんですね」

「失礼か」

「すみません」


 悪いなんて欠片も思っていないが謝った。この間のことがあるのにフラれ仲間だから飲もうって、この人の神経がわからない。


「少し稽古にかまけてたら怒るとか、どうよ」

「……なんでそんな女と付き合ったんです」


 相手だってこの人が芸人だとわかっているだろうに。そこまで考えて、これも嘘かなと思った。適当に理由をつけて俺を呼び出すための。俺には橘さんが読みきれない。


「だよなあ」


 へへへ、と笑うとちょうど来た燗酒を注いで口に運び始めたので突き出しと漬け物を前に押しやった。


「つまみもなしに飲むと悪酔いしますよ」

「おまえは俺の女房か」

「怖いこと言わないで下さい」

「でも、おまえ俺のこと好きだろ」


 そう言った目はいつもの人を射るようなやつだ。

 透徹した突き詰める眼差しはいさぎよく、確かに俺が憧れたもの。芸に立ち向かう彼の姿勢とともに学生時代の道しるべだった。それを追うことはできなかったけど。


「――そうですね」

「おまえが俺の芸を見据えてるのは、俺だってわかってたよ」


 パリ、とぬか漬けの大根を噛みながら橘さんは猪口の中に目を落とす。


「そんならさ、きわめなきゃならないよなぁ」

「嘘ですよ。俺なんて関係なく、あなた噺家じゃないですか」


 後輩からの期待ごときでこの人が動くものか。橘さんはたたずまいも言葉も噺家だった。新歓で出会った時から。


「わかってんじゃん。んでおまえは、違う」

「――わかってます」


 俺は吐き捨てて焼酎をあおった。

 。わかっているけど、本人から直に言われるとなかなかにこたえるものがあった。

 俺は噺家じゃない、そうわかってしまったから橘さんみたいには生きなかったんだ。たまたまやってみた声優の仕事の方がすんなりなじんだ。何故か続いた。人には向き不向きってものがあって、俺にはよくわからないのにマネージャーも音響監督も俺を面白がってくれた。だけどさ。


「俺だって、橘さんみたいになりたかった」


 ムスッとにらんで言ってみた。これは俺の本当の言葉。口にしたことはないが、ずっと思っていたんだ。


「芸の道を行くとか格好いいでしょ。でも俺、なんか違うんですよ」

「そりゃそうだ、おまえ自分がないから」


 橘さんは目を細めて俺を見る。でも決して馬鹿にしたり値踏みしたりする視線ではなかった。珍しく、柔らかい。


「おまえはなんでも器用にコピーする。でもそこに味は出ない。そこにある噺を自分のもののようにしゃべるだけじゃ噺家にはならねんだと、おまえ見ててよくわかった」

「――ある程度、面白いんですけどね。それだけでした」

「なのにそれは演劇では強みだっただろ。ポイッとしゃべるセリフも立ち姿も、舞台にいるおまえはじゃない。こっちは必死こいて芸を磨き上げ高座に上がってるのに腹立ってしょうがねえわ」

「――」


 どうやら話は先日の舞台に戻ったようだ。俺のコンプレックスが、演じるという点では長所だと? 橘さんはグイと手の中の酒を飲み干すとお銚子を傾け空にした。ペースが早い。


「俺なんか、座布団の上で何を語っても俺でしかない。おまえみたいな器用な生き方できねえ」

「橘さん」

「くそ、芸ならおまえを突き放して上に行けるはずだったのに。おまえなんかさ」


 橘さんはくしゃ、と顔を歪めた。拗ねた子どものようだ。


「ずっと俺のこと見上げてればよかったのに。おまえからは尊敬されてなきゃ気が済まねえんだよ」

「――してるじゃないですか。ずっと」


 俺はめちゃくちゃ不機嫌な顔をしてみせた。

 俺が器用ってさあ、橘さん。あなたは不器用かもしれないが、それでいいじゃないか。一つの道を進んでいって。俺はそうはなれない。

 だけど俺のこと、橘さんはうらやんでくれるんだ。俺が橘さんをうらやむのと同様に。馬鹿かよ俺たち、たぶん互いに無いものねだりしているだけだった。


「――もう一本ですか」


 橘さんのお猪口が空になったのを見て俺は訊いた。つまらなそうにうなずいてくる。我が儘な先輩だ。


 俺たちは、しゃべるしかない。

 別々の道を行っているけれどそれでいいんだ。芸の道にはただひとつの正解も到達点もなかった。

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