第36話 俺は誰
「ミエを切るってなんです。そんなことしてませんよ」
喧嘩を売るような橘さんの物言いにも俺は抑えて返した。まだチラホラと他の客も残っているし言い争うわけにはいかない。
「いや歌舞伎ならナントカ屋! ってやってたわ。おまえの立ち姿は目ェ引くんだよ」
「ただ立ってるだけです」
「それがムカつくってんだ」
ケッと橘さんは吐き捨てた。
「――俺が何百回『
「かっさらう……?」
どうしたんだろう橘さんは。なんでそんな悔しげにするんだ。その場しのぎでしかない俺のアドリブなどに何がある。
「セリフだってそうだ。ヒョイとしゃべってるだけのくせしてなんか耳につくんだよ、おまえの声は!」
橘さんは小声だが語気荒く俺をにらんだ。言われる意味が理解できなくて俺はまじまじと見返した。だけど息が震えた。拳を強く握った。
ヒョイとしゃべるしかないのは俺がいつも卑屈になっている点だ。それを羨むのか。馬鹿げてる。あんたみたいに一つの道を行ける人の方がよっぽどすごいだろうが!
「あらあら、面白そう」
にらみ合いに割り込んできたのは二ノ宮さんだった。ハッと周りを見ると客はほとんどいない。そのぶん俺と橘さんのやり取りは目立っていて、大声でなくとも不穏だったのだろう。
「寄席っていうと、こちらのお兄さんはもしかして落語家さん? 芸について熱くなれるならこれから一緒に飲みに行こうか」
喪服の老婆の扮装のままでそんな誘いをされた橘さんが鼻白んだのがわかった。詰め物をした背を丸めヨタヨタと歩いてきたのはわざとだろう。あざといが俺たちを正気に戻すには十分だった。橘さんは急いで営業用の笑顔を貼り付けた。
「――こりゃすみません。ただの客がそんなわけにも。各務とはまたの機会に話しますわ」
「ああら若い男同士の葛藤なんて、いい酒のアテなのに」
「だからやめて下さいってば」
微笑んで秋波を送る二ノ宮さんに渋い顔をすると、それを見た橘さんが苦笑いした。毒気を抜かれた顔だ。
「おまえも苦労してるんじゃん」
「おやまあ失礼な。やっぱり飲もうかぁ、君」
「遠慮しときます」
ガ、と腕を取った二ノ宮さんの手を丁重に外した橘さんは、もう俺を一瞥もせずに出ていった。勝手が過ぎる客を見送り二ノ宮さんが笑い出す。俺は憮然と立ち尽くした。
「――すみません。見苦しいところを」
「いいのよお。あの彼、もがいてて尖っててかわいいね。ご飯三杯ぐらいいけるわ」
「いちいちツマミとかおかずにするんですね?」
「そういう栄養分で芝居するんでしょ、あたしたちは」
柔らかく笑った二ノ宮さんは魔女のように見えた。若い男の精気を吸い、芸に変えていく女優。あながち間違いでもない気がして冷や汗をかく。
楽屋に引っ込む二ノ宮さんの足取りは軽やかだ。そうやって何かを奪い取りながらでも生きていく姿勢はいっそ美しくて怖かった。
俺は今日も飲みに行かないことにした。行けるわけがない。美紗に加えて橘さんまで妙な言いがかりをつけてきやがって。ちょっとキツいので帰ると言ったら体調が悪いのかとジョーカさんに心配された。
「いえ。さっき来てた先輩だけじゃなく美紗からも恨み言がたくさん着信して」
「うわあ、マジ?」
「酒に飲まれそうな気分なので自粛します」
あと二日を無事に乗り切るのが第一目標だった。
二日目は
タヌキCMで組んだ浦さんがマチネを観に来てくれて、少し演劇の勉強をしたいかもと難しい顔で帰っていった。ソワレの方にはマネージャーの本村さんから席を押さえてと連絡があり受付にご招待をお願いした。でも客出しでまず声を掛けられたのは
「お疲れさまです各務さん。観に来ちゃいました」
「あれ。ええと、ありがとうございます。なんで」
「わりとみなさん舞台やられるじゃないですか。私、声優養成所出身で、なんかこう、幅が狭いような気がして焦ってて」
「ああ、はあ」
「昨日各務さんのセリフ聞いて、アニメっぽくなくてわざとらしくなくて、不思議だなって思ったんです」
外山さんは照れたように笑って誤魔化しながら言う。だけどたぶん真剣に悩んでいるのだろう。昨日の今日で来るって。ヒロインに入ったぐらいだからそれなりに仕事量もある中ギリギリ駆けつけてくれたはず。なんだか申し訳なくなった。
「……参考になりましたかね」
「あ、いろんな方がいらっしゃるなと思いました」
「うんまあ、生粋の舞台演劇の方も出てるし。まだ研究生もいたし」
「そうなんですか……各務さんは昨日の収録のとはぜんぜん違ってて……これ誰だろってなりました」
「はは」
俺は元が空っぽだから。どこかで見たもの聞いたものを詰め合わせてやっているだけなので、そうなるのも当たり前だ。
「遥平さんなんだからそれでいいんですよね。すごくおもしろかったです」
ペコリとして外山さんは帰っていった。なんだかわかったような顔だったが大丈夫なのだろうか。
「今のどこの事務所の子だっけか」
話し終わるのを見計らって本村さんが寄って来た。
「今度の春アニメで主役やる人です。昨日仕事で会った時に舞台のこと話して」
「へえ、勉強熱心だな」
「です。昼には浦さんも来ましたよ。本村さんこそ忙しいのにありがとうございます」
本当にありがたいことだった。俺はこんなにフラフラしていて自信がなくて自身もなくて、さらに今回はメンタルも豆腐だ。むしろ豆乳レベルに還元しているのを容れ物に充填して保っているような状態。俺の心の鎧はブリックパック製かもしれない。
「いや。観に来た甲斐があった。おまえ良くなってるよ」
「え……そうですか?」
うん、と本村さんはうなずいてくれる。
「各務くんの中に、別人を作れるようになってきてるだろ」
なんだそれは。
だろ、と言われても俺にはなんの実感もないのだった。
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