第35話 初日の魔物


 劇場に着く頃、雨は上がっていた。傘を閉じたままで姿を見せた俺に気づいて受付をセットしていた子たちが元気に挨拶してくれる。裏方もみんな高揚しているようだ。


「おはようございます! 雨やみましたか」

「うん、明るくなってきたよ」

「じゃあ傘袋いらないですかねえ」


 うなずき合ってゴソゴソとビニール袋を片付ける。天気がどれほど客足に影響するものか定かではないが、晴れている方がスタッフは楽だ。


「あ、各務さんの扱いで初日のチケット取り置き受けました。タチバナ様です」

「あ……ああ」


 虚を突かれて口ごもった。橘さん。お座敷落語の時にもうすぐ舞台だという話はしたが、劇団に直で連絡してくれたんだ。ていうか来るのか。


「ご招待ですか?」

「ん……いや、お金いただいて下さい」


 こっちも木戸銭払って寄席に行っているんだし遠慮することはない。少し売り上げに貢献してもらおう。

 楽屋に行ってみると本番の不思議な空気がただよっていた。浮わついているのに落ち着きもある。もうやることはやったという、諦念に似た感覚。ここからはタイムテーブルに従い体にプログラムしたことを繰り返すだけだった。

 舞台に上がり、軽く声出し。食事。メイクと着替え。舞台モニターには音響と照明のチェックの様子も映る。舞台監督は調光室や音響室や舞台、楽屋、受付までブラブラと回遊して問題が起こっていないか点検していた。

 開場前の楽屋で俺はスマホを取り出した。橘さんには客出しの時に会うだろうから俺にも何か言ってきているのか見ておいた方がいい。だが橘さんからは何もなかった。本当に直接劇団に問い合わせたんだな、あの人。

 美紗のトークに未読が一通あるのにも気づいた。だけど俺はそのままにしてスマホをしまった。


『開場しまーす!』


 モニターから瀬戸さんの声がした。初日が始まる。


 粛々と客入れが進み、ロビーではジョーカさんが生き生きとお客さまと話しているようだった。俺たちは楽屋のモニター越しに客席が埋まっていくのをチラ見していた。

 開演時間が近づき全員が持ち場に移動すると、舞台袖では小声の「よろしくお願いします」が飛び交う。予約客のほとんどが来場したことを受付で確認し戻った舞台監督瀬戸さんがインカムでつぶやいた。


「開演します」


 ブザーと共に客電が落ち、緞帳が上がる。


 客の質は良かった。くすぐれば笑ってくれるし引っ張れば固唾を呑んでくれる。ありがたい。俳優陣は少し調子に乗ったかもしれない。

 でも俺は淡々と、刷り込んだことを繰り返していた。心を揺るがせば何かが壊れると知っていた。自分が今本当は駄目なのだとわかっていた。

 なのにそれは起こった。

 三場の終わりのあたりだ。堀さん演じるレナが、遥平が幽霊かどうか確かめたくてぶつかりに来るシーン。


〈でもあの人誰からも見えてないっぽいしワンチャンそうかもしんないし……そだ、さわれるかどうかでわかるよね?〉

〈よ、よし、さりげにぶつかッ――!〉


 そこで堀さんは、ほんの少し浮いたパンチにつまずいた。

 いやマジでぶつかるぞ。

 本来のタイミングより早く俺に向かってつんのめった彼女を、俺はススッと避けた。今はまだ実体だと確信されるわけにいかないのだ。話が壊れる。

 避けた動きのままロビー外設定の下手しもて手前まで早足に出る。真後ろでレナがズベッと転んだ音がした。

 あーあ、と頭の片隅で思いながら、俺はそこに配置してあった落ち葉を拾いサス位置で立ち止まった。

 落ち葉を光に透かして立ち尽くすと同時にサスが軽く入り俺を照らした。照明オペレーター、アドリブに乗ってくるのか。

 俺は切なくため息をついて間を計る。遥平のもどかしい想いを仕草だけで表現して待っていると、後ろのレナがモゴモゴ言った。


〈マ、マジ? あ、当たらなかったぁ!〉


 本線になんとか復帰できただろうか。立ち位置が変わってしまったけど、どうやって戻ろう。

 それにしても白々しいな。叶わぬ恋の切なさなんて俺自身はまったく知らないことなのに。




「すみませんでした……」


 終演し幕を下ろした舞台の上で、堀さんは泣きそうになっていた。緞帳の向こうでは客がザワザワと立ち上がっている。俺はささやき返した。


「客出しだよ。ちゃんとお見送りしよう」

「はい……」

「ほら主役、早く行く!」


 母親役の乃木さんが肩を叩いた。語気は強いが笑顔だ。堀さんはグッと息を整えてうなずいた。

 出演者たちが足早に表へ向かう中、のんびりついていく俺に乃木さんが苦笑いした。


「アドリブお見事でした」

「なんとかつながったかなあ。死ぬかと思った」

「落ち着いてたじゃないですか」

「舞台上ってそんなもんじゃない?」


 どうにかしなきゃという時には反射神経だけで動くものだ。そしてそれがセリフとしては一言も出てこなかったのは、やはり俺。しゃべるのは苦手だ。

 劇場ロビーでは出演者それぞれの呼んだ客が楽しげに話していた。堀さんも友人に囲まれ「あんたマジでコケたでしょ」と爆笑されている。まあ失敗は笑い飛ばしてもらえた方がいい。

 俺も客たちと一言二言交わして来場の礼をしていたら橘さんが近づいてきた。いつもの鋭い目。


「よう」

「どうも。来ると思わなかったです」

「んー、おまえのこういう生モノ久しぶりに観ようかと」


 生モノね。確かに録音モノとは違う。


「主役派手にトチったな」

「バレます?」

「そりゃバレるわ」


 橘さんの目つきが険を含んだ。またジーンズのポケットに指を引っ掛けて斜に立つ。俺が着物でこの人がジーンズなのが普段の仕事着と逆でなんだかおかしかった。


「おまえやっぱムカつく」

「はい?」


 唐突にふて腐れたように言われて面食らった。


「なんでも器用にやりやがって。アドリブでスポットライト浴びて見得ミエ切ってんじゃねえよ」


 なんでも。器用に。

 冷水を浴びせられた気分になって俺は橘さんをにらみ返した。

 あんたがそれを言うのか。ただひとつの道を極めに行っているあんたが。そうできない俺に高みからご意見ってことなのか。


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