第33話 自傷
〈つきあったのなら〉
返信せず弁当を食べ終えたらもう一通着信していた。それを読んで放ったらかしたまま、俺はざっと衣装だけ羽織って場当たりに出た。実際の舞台で立ち位置や場面転換を音響照明と合わせる作業だ。そこから楽屋に戻ったら、またメッセージは増えていた。
〈気持ち、ないのおかしくない?〉
律儀に既読にしたが、これからゲネプロ。最終リハーサルは本番同様に進行させる。メイクと衣装を整え俺は舞台袖に入った。
今日が仕込みだということは美紗にもわかっているはず。日付がわからないほど錯乱しているのではないだろう、文面はまともだ。たぶん意図して今日送信している。俺に含むところがあって。
いいよ、それで。
美紗のこと俺はとても傷つけたんだし、やり返したければ受けとめる。俺が普通かおかしいかと問われればおかしいのだから。
だけど美紗が自分のおかしさを棚に上げるのは勝手だと思った。俺に踏み込んでこようとしなかったのは向こうも同じなのに一方的に傷ついたように振る舞うのはあくどい。これだから女はと考えかけるがそうではなく、美紗だからなのだ。おそらくすべて計算ずく。普通になれない自分をギリギリ常識人の範囲におさめて見せていたあいつだから、ちゃんとわかってやっているはずだった。
それでも遠慮がちな復讐だった。本番にぶつけてこないだけ気をつかっている。
だって本番は俺たちのものじゃない。お客さまがあってのものだ。それをブチ壊すなんてしたくないんだろう。皆で作り上げた舞台を壊すなんて。
美紗は、女優だから。
「
俺はそう宣言して早々に帰った。仕込みの日の飲みは仕込んで下さったスタッフの皆さんへの感謝の宴。乾杯ぐらいはするのが筋というものだが俺は逃げた。さすがに酒を入れたくなかったんだ、悪酔いしそうで。
だってゲネ後もメッセージは続いていた。
〈悠貴だからだよ〉
着替えて、メイクを落とし。
〈悠貴とつながりたかった〉
楽屋をチェックして明日の入り時間を確認し。
〈つながってたから〉
居酒屋を断って独り駅に向かうと雨が落ちてきて。
〈生きてたの〉
電車に乗り。
〈嫌だった?〉
黙々と美紗と向き合う。
〈うそだったんだ〉
既読がついたのを確認してから送られてくるメッセージ。
〈切れてたのかな〉
ちゃんと読んでるよ。
〈さいしょから〉
電車を降りて改札を出。
〈私は〉
雨の降る商店街を折り畳み傘でマンションまで歩いた。
〈わたし〉
外階段を二階に上がる途中で、怒鳴る声が聞こえた。男の声。この前聞いた声。
「……嘘だろ」
なんなんだ今日は。皆して勝手すぎるだろう。いい加減にしろよ。
「勝手ばかりしてないで家に戻れ! 好きに生きるなんて許されると思うなよ、いい加減にしろ!」
夏芽の部屋の閉まったドアの前。俺が考えたのと似たようなことを口にしているのは兄という男だ。そっちが言うのか。
クソほど腹が立ち、ゆらりと廊下に歩を進めたらこちらに視線がきた。さすがに外聞が悪いと考えたか、黙る。
「夏芽」
少し声を張って呼んだ。
たぶん部屋の中で怖くて丸まってるんだろう。この間の店でそうだったみたいに。
俺の声、聞こえるか。聞いてるか。
「通報していいよな?」
どうせスマホは手に持っていた。兄に見せるようにかざしてやったら顔色が変わった。
「おいやめろ。なんだおまえ」
「なんだじゃないだろ。女ひとりの部屋の前で脅すような真似してれば警察沙汰で当たり前なんだよ」
苛立ちを声に乗せ、強く言い切った。これは俺の本当の言葉。
にらみ合ったらガチャリと鍵が開き、夏芽が転げ出てきた。突っ掛けただけの靴が片方飛んだ。
「――おか、おかえり」
夏芽が震えながら口にした言葉は初めて言って言われたものだが、あまりに日常だ。ドアにつかまったまま、心細そうな表情は留守番の子どもみたいだった。
「――ただいま」
安心させたくてそう返した。それから気づいた。このやり取りだと、どう聞こえるのか。
「おまえら――」
夏芽の兄はぎょっとして俺たちを見比べた。これ誤解したな。そう思ったけど別にどうでもよかった。
「――」
ムスッと黙ったまま足音高く俺とすれ違う。階段に消えるところで舌打ちだけは残したのが未練たらしくて俺は鼻で嗤った。怒りで肝が据わっていた。
「かがみん」
ふえ、と泣き笑いして、夏芽は俺のジャケットの裾をつかむ。
「やめろよ。しわになる」
その腕を取り、あ、と気づいて夏芽の靴の片方を拾い開けっぱなしのドアの中に置いた。本人も押し込む。俺は入らなかった。
「お兄さん怖いのか」
「……ん」
「昔からだし仕方ないな」
「うちの人みんな嫌い」
「そっか」
ドアに体を挟んで話す。小さな声でも聞こえるように、でも距離は詰めすぎないように。夏芽が怯えずに済んで俺もうっかり心を許さない遠さ。今、気持ちをゆるめたら明日の舞台に立てない。
「私、勉強できないから。お兄ちゃん馬鹿にするしお父さんもお母さんも叱るのしょうがないんだけど嫌い」
暗い目をしてボソボソ言うが、その馬鹿にする、叱るには怒鳴ったり殴ったりが含まれているのかもしれないと思った。そんなことでもなきゃ逃げないだろう。夏芽に感じていた軽やかさ危うさ、奔放なくせに透徹した視線。それは家の中で自分の殻にこもり身を守ることで生み出した何かしらだった。
「夏芽は大丈夫だ。得意なことがあるんだし、店のお客さんたちみんな、おまえのファンだろ」
「……家から逃げたのら犬だよ」
「逃げて何が悪い」
「……弱いじゃん」
「弱くていいだろ」
誰だって強くなんかない。今の俺だって気をゆるめたらうずくまってしまうだろう。でもそうしてしまったら美紗に負けることになる。美紗とのやり取りで見つけた自分の心を否定することになる。
逃げていいんだ。そして逃げるなら逃げ通せ。逃げた先で何かを作れ。それが偽りでも自分で信じてしまえるほどに突き詰めて。嘘も固めてしまえばいつかそれは真実になるかもしれない。
夜に雨が、強まっていた。
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