第16話 降板
翌日は仕事もなく、俺は息を殺していた。ため息をつけば揺らいでしまう気がした。出した着物を羽織りシュルと帯を締めると背すじが伸びた。俺は大丈夫だ。
美紗の電話を着拒にする。メッセージ通知はオフ。ぐちぐち言われても嫌だし、お互い少し頭を冷やした方がいいんだ。
さらに次の日、俺はいつもの吹き替えドラマの収録に行った。唯一のレギュラー作品。慣れた現場がありがたかった。
何があったって録音は待ってくれない。たかが女とどうこうしたぐらい、実際なんでもないことだ。それで俺の声が劇的に変わるなんてことは起こりえない。だけど収録後、本村さんは言った。
「おまえ、少しすごみが出たかもな」
「はい?」
「この間のオーディションでも思ったけど、なんだか声が強くなった。いいんじゃないか」
「ありがとうございます……」
ポンと肩を叩かれて、俺は釈然としない。本村さんはスタジオにいる事務所の連中に順に声を掛けていった。今日の良かった点、改善点。ちゃんと全員のことを観察し把握する歴戦のマネージャーの言うことだから信用せざるを得ないが、チクリと胸が痛んだ。
だが待て、先日からそうだと言われただろう。別にあの言い争いのおかげじゃない。俺が強くなったのなら、それは俺の中の何かだ。嘘くさい言葉しか出てこない自分への苛立ちとかこの業界で生き残れるかという焦燥とか、そんなものが俺を後押ししているだけ。
「おっつかれさまでーす、各務さん。こないだのアニメ、どうでした?」
自販機の脇でコーヒーを飲んでいたらフラフラと関根が寄ってきた。ガコンとミルクティーを買いながら、まだ炭酸飲めないなあとつぶやく。この後も仕事があると言いたいらしい。
「アニメ? ああ」
「『王女は名探偵』のやつ。僕、騎士団長玉砕で」
「俺は……悪役宰相、落ちたよ」
俺は迷いながら答えた。嘘は言ってない、宰相は駄目だったんだ。だが関根が玉砕した騎士団長アランに入ったのは俺なわけで、それは黙っておくべきなのだろうか。キャスティングに守秘義務があると言われたのはどこまでなんだ。
「いやー、オーディションて基本落ちますよねー」
スマホをいじりながら言う関根は俺も落ちたと聞いてホッとしたのだろう。まあここで嫉妬をあおっても仕方ないので何も教えずにおく。公式発表で気づいたら文句を言われるかもしれないが、その時はその時だ。
「はあっ!?」
スマホを確認していた関根が唐突に叫んだ。メッセージの文面を二度見してから俺を振り向く。
「え、マジで。ちょっと各務さん大変じゃないすか」
「何が」
「鮎原さん事故ったって劇団内ので回ってきましたよ」
「え」
事故。そんなの聞いてない。固まった俺に関根も真顔になった。
「そっち連絡ないんですか」
「知らない。どうしたって」
「おとといの夜、原チャで車と接触事故で怪我して入院したって」
俺は自分のスマホを出した。美紗本人からの連絡に気づくはずはなかった。俺がそう設定したのだから。だが調べてもなんの通知もなかった。
「……来てない」
「うわー。鮎原さん、各務さんにぐらい一言さあ。まあなんて言うか突っ張らかる感じの人ではありますけど」
一昨日。俺と別れた後スクーターで帰宅途中の事故なのか。てことはあれか、俺が原因なんだろうか。少なくともその一つ。美紗の精神状態に何も関与してなかったってことはあり得ない。運転に影響は与えたと思う。ぐるぐると考えながら俺は絞り出した。
「……怪我の具合は?」
「えーと、念のための検査でもう退院したそうです。でも足をくじいたって――舞台やばいんじゃ」
「おう、ヤバいぜぇ」
と言いつつジョーカさんはケケケ、と笑った。
「やらかしてくれたよなあ、今からキャスト変更って誰をつけりゃいいの。チラシ印刷終わってるし、みんなで訂正シール貼りだ」
「内田くんが泣きますね」
俺は冷静に応じた。
稽古の前にちょっと来い、と早めに呼び出されたのはやはり美紗の件だった。
美紗は一日で退院したものの、仕事も休んで家に引きこもっているらしい。伝聞なのは俺に直接の連絡がないから。着拒は解いたのだが何も言ってこない。俺の方からも接触する気にはならなかった。
公演まで日はまだある。本番前に美紗の怪我は治るはずなのだが、本人から降板の希望があったそうだ。長く稽古に参加できず迷惑をかけてしまう、という理由だ。
「――なんだよ、突っついたらすぐ謝るかと思ったのに」
「はい?」
「鮎原さんとやり合ったんだろ? なら、すみませんて言うかなってさ。これまでのおまえなら」
「――かもしれません」
「でも言わないんだ」
あれは稽古のすぐ後だ。誰かが近くにいたのか。見せ物じゃないが、そりゃ居合わせたら遠巻きに窺うのはわかる。
「事故がその影響だというのは否定できませんが」
「政治家の答弁みたいな言い方すんな」
嫌みじゃなくジョーカさんは笑った。
「大人なんだからさ。事故は鮎原さん自身の責任だ――というのは置いといて、いや俺のせいなんですとか言うかと期待してたのに」
「期待ってなんですか」
「青少年の悩む姿は酒のつまみなんだってばよ」
「二ノ宮さんみたいなことを」
ちなみに今いるのはカフェチェーン店だ。ふふんと肩をすくめたジョーカさんはコーヒーをすすりながらふてぶてしかった。
「おまえはそれでいい。男と女がどう向き合って結論を出すかに外野が口挟むもんじゃないからな。劇団内の目がどうでも普通に芝居してくれ」
「もちろんそのつもりです」
「おお、強いじゃん」
強い。強いか。俺としては冷ややかという表現がしっくりくるのだが。心の揺れを殺しながらコーヒーを見つめる。
「謝らないってことは後悔してないってことだ。鮎原さんに言いたいことがあったなら仕方なかろ? 迷わないのは難しいけど、悔やむのは嫌だよな」
突っ切れよ、と言われて俺は頭を下げた。
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