第15話 自分の言葉
歩き出してすぐなのに、俺たちは道端に立ち止まった。
突き放した俺の言い方を美紗はどう受け取っただろう。綺麗な笑顔は凍りつき、醜く崩れた。
「――悠貴もあの子のことかわいいって思うんだ。内田くんに譲ってあげないの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあどういう話?」
かわいいから主役に据えるとか庇うとか、下らない考え方はどこから湧いてくるんだろう。演出家に取り入ったところで芝居が上手くなるわけはないのに。
女優たちが下世話な噂を言い散らかして溜飲を下げているだけなのは知っている。それに相づちを打つ男優もいる。女は枕ができるからいいよなあといやらしい口を叩くのだって何度も聞いた。
仕事がもらえない自分。舞台に立てない自分。つらいのも焦るのも苛立ちもわかる。枕営業を十割信じているわけではないと思う。だが、小汚ない。そしてそんな話にのっかる美紗のことを俺は心から軽蔑した。
「芝居の話をしてるんだろ」
「そうだけど、演技どうのよりジョーカ先生と悠貴が味方なら今回の舞台で怖いものないでしょ。だから元気だなあってみんな言ってるの。堀さんは客演の悠貴にも媚びる元気があるって」
「客演に媚びたのはおまえもだったな」
聞いていられなくて強く言った。これも俺自身の言葉だった。こんなのが俺の心か。ぞわぞわと鳥肌が立った。だけど駄目だ止まらない。
「客演の俺に付き合おうって言ってきたじゃないか。堀さんが俺に演技の相談したからってなんだってんだよ」
「違う! 客演だからじゃない。悠貴だから言ったの」
キッとにらんで美紗は言い返してきた。鋭い、いいセリフだと思った。
「私は悠貴だから告白したの。決まってるでしょ」
「俺が声優でもなんでもなかったらどうなんだよ。他の劇団の鳴かず飛ばずな俳優なら? それでも俺と付き合おうとしたか?」
そんなことを責める資格は俺にはないのに。美紗が少しばかり美人でまとわりついてこなくて面倒でもないからズルズル付き合い続けていただけの俺が何か言うのはお門違いだ。
「――今の悠貴が、悠貴だもの。他の悠貴なんてわからない」
「今の堀さんだって、俺もジョーカさんも女優としか思ってない。くだらないこと言って足引っ張るなよ」
「あの子のせいで悠貴のことまでいろいろ言われるのよ。悠貴と付き合ったってなんにもならないのにとか言われて黙ってられないでしょ!」
「実際なんにもならないんだし俺はいい。それにそれは、おまえへの罵倒だろ。俺に伝えてどうしろって?」
「どうしてほしいとかじゃないの!」
「じゃあなんだよ!」
いいかげん嫌になって吐き捨てたセリフはこのうえなく俺の言葉で、こんな風に言い争ったことなど人生であったかなと記憶をたどり始めて、そんな思考も現実逃避だなと気づいて、つまり俺は打ちのめされていた。
「――悠貴」
血の気をうしなった顔の美紗が俺の腕をつかんだ。珍しく、本当に珍しく向こうからふれてきたその手を、俺は肘を引くだけで外した。
「もういいよ、帰る。俺らは俳優だ、次の稽古ではなんの問題もなく役をやる。それでいいだろ」
「――帰るの」
「おまえんちに行ってどうするんだ? おまえ好きじゃないじゃん、するの。べつに俺だってしたくないし。もういいよ、そういうの」
それが別れの言葉にあたるのか、俺にはわからなかった。性交渉の否定だけで関係の終了を宣言したことになるのなら、それは恋人じゃなくセフレじゃないのか。俺と美紗がなんなのか、ずっと判然としなかったのがこんなところまできても響いていた。
フイと背を向けて俺は歩き出した。外された手をおろすでもなく美紗がじっと立っているのが背中でわかった。
外気と世間の埃にさらされた俺の腕をつかんだ手。それを美紗は帰宅するなりゴシゴシ洗うんだろう。洗浄、消毒、漂白。何もかもを清めずにはいられない美紗のそれは精神的なものだと理解している。俺のことを汚物と思っているわけじゃないとずっと自分に言い聞かせてきた。だけどその認識は間違いだった。
俺は汚い。
これまでにも付き合った女はいた。だけどそれはみんな、向こうから来て勝手にいなくなっただけだった。俺はいつも受け身で誰のことも好きでも嫌いでもなくて、そんな俺に愛想を尽かして別れを告げる女を引き留めることも恨むこともなかった。俺は最低だった。
今初めて、俺は自分から人を拒絶した。自分の言葉で。
何かを拒絶する時、否定する時、人はもっとも正直なのだと俺は思い知った。
向かい合うことから目をそむけ争うことをよしとせず事なかれに生きてきたから、俺には言葉がなかったんだ。
心がこもった言葉だからいいというものじゃない。
心をぶつけるというのは、ぶつけた相手を傷つけることにもなるから。
――だったらやはり、もらったセリフだけをしゃべっていてもいいんじゃないかと思った。
家に帰るまでずっと空気が足りない感じだった。もちろん呼吸できているから歩けているのに、その感覚はおさまらなかった。でもここで必死に息を吸えば過呼吸を起こすのだと理性が告げたのでコントロールする。緊張のあまり高座の袖でそうなって倒れた奴がいた落研時代を鮮明に思い出した。ずっと忘れていたのに。
意識して細く長く吐く息が震えてみっともなかった。いや、みっともないとかそんなことばかり考えるから俺は誰とも向き合えないのか。
「喧嘩なんて小学生以来かな――」
美紗とのあれが喧嘩なのかどうかわからないが、やってしまったものは取り返しがつかない。それはそれとして客演の役割を果たさなければという意識だけはあった。
帰り着くと隣室の電気がまだ点いていた。夏芽は起きているみたいだ。
部屋に入った俺はまず衣装ケースを出した。次回の稽古で着てみせる和装一式がその底に眠っている。着物、
そして扇子が俺にささやいた。
いいじゃないか。おまえの真実を見つけ出せ。
誰をどうしようとかまわない。それが芸のこやしになるのなら。
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