第13話 嘘と本当


 まさかのアニメレギュラー獲得に伴い、俺は大きな書店に寄ってから帰った。原作小説と漫画を入手しておきたかったのだ。どうせなら紙がいい。電子書籍だとあちこち見比べるのが面倒で、資料としては使いにくい。


「あ――先生」

「おや各務君。お帰りなさい」


 暗くなった商店街の中程で、店じまいする〈アトリエ喫茶・天〉のマスターにばったり会った。そういえば俺はこの人の名前を知らない。だから夏目に倣い、先生と呼んでみたのだが普通に返事してくれた。


「あの、俺この間やらせてもらった粘土の代金を払ってなくて」

「なんだそんなこと。あれは夏芽君の資材だから私はノータッチだね。たぶんあの子も気にしてないと思いますよ」


 ドアの札を〈close〉にして、小さな看板を中に入れる。そして先生はそのまま呼び掛けた。


「夏芽君、各務君が来てるよ」

「はあい?」


 キッチンの掃除をしながら夏目が顔を上げた。俺を見てニカッとし、低い声になる。


「お客さーん、もう閉店ですよ」

「通りすがりに先生がいて思い出したんだ。粘土代どうすればいい」


 昔のドラマみたいなノリを繰り出すのを無視して必要事項を伝えた。夏目は一瞬素に戻ったのに再び悪そうな顔を作る。しつこいな。


「おうおうおう、じゃあ体で払ってもらおうか」

「おまえ昭和すぎ……」

「そうか、今日は熊田さんが任侠映画を語ってたね」


 先生が笑いながらモップを取り出して掃除を始めた。なるほど、夏目は客との話題につられてるのか。どうやらこの店の客の熊さんは、熊五郎ではなく熊田さんだったようだ。


「なんか手伝って返せばいいか?」

「ああ、それなら夏芽君を送って下さい」


 カバンを置こうとする俺を先生がとめる。


「いつも暗い中を帰すのが心配で」

「もう。私子どもじゃないですぅ」

「子どもじゃないから心配なんだよ」


 先生が夏目を見る目は柔らかい。だが娘か孫を眺めるような視線だと俺には思えた。もっとも夏目の方からの思慕の念も色恋といえるのかわからない。


「どうせ隣だから一緒に帰りますけど。待ってる間、何かやります」

「ああ駄目なんです。自分で順番通りにしないとね、何か間違えたり忘れたりするんですよ」

「……ルーティンに手出しは無用なんですね」


 そう言われてはどうしようもない。俺は二人の仕事を見守った。

 無駄口もなく、テキパキと働く二人の息はぴったりだった。そこには積み上げた時間がある。

 ちゃらんぽらんでガサツに見える夏目も実は繊細な作業をこなす芸術家だと、俺はもう知っていた。こうして働いていても皿やカップをガチャガチャいわせることなく片付けていく。その所作はやはり芸事のように美しかった。


 毎日繰り返すことで物事は洗練されていく。喫茶店も陶芸も、噺も。磨き抜かれ、無駄なく、切れよく。それに比べて俺のしていることといったらどうだ。

 テスト、ラステスラストテスト、本番。基本三回しか口にしない言葉。誰かの与えてくれたセリフ。どこにも真実のない気持ち。

 俺に嘘じゃない言葉はあるのだろうか。




「この間よりカバン重そう」


 暗い商店街を帰りながら言われた。

 店からだと家まで五分。近いが夜道を気づかう先生に従い、ちゃんと並んで歩いた。汚ジャージじゃなければ夏目もいちおう女性に見える。


「本を買った。資料用」

「声優さんて勉強あるの? ああそうだ、かがみんの名前を訊かなくちゃと思ってたんだった」

「そんなもの、なんで」


 夏目は何故かガッツポーズでキラキラと答えた。


「検索しようと思って!」

「目立つ仕事はしてないからいいよ」


 夏目が普段どんなものを観ているのか知らない。もしかしたら俺の声を耳にしたことがあるかもしれない。だけどそんなもの気づいてくれなくていいんだ。


「そうなの? でも名前ぐらい教えなさい。普通に友だちじゃん」


 夏目の中で俺たちはすでに友人なのか。まあそれでもかまわないけど。


「おまえの名前だって知らないぞ」

「何言ってんの。呼び捨てしてるくせに」

「え?」

「私、夏芽。八田夏芽はったなつめだよ」

「八田? なんだそれ、初耳」


 俺は仰天した。初対面で名乗られたのは「ナツメ」。それだけ言われれば苗字だと思うだろう。


「そうだっけ? あの時眠かったからなあ」

「眠気のせいにするな」

「――嘘だよ。苗字嫌いなの」


 それはどういう。深く尋ねにくいことをサラリと言って、夏目――夏芽は小さく笑った。


「名前でいい。周りみんなそうだし」


 そうだ。先生も大矢さんも夏芽という名前で呼んでいた。それは親しく可愛がられているのか、何か事情があるのかだ。


「……悠貴」


 仕方なく俺の名前も教えた。べつに突っぱねるようなことじゃない。


「ゆうき。かがみゆうき。芸名? 本名? 昔の名前で出てたりするの?」

「……ええと、なんのネタ?」


 きっと古い何かなんだろう。こいつはいつも突飛なことばかり言うし、する。おかげで俺は時々口ごもるはめになるのだ。


「かがみんは何も知らんのだねえ」

「おまえも三和土たたきを知らなかっただろ」


 年配の客と先生に囲まれて、巻き戻った昭和の中にいる夏芽。それでも知識はいびつだ。軽さをよそおう中に無理が見えた気がした。


「――先生って独身?」


 別れ際、ドアの前で鍵を取り出しながらふと確認してみた。成就したら不倫になったりするのかと思いついたんだ。

 夏芽はやわらかい。傷つけたらスルリと深くまで切れるのじゃないか。糸で切り出す粘土のように。


「え? 奥さんいる――」


 リリン。夏芽のキーホルダーがうるさく鳴った。普通に答えながら途中で質問の意図に気づいたのだろう、スウと表情が硬くなる。


「そうか。おやすみ」


 俺はさっさと部屋に逃げ込んだ。

 夏芽の周囲のおじさん、お爺さんたちが気づいているのかわからない。でも気持ちが駄々洩れないよう気をつけろよと言外に伝えたつもりだ。余計なお世話だろうが。

 どうしてこう、ややこしい気持ちを人は抱くのか。

 でも夏芽の心は真実だ。偽らないぶん、俺より偉い。


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