第6話 心などどこに
「あんたなんか結婚に逃げたくせに!」
劇団ジョーカの稽古場。開始十五分前に余裕をもって到着したら、なんか修羅場っていた。しかも飛び込んできたそのセリフは美紗の声。相手は同期生の女のようだ。にらみ合い、劇団員が遠巻きにしている。
「各務さ……!」
入り口付近にいた若手がヒッと顔をひきつらせた。俺が来たことでさらに困らせたなと思った。
美紗と対峙している同期生はこの間入籍の予定を報告したばかりだった。
同じく声優になりたくて劇団に入り切磋琢磨してきたはずの女の「いち抜けた」宣言。報告した本人は劇団もやめないし俳優声優業を仕事にできるよう頑張ると言っていたが美紗は「逃げた」ように感じたのだろう。ここに至るまでの言い争いがどんなものだったのかわからないが、たぶん聞くに耐えないものだ。
「美紗」
俺は冷ややかに呼んだ。振り返った美紗は般若の顔のままだ。
「何やってんの。稽古前の空気を考えろよ」
俺にびびっていた若いのが今度はすがる表情になる。わかってるよ、ちょっと美紗を連れ出して稽古しやすくしてやるから。
結婚だのなんだの、付き合っている男からすれば地雷のような話題だから俺が現れてここにいる全員が緊張したはずだった。だけどなんだろう、俺はもう美紗との関係がどうなるとかより劇団という公がうまく回る方を気にしていた。
終わってる。だって「結婚に逃げた」という発言で俺は安心したんだ。じゃあ美紗に結婚を迫られることは絶対にないんだ、言質を取ったと。
「おっはよーございまーす!」
氷点下の空気を切り裂いて到着したのはジョーカさんだった。口もとは笑っているが目は点検するように稽古場を一周見渡した。何かあったのは気づいてるらしい。
「鮎原さーん。と乃木さーん」
原因になった二人を呼ぶ。バツが悪そうに向き直るのを指先で止め、ニヤリとした。
「荒立ち、できるね。セリフ入ってる?」
「あ……はい」
「もちろんです」
同期の乃木さんがおずおず答えたのを見下すように美紗は居丈高だった。
「んじゃさっさとしよう。みんな動けよー」
ジョーカさんは何もなかったかに平然とパイプ椅子を出してくる。まだ様子をうかがうような劇団員たちの気配で、俺はジョーカさんに言ってみた。
「片方、連れ出しますか」
「いらんよ」
即答だ。
「スタジオならさあ、そんなの通用しないだろ。大嫌いな奴と親友やるし、離婚したばっかの相手とだって愛をささやくじゃん。稽古ぐらいできないでどうすんの」
俺と話す体だが団員たちに言っているのだ。
甘えんな。金をもらって演じる身分になりたいんだろ。
「……そうですね」
まったくその通りだった。
でも結局この日の稽古はセリフも動きも硬い奴と逆に熱くなって空回りする者とでギクシャクした。その中で一応の安定感をキープする俺は「やっぱプロだよね」というジョーカさんの評価を得る。
そりゃ、な。どうせ俺の口から出るものなんて何もかも嘘だから。周りがどうでも関係なくしゃべることはできる。
だって俺の大元は
だが、それを受け入れて笑うかどうかは、客の自由だ。
その日の美紗は稽古場を離れるまでずっとツンケンしていた。それならそれでと俺は声もかけずに出てきた。
どうしたものか。
元から恋愛じゃなかった。声優の彼というアクセサリーにすぎない俺はブランドバッグに近いもの。その見返りとしてたまに体を重ねるにすぎない。そこにあるのはほんの少しの情だけ。
「切れてもいいけどさ……」
そうすると劇団ジョーカーに関わりづらくなる。しょせん声優劇団だろ、と舞台人からは笑われているかもしれないが俺にとっては演劇の範疇にあるし、生で客の反応を見る数少ない機会なのだった。無いよりはある方がいい。
「悠貴」
後ろから呼ばれた。来るのかよ。立ち止まると小走りで美紗が近づく。
「今日ごめんね。私」
「謝るの俺にじゃないだろ」
面倒になって言った。ほんと終わってる。関係を続けなきゃという気づかいができない。
「――うち来てよ。明日仕事ないでしょ」
珍しい申し出にむしろ眉をひそめた。こいつそうまでして俺をつなぎとめたいのか。いや付き合ってる同士がセックスするぐらいでそうまでしてっていうのもおかしいが美紗にとって他人の肌に触れるのは苦行のはずだ。
「いいのかよ」
「いいの」
確認したのは行きたい、したいからじゃない。心を無にして俺のものを受け入れて、それでいいのかと訊きたいんだ。どうしてそんなことするんだと。美紗のことなど、たぶん俺はひとつもわかっていない。
行ってみればやはり念入りにシャワーを浴びたうえで口づけのひとつもせず、ただ及んで果てるだけだった。その後はまたシャワーに直行。泊めてもらえるだけありがたい。朝にはシーツをはがして洗濯し部屋中を掃除し布団に消臭スプレーを吹きつけるのだが。
一人でするのとどっちが充足感あるかというと、もうよくわからない。相手は人形か修行僧か。そして俺は最初からずっと嘘つきだ。
なんの清々しさもない朝。朝食は駅の立ち食いソバの匂いに釣られて食べた。それをたぐる手つきで〈たまには寄席こい〉というメッセージを思い出しソバがまずくなる。落ち着け。俺が持っているのは割り箸だ、扇子じゃない。
電車を待ちながら今日やっている寄席を検索しかけてやめた。松葉家さの助が出ていたら観に行くのか。行きたくない。こんなグダグダな気分で行ったところで腹が立つだけだ。
今日の予定は何もなかった。仕事がないのは憂うべきことだが暇なのは嬉しい。何もかも帰ってから考えよう。そう思って商店街を家に向かっていたら向こうからヒラヒラと手を振られた。
妖怪・高校ジャージだった。
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