第7話 冷たい土


「かがみん、朝帰り」


 いえーい、とハイタッチを求める手を俺は無視した。空振りした夏目はうへへと笑う。


「なあに寝不足? そんなに頑張ったのかねキミィ」

「……午前中から女が言うネタじゃないぞ」

「おっと差別的」

「男が言っても引くから平等」


 俺がどんよりしているせいか、夏目のふわふわ感が際立った。それに言葉の端々に昭和が漂う。キミィ、てモーレツかよ。


「夏目って中身オッサンだな」


 言ってみたのは誰かを傷つけたかったのかもしれない。だが夏目はケロリとしていた。


「そうねえ。今まわりにいるのってオジサンおじいちゃんばっかりかも。大矢さんとか話し方が独特だしね」

「ああ大家さん。おまえあの人から落語っぽい影響受けてそう――え、オオヤさん?」

「大矢さんだよ」


 先日の落語好きは大矢という名だそうだ。文字違い。


「素で大家さんぽいのに大矢さんとか反則……」

「何言ってるのかわかんない」


 耳で聞いてる分には確かにわからない。うっかりノリツッコミしたぐらいに同じだ。あまりの馬鹿々々しさに俺の中でドロドロしていたものが乾いていく気がした。それでもまだ俺は皮肉な笑い方しかできなかった。


「わからないか。仕方ない、与太郎だし」

「違うもん、せめて女の人にして」

「んじゃ、あらやだおまいさん、て言ってみろよ」


 ひょいと右手で襟元を押さえる仕草をしてみせると夏目は目を輝かせた。


「すご! やあだ、かがみん私よりずっと色っぽいじゃん」

「おまえの色気ってどこにあるの……」

「ええと」


 ジャージの胸元を引っ張ってのぞいても駄目だ。乳が大きくても小さくても、それは色気とは言わない。


「高校のジャージ着てる時点でもう」

「あ、今日のは中学のやつ」

「……物もちいいな」


 何も言う気がなくなって俺は適当にほめた。帰って寝よう。

 軽く手を上げてすれ違おうとしたら、また腕をとられた。なんだよもう、迷惑そうにしてるのわかれよ。


「かがみんも粘土さわってみよ?」

「ねんど?」

「陶芸の。冷たくてツルツルでムニムニで気持ちいいから」


 ニコニコ誘う夏目の瞳は優しい。俺がささくれてるのを感じているよと伝えられた気がして胸にさざ波が立った。


「これからアトリエ行くの。おいで」

「あの先生の?」

「そう。喫茶店は定休日」


 軽く引かれるだけなのにあらがえない。どれだけ弱っているんだ俺は。それとも夏目がそういう奴なのか。するりと人の内側にもぐりこむ。


「いつもアトリエで作らせてもらっててね」

「……子どもの時から通ってた?」

「ううん。高校の先生だった」


 つられるように並んで歩いた。美術の授業で陶芸コースを取り、そこで初めて土に触れた。それを忘れられず普通の大学に進みながら町の陶芸教室で勉強したのだそうだ。素人の展覧会に参加するうちに先生と再会し、アトリエを使わせてもらうようになったと。


「そのまんま店員になってチマチマ焼き物も売ってるの」

「ふーん」


 どうでもいいといえばどうでもいい話。誰かの人生なんて手持無沙汰な数分の話題にしかならない。俺のたどったこれまでも、たぶん他人にはなんの意味もないもの。そしてそれを話す間もなくアトリエに到着し、夏目はガラ、と扉を開けた。


「お邪魔します」


 俺はいちおう小さく言った。誰もいないがいいのか。喫茶の脇の小道を入っただけで、ここはとても静かだった。


「荷物そこで」


 夏目が示した机にカバンを置き、室内を見回す。


「なあ、この間の夜、ここに来ればよかったんじゃ」

「もう寝るから戸締まりするよ、て言われて帰ったんだもん。鍵開けてって起こすの悪いでしょ」


 先生は早寝早起きらしい。それで俺には迷惑かけたのに夏目はケロリと悪びれなかった。


「なんか作ろ? 何がいいかな、簡単なのだとお皿。手びねりだとコップとかお茶碗とか重くなっちゃうから」

「手びねり?」


 端にあるビニール袋をさっさと開ける夏目に訊き返した。中身は大きな粘土の塊だ。夏目は丈夫そうな糸でそれを切り取る。


「手で形を作るんだよ。ろくろは難しいでしょ。それとも板作りにするか……」


 切った粘土をドンと机に置くと、夏目は腕まくりした。袖にうっすら土がつく。出会った夜の汚ジャージの理由がわかった。あれは作陶用の粘土だったんだ。

 食パン一斤よりも大きい粘土を夏目は迷いなくこね始めた。体重をかけ、端を持ち上げ、わずかに回し。角だったものがあっという間に丸く不思議な模様になっていく。


「かがみんも、ほら」

「ええ……」


 場所をゆずられて、口では文句を言いつつ俺は袖をまくった。夏目がこねていた粘土に触れる。それは意外と硬く、冷たかった。


「真似してみて。菊練りっていうの。土の空気を抜くんだよ」


 気泡があると焼いた時に破裂するのだそうだ。簡単そうに言われたが、やってみると難しい。粘土はいうことをきかず、バタバタと横に転がろうとし、夏目がつけた菊花のような模様はどこかに消えてしまった。


「意外と重いんだな……」

「そりゃあ、粘土だよ?」


 夏目が軽々と扱っていたからだ。俺が崩した菊練りを受け取ると、夏目はまたギュギュ、とこねる。すぐに美しく整った粘土が信じられなくてジッと見つめてしまった。


「お皿。なんのお皿だろ。かがみん何を乗せて食べたい?」

「何って」

「大きさによって使う粘土の量が違うから」


 皿なんて最近は惣菜を乗せてレンチンするぐらいにしか使っていなかった。その隣に申し訳のレタスをちぎる。そういう皿はもういらない。


「じゃあ――つまみ用の小皿」

「おっけー。じゃあ粘土少なめで」


 また糸を取り出した時、外扉とは別のドアが開いた。


「おや、各務君も来てたのか」

「先生」


 家の方からアトリエをのぞいた先生に夏目が嬉しそうにする。家主がいたことに安堵して頭を下げた。


「お邪魔してます」

「なんかしょんぼりしてたから連れてきました」

「そうか。夏芽君はそういうの敏感だからね」


 うんうんと目を細める先生に夏目は得意げだ。ごゆっくり、とすぐに引っこむのを見送る夏目の口の端がしていることに俺は気づいた。


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