第5話 喫茶・天
レギュラー収録帰り、午後の商店街はにぎやかだった。
まだ小学生もいない時間なのに働いていておかしくない歳の大人がうろうろしていた。みんな何者なんだろう。でもたぶん俺もそう思われている。
駅に近い小さなスーパーで惣菜と野菜ジュースとレタスを買った。包丁も何も使わずに最低限の栄養を摂ることを考えて採用した方法。丁寧な暮らしとほど遠いこういう生活に特化していくにつれ、むしろ生きるという根源に迫っている気分になる。食べるために稼ぎ、食い、寝る。それだけ。
「――かがみん!」
道端から唐突に知った声がした。
「夏目」
今朝、俺の部屋にいた女だ。そう言うと色気があるが、事実はただの妖怪・高校ジャージ。
しかし今はジャージじゃなかった。白い長そでTシャツに黒く長いエプロンでカフェ店員のような格好だ。というかそうなんだろう、夏目の後ろに〈アトリエ喫茶・天〉の看板があった。
「仕事だって出ていったのに、もう帰ってきたんだ。かがみん何屋さん?」
「……自由業」
としか言えない。無名の声優にかける言葉なんてうわべだけの「すごいね」ぐらいしかないから。
「鍵、なんとかなったか」
「あ、ああ、うん」
話を変えたら夏目の視線が泳いだ。微妙な反応だったが放っておく。これ以上迷惑をこうむらなければなんでもよかった。
「そうか。じゃあ」
「あ、暇ならコーヒー飲んでって。お礼ね」
帰ろうとしたらヒョイと腕をとられた。返事も聞かずに開けた店のドアの中から香ばしい匂いがした。
「いや俺は」
「おや夏芽ちゃん、熊さん送ってったと思ったら次はイイ男を引っぱりこむのかい」
年配の客がカウンターから振り向いて笑った。その落語みたいな言い方に俺の足は止まってしまう。熊さんて。じゃあこの人は八っつぁんか大家さんか。夏目は俺をぐいぐいと店に押しこんで、その人の横に座らせた。
「この人、かがみん」
「ああ、言ってたお隣さんか」
「そう。お礼にごちそうするの。先生、コーヒーお願いします」
夏目はカウンターの中に声をかけた。そこにいたのは穏やかなたたずまいのお爺さんだった。マスターというには
「ホットコーヒーでいいですか」
「あ、はい。お願いします」
別に奇をてらうつもりはないからいいが、確認されてみれば夏目が決めるのはおかしい。
「夏目、ここの店員なんだ?」
「そうだよ」
慣れた様子でおしぼりと水を出してくれた。いや、「水」ではなく「お冷や」というのがぴったりくる。そんな雰囲気の店だった。
黒光りしたテーブルと落ち着いた赤のソファ。常連なのだろう老人たちが、昭和の時代からそこにいたかのようにのんびり座っていた。一角には天然木の棚があり、皿やカップ、花瓶などが並んでいる。ギャラリーなのだろうか。そういえば〈アトリエ喫茶〉となっていたが。
「焼き物も売ってる喫茶店だよ、ここは」
「へえ」
隣の大家さん――仮にそう呼ぶことにする――が俺の視線に気づいて言った。この商店街はいつも通るが喫茶店になど入らない。店の存在にも気づいていないぐらいだった。
「夏芽ちゃんを泊めてくれたんだって? こんな子だからねえ、ほっとくと本当に外廊下で寝るから」
「はあ。さすがに何かあったら寝覚めが悪いんで部屋に上げましたけど」
「上がってない。玄関だし」
「床にはみだしていいって言ったろ」
実際、朝見たらほぼ床に伸びて寝ていたじゃないか。低く言い合うのを大家さんはニコニコながめる。
「いい人がお隣でよかったよ。でも夏芽ちゃん、こんなカッコいい男だから転がりこんだんだろ? 隅に置けねえなあ」
「じゃあ真ん中に置いてくださーい」
「そういうことじゃあないんだよ、
「ふ」
会話がまるきり落語だった。
与太郎。落語に登場する間抜けで周囲を困らせる人物の名前は夏目にはぴったりかもしれない。俺が小さく笑ったら大家さんがこちらを見てニヤリとした。
「かがみんは落語がわかるのかい」
「はあ。学生時代落研でした」
「そりゃあいいねえ」
どうやら大家さんは落語好きのようだ。嬉しそうにまなじりを下げるが、夏目は唇をとんがらせてブーブー言う。
「なんで私が与太郎? そんなにおバカなつもりないですけど」
「いいじゃないか、与太郎ってな愛される馬鹿だって教えたろう」
「どうぞ、本日のブレンドです」
そこでマスター――先生がそっとカップを置いてくれた。たっぷりしたマグカップは海のような青だった。
「あ、これ私の器」
「え?」
「夏芽君のお客様だからね」
先生が微笑む。
「夏芽君は陶芸家なんですよ。うちでも作品を売ってるので、よければ買ってやってください」
「陶芸……」
「先生はね、喫茶店のマスターだけど焼き物もやるの。美術の先生だったんだ」
「私のは趣味で。昔は裏のアトリエで子ども相手に教室をやっていて」
それで〈アトリエ喫茶〉なのか。先生の作務衣の理由もわかった。ただの普段着なんだな。
嘱託で高校の美術教師をしながら自宅で陶芸教室をしていたそうだ。併設の喫茶店をやっていたのは兄だったが腰を痛めて厨房に立てなくなり、流されるまま引き継いだとか。〈
「おいしい?」
夏目に訊かれ無言でうなずく。
「今朝のインスタントはひどかったからね」
余計なお世話だ。しかめ面をしてみせると先生がたしなめた。
「ご迷惑おかけしたくせに何を言うんだい。しかも失くしてなかったのに……」
「あー!」
言っちゃだめ、という身ぶりの夏目を俺はにらんだ。
「失くしてなかった? 鍵か?」
「カバンの底でまぎれていただけでね。本当に夏芽君はそそっかしくて」
「嘘だろ……」
そんなうっかりで俺は他人を泊めるはめになったのか。鈴つきのキーホルダーにしたからもう大丈夫と夏目はバツが悪そうだった。
こんなガサツ女の作ったマグカップなのに唇への当たりはなめらかで、それで飲む先生のコーヒーはとても美味しかった。
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