第3話 のら犬を拾う
夜十時過ぎ。ドア前の廊下に座り込む汚ジャージの人。事件性しか感じない。
ネグレクトの子どもか、と思った。だけどここは全室1Kのはず。ファミリー向けじゃない。ならカップルのDV?
知らんぷりして部屋に入ったら明日以降に警察から話を聞かれるかもしれない。考えた末、俺は観念して声をかけた。
「あの、大丈夫ですか? 廊下で何してるの?」
眠そうな顔を上げたのは成人女性だった。二十代真ん中ぐらい。パッと見は怪我などなさそうだ。
「あ……えーと、座ってます」
その女がぼんやり答えて、俺はすごく冷たい顔をしたんだと思う。相手がハッとなって言い訳を始めた。
「あの、あの。部屋に入れなくて。カギなくしたみたいで」
「え、そこの部屋の人?」
「そう」
コクコクうなずく女は隣人なのか。ひとまず安堵した。事件じゃない。だけど新たな問題が発生してしまった。
「鍵……不動産屋に連絡するにしても」
「朝までダメだし。じゃあ寝てようかなって」
「嘘だろ」
思わず言った。こいつ本気か。
どこか泊まれる所を探してほしい。深夜営業のファミレスでもなんでも。ここは住民しか入ってこないだろうけど外廊下で寝るな。
「だってお金ないし」
へらへら、と笑われた。いい大人が何を言ってるんだ。だがゴソゴソと肩かけカバンから出した財布には本当に数百円しか入っていなかった。
「えええ。いや、その、なんとかペイとか」
「めんどくてやってない」
「見た目も所持金も中学生……」
思わずつぶやいたら口をとがらせてきた。
「これ高校のジャージだからね?」
「知らないって」
困り果てる。何をどう言えばいいんだ。予想外の状況に対応する語彙を俺は持っていなかった。
その高校ジャージをよく見れば、汚れは泥のようだった。何をしてくればこうなるんだろう。なんだか雨上がりに散歩してきた犬を見ているような気分。その犬コロは不満そうに俺をにらんだ。
「だってこんな大人の女に失礼じゃない」
「大人の女……って廊下で寝るの」
「必要ならそんなこともできるんですぅ」
「のら犬っぽい」
つい言ったら女は俺をにらんだ。ムッとしてるけど眠そうな顔。
「じゃあ、玄関貸して」
「は?」
「お隣さんなんでしょ。ここがダメなら玄関で寝かせてください」
「嘘だろ」
この短時間で二度目の「嘘だろ」だ。
本当になんなんだこいつ。むしろ少し心配になってきた。こんなんでちゃんと生きていけるんだろうか。
「せめてお金貸してぐらいにするべきなんじゃ」
「お金があっても、どこに行けばいいの」
「……ネカフェとか、ファミレスとか」
「近くにそんなのないじゃない」
確かに。けっこう歩いた街道沿いまで行かないとファミレスもない。ネカフェなんて電車案件だ。
「今日頑張ったんだよねえ。もう疲れたし、眠いから遠くに行くのは無理」
「それで初対面の隣人に玄関貸せ? ありえないよ」
「じゃあ廊下にいる」
「やめろ」
俺は頭を抱えたくなった。なのに話は終わったとばかりに座り直される。
「せめて警察にでも行ってくれないかなあ」
「やあだ」
そうだよな、交番も遠いって言うんだろうな。ていうか自分で身を守る気がないからこんな風にしているわけで、助けを求めて行動しようと思ってないんだこの女。どう育てばこうなる。
「……わかった。
「たたき?」
良心に負けて申し出てみたのに、間抜けな問いを返された。三和土も知らな――現代日本ではあまり使わない用語だろうか。俺は落語をやっていたせいで時々常識がずれているから。
「靴を脱ぐところだよ」
「ああ。つまり玄関」
「そうなんだけどさあ。あ、床には上げないぞ」
「ふうん? 変な線引き」
「おまえみたいのに変って言われたくない……」
うめきながら鍵を開け、中をのぞいて考える。何もまずい物、置いてないよな。
「ほら、どうぞ」
「ありがと」
玄関すぐは台所だ。古い建物なので、最近よくある廊下脇のキッチンではなく小さな部屋だった。出しっぱなしだった靴を片付けてやったら律義にペコリとされた。
「ここでうずくまってるね。外より安心かも」
「安心の基準がわかんない……俺、
いちおう名乗った。表札も出してないからお互いまったく知らない。
「あ、名前? 私ナツメでっす」
「夏目? 文豪的なやつだ」
「ぶんごう?」
漱石がわからないのか。すると首をかしげながらためらいもなく三和土に座られて少し罪悪感に駆られた。さすがに狭い。
「えーと、そのへんの床にはみ出してかまわないから。腰痛めるぞ」
「――かがみん、やさしいね」
にへら、と笑われてしまった。
くそ。何が「かがみん」だ。
俺はただ押しに弱いだけ。押されついでにタオルケットまで貸してやった。だって九月下旬なんてもう明け方は冷える。タオルケットをかぶって夏目は嬉しそうに丸まり横になっていた。
でも俺は、しみじみ後悔した。
ここにいられるとシャワーが使いづらいことに気づいたんだ。ユニットバスの中で体を拭き服を着るのは狭くて苦しい。捨て犬並みとはいえ、いちおう女の前を裸で横切ることはできなかった。
「タオルケット、洗って返すね」
俺が仕事に出る九時に夏目のことも追い出した。
部屋との境の引き戸は閉めていたのだが、磨りガラス越しに台所が気になって俺は微妙によく眠れなかった。だが夏目はスーカスーカ寝ていたようで、そのたくましさに舌をまく。
朝の廊下で手をヒラヒラして見送られるのが尻尾振る犬に思えた。丸めたタオルケットを抱える夏目は笑顔だが、とんでもないものを餌付けしたかもしれないと後悔した。さすがに自分だけ食べるのは気が引けてコーヒーとロールパンは恵んでやったのだった。
電車に乗ったらスマホがメッセージの着信を告げた。また何か仕事の変更じゃなきゃいいんだがと確認する。
違った。
〈ゆんべ映画みた
おまえのこえがして気分そがれた〉
「……知らないって」
呆れてつぶやいた。
じゃあ字幕にして観てくれよ。勝手なこと言ってくる人だ。
この人は橘
彼は俺の、落研時代の先輩だった。
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