第2話 潔癖な女


「――おはようございまーす」


 夜、仕事上がりで客演舞台の稽古場に顔を出した。

 小声で挨拶しながらドアを開けると、集まった連中が台本ほんを手に立って軽くセリフを合わせていた。立ち位置と動きを固めていく、半立ちという稽古だった。


「おはっす、各務かがみ。忙しいとこ悪いね」

「ぜんぜんです。今日はたまたま急な代役が入ったんで、遅刻ですみません」

「たまたまとか、またまたぁ」


 冗談のようなことを真面目に言ったのは、この劇団の主宰、中原なかはら譲佳のりよし。通称ジョーカさんだ。いや、もう芸名も『じょうか』読みにしてるんだったか。誰もが『じょうかさん』としか呼ばないのでわからない。

 ジョーカさんは五十代の中堅声優だ。アニメの方で代表作がいくつかあるし、ちゃんとレギュラーも持っている。

 なのでこうして『劇団ジョーカー』なんてものを立ち上げた。自分が演出して芝居を打てば業界の関係者が観に来てくれる。それを目当てに俺みたいな若いのがほぼ手弁当で出演する。声優になりたい研究生が月謝を払って入団する。ジョーカさんにも箔がつく。

 出演して儲かるなんてことはまったくないが、そうやってこの世界はまわっていた。


「あんま進んでないから、気にすんな」

「これ二場ですね」

「まだほとんど自由にやってる。一場のほうはから、動きは代役から聞いて」


 ぼそぼそ話すジョーカさんは場面の切れ目で「はい暗転」と声をかけた。


「ちょい休憩。各務さん入ります」


 劇団員に対しては客演の俺を付けで紹介する。そのへんはちゃんとした大人なのだ。全員から「おはようございます!」と元気な声が返ってきた。


悠貴ゆうき


 するっと近づいてきたのは劇団員の鮎原美紗あゆはらみさだ。つまり、俺がいちおう付き合っているらしき女。


「仕事、夕方で終わるんじゃなかったの」

「いきなり別件で。本村さんマネージャーに連行されたんだ」


 いちいち美紗に連絡する必要などない。向こうはどうせ稽古ぎりぎりまでバイトしているのだから。稽古に遅れることはジョーカさんに言っておけば十分だ。


「そうだったんだ」


 美紗はニコッとして離れていった。俺の代役に立ってくれている若手が待っていたからだろう。プライドが高いので後輩に弱みは見せたがらない。


「……各務さん、まだ鮎原さんと付き合ってるんですね」

「ん、まあ。なんで」


 訊き返すと、「いえ」と濁された。


「えっと、まだラフですけど、一場を」

「ああ、ド頭から頼みます」


 舞台に設定してある場所に移動して、さっさと動きを写させてもらう。

 ――まあ、陰で言われていることは想像がつく。美紗は面倒といえば面倒な女だ。だが同時に、とても面倒くさくない女とも言えるのだった。




 時間貸しの稽古場は二十一時完全撤収だった。ジョーカさんと劇団員、研究生はこれから飲みに行くというが俺は遠慮する。明日の仕事が朝イチだからと言い訳したが、毎回付き合っていられないというのが本音だった。


「私も帰るね」


 美紗がこれ見よがしに隣を歩きだした。もしかして「まだ付き合ってる」の話が聞こえていたのか。メンバーへのアピールのために来たように思えた。


「あ、俺マジで帰る。明日の台本チェック終わってないから」

「えー、だめじゃない。ちゃんとしなきゃ」


 ふふ、と嬉しそうに笑う。

 美紗が俺に求めているのは、。だから仕事があると言えばなんでも通る。

 有名でもない。代表作もない。なんとか食えているだけの声優、各務悠貴。

 それでも声優を志望して何年も劇団員をやっている美紗からすれば隣にいるだけでステータスらしい。そのせいか恋人ごっこ感がぬぐえない。

 ジョーカさんに声をかけられ初めて客演した舞台の打ち上げで告白された。当時フリーだったし断る理由もなかったので付き合って三年。ぶっちゃければ恋愛感情はほぼない。向こうが来たから拒んでないだけ。クズと言われればその通りだ。


「今日は私もスクーター」

「そうか。駐輪場?」

「ん。駅前」


 美紗は基本的に電車に乗らない。潔癖症だからだ。手すりも吊革も触れないことはないが、できるだけ避ける。俺に会う時は我慢して電車にするのに今日はそんなつもりじゃなかったらしい。そう告げられて妙にせいせいした。


「――今回のおまえの役いいな」

「え、そう?」


 駅まで並んで歩きながら他愛のない話で持ち上げる。たぶん、せいせいしたことの罪ほろぼしに。


「セリフ多くはないけど、ビシッと場を引き締めて話を動かすだろ。美紗っぽいしハマってる。今日軽く立っただけでも美紗に目がいった」

「ほんと? 嬉しい。でもそれは悠貴だからでしょ。お客さんはどうかな」

「まあ、そっか」


 彼氏という立場上のものだとそっちから言うんだ。でも確かに気は遣っている。こうして歩いていても手をつなぐでもなく、むしろ肩がぶつからないように気をつけていた。

 美紗は俺に対しても他と同じく潔癖だ。それを知る劇団の男どもは噂しているのだ。「鮎原ってセックスなんかできるのか」と。

 結論から言えば、できる。できた。する。

 だけど、キスはしない。口にもどこにもしない。他人の唾液は我慢できないそうだ。濡らして、挿れるだけの性交。別にそれでかまわない。限りなく一人でしているに近い行為だが、俺もそんなにそっちに興味はないからねっとりされるより楽でいい。だけどたまに互いに義務でやってる気がしてむなしくなることがある。

 この女と俺のつながりって、いったいなんなんだろう。




 駅からの商店街を歩いて十分ほど、マンションというには小さい古ぼけた三階建て物件の一部屋が俺の家だ。二○一号室。

 外階段を二階へ上がると四室だけの薄暗い廊下に人が座り込んでいて俺はギョッとした。

 隣の部屋の前だった。膝を抱え顔を伏せている。紺色の汚れたジャージの上下で肩ぐらいのボサボサの髪。

 ――女、かな。体格的に。あれが学校のジャージなら中学生男子の可能性もなくはない。


 これは、この時間から警察沙汰か。

 勘弁してほしいと思った。


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