第五章
目を合わせた瞬間、SFに出てくるような光線がビビッと走った。
その光は私たちをタイムスリップさせているような鮮明な光を放つ。
白萩さんは眼球の奥を光らせた。
私の眼球も空気に触れ乾いていた。
「やっぱり。生きてたんなら、さっさとそう言ってよ。」
白萩さんは、口を曲げながらそう言った。
「懐かしいな。」
かつて毎日のように通っていたこの公園を見渡す。
「全部思い出したんですね。」
一つの難点が解けると、するすると解けていく、からまった糸のようだった。
白萩さんは池を挟んだ反対側にいた。
「まさか、自分だったとは。」
芒に包まれながら、そう呟いた。
じゃあ、私は、人生で2回も彼に心を奪われたのか。
池には堂々とした満月と千本以上もの芒が映っていた。その中に反対側に立つ白萩さんもいる。
「こっちがどれだけ親身になって探したか。十分に理解しているでしょうけど。」
確かに、ずっと追ってきた人がずっと追っている人のことはある程度は理解している。どれだけ期待を託していたかも承知していた。だからこそ、自分で申し訳ないという気持ちが生まれてしまう。
「あなたは、『主役を喰らう役者』というものに興味を持って僕に近づいてきた。それなら、許されないような行いをいくつもしたけれど、意味があったのかな。」
悪行の意味付けなんて、そんなのしたくなかった。
「事実は事実。何も変わりません。」
きっぱりと言い切ると芒が揺れた。
白萩さんは、その言葉を愛しく思うような視線を向けていた。
「そうですね。」
彼は笑っていた。この世の森羅万象、全てを知っているようだった。でも、自分のことは知らないようだった。いや、むしろ知り尽くしたゆえに、真の姿がわからなくなっているのかもしれない。
「あなたの一方的な気持ちに何も返せなかったことは、ごめんなさい。」
自分に非がないと言い切れる強い意志はあった。あったのだが、彼の消えてしまいそうな瞳を見ると、自分だけが責任から逃れることはできなかった。一つ挙げるなら、自殺未遂をしてしまったこと。あれだけは避けることができたはずだ。
「でも、仕方ないことなんだろ。」
そう言ってフォローしてくれているようだった。
「これからは私と一緒に」
なんて無責任なことを言ってみる。
「そうしたい。そうしようと思っていました。」
彼は少し躊躇いながら続けた。
「でも、死ぬんでしょ。近いうちに、会えなくなるんでしょ。だったら意味ない。」
その裏表のない凛とした声が耳を通過する。そこ言葉の重みを知らないようだった。
白萩さんに現実をつけつけられるなんて想像してもいなかった。
「それなら、あなたのしてきたことは、全て、何も、意味がないことになってしまうじゃないですか。」
やり返す気持ちで、現実を教えてあげた。他人に言われることで自覚できる場合もあるから。
「違う。藤袴さんの顔をもう一度見ることがだきたんだから、無駄じゃない。」
なんですか、それは。そう言いたくなった。この一瞬のために一生を費やしたというわけなのだろうか。だとしたら、なんて切なくてもったいない人生なのだろう。同情する。
「じゃあ、あなたはこれからどうするんですか?」
その問いに白萩さんは固まった。時間が止まったかのように一ミリたりとも微動しなかった。少ししてから、人工的な笑みを浮かべると言った。
「僕は、主役になってしまったから、堕ちるんじゃないですか?きっと退く。この世界から。」
この世界というのは、芸能界を指しているのだろうか。それとも周りに広がるこのワールドを指しているのか。なんとなく後者な気がした。
「どうして?自分を苦しめるんですか?メリットなんて一つもないじゃないですか?」
いくらなんでも自分に厳しすぎる。いや甘すぎるのか。逃げ出すなんて一番容易い方法だ。
「デメリットだって一つもない。」
デメリットを頑張って思い浮かべる。
「世間からの印象とか。」
か細い声でそう伝えた。
「気にしなければいい。事実として受け取らなければいい。」
白萩さんは、何でもないかのように、さらりと返した。
「あなたが亡くなったあとも、誤解されたまま残る。」
困るのは白萩さん一人じゃない。
「だから、耳を塞いでいればいい。」
言葉を受け取らないというのは、誹謗中傷を避ける一つの方法なのかもしれない。でも、何か違う気がする。受け取らないから、誹謗中傷をされてもいい、とは言えない。
誰かを言葉で傷つけるという動作に意味がある。その経験や言葉が良い影響をもたらすなんて、稀にあるかないかくらいのことだ。誹謗中傷は、受け取る側が問題なのではなく、発する側もそれなりにデメリットがある。誰かを傷つけることに抵抗がなくなるとか。それに快感を覚えるとか。悪影響ばかりだ。
でも、きっとこれらの言葉で説得したとしても彼は聞かない。意志が強すぎるから。
「悲しくないんですか?」
苦し紛れにそんなことを聞く。
「悲しくならなければいい。」
だから、そういう話をしているんじゃない。
「あなたじゃなくても、悲しむ人はいるでしょ。」
「いない。」
「私は?」
「だから、どうせ死ぬんだろ。近いうちに。」
今度は躊躇わなかったようだ。こんな風に一度できたことは何度もできるようになる。良くも悪くも。
私だってこの話で落ち込むなんて馬鹿らしいことはしないようにする。
「結局、感情なんてコントロールしてしまえば、何をされたって落ち込むことはない。
失うものがない。」
白萩さんの声は震えていたし不安定だった。でも太い軸が一つ通っていた。
「だから、怖い。」
そんな助けを求めるように見つめられても私にできることはない。
「感情の制御ができなかったから、両親がお亡くなりになったってことで、自分の人生に絶望して死のうとまでしたんですよね。」
自分の言うことは最もだと思った。偉そうに語られる筋合いはない。
「それから習得したんだよ。」
言い返すことができなかった。彼に瞳には明らかに怒りの色が加わっていた。お互いに侮辱し合う。なんて見窄らしい会話なのだろう。
「多分、五十年分くらいの幸せは、既に獲得してます。もう、十分じゃないですか?」
それを十分と言えるのか。わからないが、彼の表情はとても満たされているようには見えない。
池を挟んで反対側にいる白萩さんを見つめる。
右に一歩歩けば、彼も一歩歩く。左に歩いても同じだ。
まるで、数学の問題の中に入り込んでしまったようだ。
明らかに避けられていた。それは確かだ。
「もう一度やり直しましょうよ。まだ時間はあります。」
彼は首を横に振った。
「時間はあっても気力がないから。」
「それに、あなたのいない世界に意味なんてない。無色の世界と同じだ。」
嬉しいような悲しいような。わからなかった。喜ぶべきなのか、落胆するべきなのか。
「もうエンドロールは流れちゃってる。話も完結している。それでも、まだ何時間も続きを見続けますか?映画館に残り続けるんですか?俺にはそんなことできない。」
その例えは理解しやすいが、わかりにくい。一人の人間から、ここまで見つめられたことはなかった。一点集中して。
「あなたは永遠の眠りについて、こっちは刑務所に入る。再び社会に戻って。何か良いことがあると思います?」
確かに良いことを想像することは難しい。それは、私が具体的に思い描けていないから、という要因もあるだろう。
結局は白萩さんの気持ち次第だと思う。絶対こうなるとかならないとかが決まっている、そんな堅苦しい世界ではない。自分次第で変えることもできるし、自分次第で変わってしまうこともある。
「別に死ぬという動作を欲しているわけじゃない。ただ、生きるという動作に窮屈さを感じているだけで。何か休憩どころみたいなのがあれば、いいのに。ないから困ります。」
それには同感だった。今は、自分の希望も聞かずに訪れるんだから、休憩なんてできるわけがない。でも、親が鬱になったときは、一度でいいからこの世界を抜け出して一人になりたかった。
「それはそうですね。」
共感した。少しでも空気を温めようと努力するつもりだ。
「生きててくれて欲しい。なんでそう言うと思いますか?悲しみを感じたくないからですよ。でも、自分にそう言ってくれる人はいないじゃないですか?」
私が。そう言いかけてやめた。どうせまた、『そう言い続けてくれる人はいないじゃないですか?』とでも言われて、私の余生が短いことを暗示させられる。
「人生が何かリボンのようなもので、他の人のものと交わりあっているのだとしたら、その交わりに僕が消えても誰も困らない。それどころか、喜ぶ人もいるかもしれないですね。」
話題に乗って、ふざけて歓喜の言葉を使う人はいるかもしれない。でも、心の底から人の死を喜ぶなんて、可哀想な人間だと思う。
そんなことでしか、喜びというものを味わえないのだから。
「死ぬことには意味がある。」
白萩さんは、次々に自分の考えを私に振りかける。
「たとえ、どんなに批判された有名人がいたとしても、その人が死ねば、その人の価値は上がる。評価も上がる。あまり日常に隣接していないから、人々は理解できないことだから、とりあえず敬う。制御不能なものだから、昔から恐れられている。だから、祟りを恐れるのか知らないけれど、自業自得と指を指す人はあまりいない。」
彼の言いたいことは理解できたし、ある意味正しいんじゃないかと思う。でも、賛同はできなかった。あまりにも酷い。
「つまりそれは一番大切なものだから、それを捨てればある程度は許される。それだけ命は大きいものだから。」
彼が語り終わるのとほぼ同時に叫ぶように言った。
「命の大きさなんてあなたに語られたくない。」
彼も私も黙り込んだ。
説明しようとしても、これ以上に適切な言葉はなかった。何で知った被ってるの。
「あなたの浅はかな理解で勝手に結論付けないで。」
だめだ。これ以上は、毒しか出てこない。彼が最後だというのなら、少しは明るく終わりたい。そう考えているのは事実だ。でも、反抗せずにはいられなかった。
「そうですよね。ごめんなさい。」
反省したように見えた。でも、実際にそうしているかはわからない。
「でも、池月千芒という人間をただ犯罪者で終わらすより、こっちの方がずっと幻想的だろ?」
こっちというのは、自害することだろうか。『主役を喰らう役者』だから、自分が主役になったときでも、自分自身を終わらせてしまう。そんな物語を作成しようとしているのだろうか。
幻想的かどうかは求められていないと思うけどな。
頷くことも首を振ることもできず、黙り込んでしまった。
私たちは似たもの同士だった。
だから、同情できる部分はある。
その代わりに彼が抱える問題の解決法は私にもわからない。
「別に何でもいい。都市伝説にでもなんでもなってくれれば、ただ生を受けて希望もなく死んでいくのよりもマシじゃないですか?
自分で始めた物語なんだから、自分に締め括らないと。」
多くの人を敵に回すような言い方だった。周りの様子を伺うことなく、自分の意見は堂々と言い放つ。懐かしさを覚えた。記憶に一つも残っていないわけではないみたいだ。
決意を固めた表情。そういえば、昔、この場で役者を目指すことを宣言された。その頃の私たちは嫌なものには目を背けることができた。私は母が眠りについた後、ここに来ていたのだ。忍者のように物音立てずに、家を出ると真っ直ぐ向かった。母が外出しているときや、機嫌が悪いときは、自粛していたが。
お互いに、壁を抱えていたから、背いても責める人はいない。私にとっても大切にせねばいけない時間だった。道路に走って出た。そのときに、浮かんだ顔は親じゃなくて、昔の白萩さんだった。それくらい私も彼に心を寄せていた。一瞬でも躊躇する時間があったことで、トラックの中心とぶつかることはなく、死なずに済んだ。ある意味、彼は命の恩人だった。でも、目を開けたとき、見たことない世界が広がっていた。記憶の奥底にきっと彼の顔はあった。でも、引っ掛け棒を使ってもギリギリ届かない棚の奥なんかに彼はいた。思い出すのには、気力が必要だった。新しい人間として生きていくことを覚悟していたため、余計な労力は使いたくなかったし、病気の存在を認知している白萩さんのことは自然と避けていた。思い出してしまうのが怖かったから。
それと同じように、彼は自分と出会った日から、池月千芒を借りて生きていくことを決心した。
「お互い、変わったふりをしていただけで、何も変わっていなかったのですね。」
痛烈にそう理解した。
『いつまでも光の中に在れますように。』
いつだかそう神に願ったことがあった。彼が隣にいてくれるうちは、日向を歩くことができそうだ。彼が日向を歩いているわけではない。でも、彼の存在が私の動機となり日向を歩かせる。白萩さんがいるなら、という行動源になる。
「わがままだってのは承知の上で言います。私が死ぬまで待っていてくれませんか?」
一人残されるのが嫌だった。それが苦で苦で仕方なかった。闘病生活なんて考えただけで吐き気がする。
「無理です。もう時間がない。刑務所に入れられてしまったら、しばらくは出れないじゃないですか。」
死ぬのは前提のようだった。それは覆らないらしい。
何か良い案が思い浮かぶこともなく、黙り込んでしまった。
「それなら私はどうすればいいですか?」
生き甲斐を失った私はどう生きていけばいいのだろうか。
「池月さん!ちょっと。」
桔梗さんと葛宮さんがタクシーで駆けつけたようだった。先払いをしていたのだろうか。タクシーが到着すると同時に扉を開けた。
白萩さんは私を睨んだ。彼らに場所を伝えたと疑われているのだろう。そりゃあ、桔梗さんには一応伝えてある。
「そこから動かないで。」
白萩さんのサイレンのような声が鳴り響いた。人からこんな大声が出るものなのだろうか。3人はぴたりとだるまさんが転んだのように静止した。それは命令に聞いたからではなく、その声が胸に響いたことに対する驚きだった。
「早まるなって。」
硬直状態から解放された葛宮さんは少しずつ距離を縮めようとする。桔梗さんは固まったまま動かない。私もどうしていいのかわからず、その場に立ち尽くした。
白萩さんはボトルのようなものを取り出すとそれを逆さにして自身に注いだ。二本ほど繰り返す。余った分は地面に撒いた。
「何してんだよ。」
葛宮さんと私の距離は七メートルくらいある。その距離を彼は順調に縮める。どちらかというと、白萩さんとの距離を縮めようとしているのだろうけど。
「動くなって言っただろ。」
刃のような眼差しが葛宮さんに突き刺さった。真っ黒な髪から水滴がしたっている。こんなときに場違いかもしれないが、とてつもなく美しかった。
「藤袴さん。」
瞳の奥にある眼球を光らせながら、彼は呼びかけた。
「あなたの未来を決める人はあなた自身しかいない。判断を間違っても誰も怒らない。自分が好き方を選べばいい。苦しまない方を選べばいい。」
そう言うと、白萩さんは、太陽のような笑顔をいっぱいに咲かせた。一人で笑った。私たちはその様子を眉を顰めながら見ていた。不気味だった。でも、開放感に溢れていた。
「やっと千秋楽を迎えられる。」
白萩さんは満面の笑顔で言った。
そしてライターから炎を放った。
ふと、以前交わした会話が頭の中で再現された。『火葬前の最後の姿を見送ってくれ』ってまさか。
手を差し伸ばした。その先端に痛みを伴う温もりを感じた。
マッチに光が宿るときの音を最大限の大きさで流したようだった。
全てがスローモーションで流れているように感じる。
衝動的に身をかがめる。
存在しないはずの吹雪が髪を乱した。
瞳ごとくり抜かれそうなほどの吸引力に引っ張られるように涙が飛び跳ねる。それもあっという間に遠くへ飛ばされてしまう。冷えた涙は私の頬を凍らせた。
数メートル先にぼやけて見える白萩さんは、炭酸飲料のように涼しい顔でこちらを見つめていた。まるで映画の一シーンのようだ。
馬鹿。その清々しい顔にムカつく。自分勝手。自己中心。そんなところに心を寄せていたくせに、自分に向けられるそれらは、棘のように痛かった。
泣き叫びたい。全てを投げ出して、この地球をぶち壊して。
自分ではどうすることもできない。全てが手遅れだった。もう少しあと少し、早かったら、彼を救うことができたのだろうか。私が病気を患わなければ。そもそも、二人が出会わなければ。後悔は人類誕生まで届いてしまいそうだ。
今ここで百人が集まって消化活動をしても、きっと傷は残る。生きていられるかも危うい。
全部手遅れだ。何もかもが遅かった。
押し潰さずように降り掛かる後悔に足を崩される。直立していることもできなかった。
私が人類最速で走っても、哺乳類最速で走っても、結局はランニングマシンの上で走っているだけなのだ。その事実は更に重く重く地面に押し付ける。
こうなったら、もう。
なぜか私は全てを悟ったように足を進めた。自分自身では制御できない何かの力が働いているかのように。望んでもないのに。
太陽を近くで見ているようだった。その光はどれだけ離れようと手を離しても、魅力的で対抗できなかった。
誘われるように、背中を押されるように。
最後の彼の姿を目にこれ以上ないほど焼き付ける。
もう終わるんだ。私も白萩さんも。
なんだか、逆に清々しい。後悔も何も忘れてしまえば、真っ白だ。
記憶に焼き付ける。心に焼き付ける。体中に焼き付ける。
一生忘れない。多分、一番可能性のある一生忘れない、だな。だって、もう一生は終わるんだから。
私たちは光の中にいる。永遠に。
あなたこそが私の人生の主役です。
言葉を返した。
これは、千本の禾《すすき》と火に包まれて楽になった私たちの話。
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