第四話

 着信音に目を覚めさせられる。一度は着信拒否をしたものの、何度も何度も続けてかかってくる。目覚まし時計よりも鬱陶しい。

 十分に開かない瞼を無理矢理こじ開け、表示された相手の名前と電話番号を見る。それらを確認すると、途端に電話に出る気がなくなってしまった。着信音が聞こえないようにベッドの奥の奥に放り込む。その間も常に着信音は鳴り響く。

 なんてことをしているうちにすっかりと目が覚めてしまった。今日は休日だから遅くまでベットにこもるつもりだったのに。

 しばらくして着信音は鳴り止んだ。安心するのも束の間、朝の支度を済ませ朝食の用意を始めた頃に、今度はインターホンが鳴った。ドアに開けられた穴で相手を確認する。思わず、ゲッと言ってしまった。ある意味予想通りの相手だ。電話をかけている間にすでにこちらに向かっていたわけか。

 鳴り止まなくなったインターホンにストレスが溜まる。耳を塞ぎながら玄関のドアを開く。

「うるさい。朝から迷惑。」

 ドアの前で待ち構えている葛宮にそう言いつけた。

「もう一度聞くけど、石竹さんが亡くなった時、何してた?」

 達成感の溢れる声色と勢いに嫌な予感がした。朝だっていうのに威勢がいい。無視してやろうと思ったけど、無理矢理、家の中に乱入されるのも嫌なので仕方なく答えることにした。

「仕事終わりに桔梗と分かれてから、そのまま家に帰った。」

 日常の一部だ。特別なことはない。

 言い終わってもなかなか返ってこない言葉に、さらに嫌な予感がした。きっと余分に溜めて、運動会の結果発表かのように重大に発表されるのだろう。めんどくさいけど、それを静かに待つしか、早くこの時間を終わらせる方法はない。

「それ、嘘だろ。」

 始まった。なぜこんなに張り切っているのだろうか。高揚感に溢れた声が耳をいじめる。顔を殴りたくなる。できなくもないのだけれど、また面倒なことに繋がる予感がしたのでやめておいた。

「証拠もちゃんとある。」

 いちいち言葉がうるさい。本当に迷惑でしかない。

 そしていつのまにか、いつものごとく、勝手に靴を脱ぎソファでくつろいでいる。

「記者に取られたっていう写真あっただろ。運がいいことに通行人は映っていなかった。石竹さんが亡くなられたときの写真だと発表されているから、それを覆すことは安易じゃない。」

 やっぱりその話か。いつかはバレると思っていた。逆にここまで証拠が出なかった方が驚きだ。案外上手くやってくれたのかもしれない。あの記者さんも。

 ドアに鍵を閉める。周りに人がいないことを確認しながら。

「行動しないと落ち着かない性格だから写真が撮られた現場に足を運んだ。同じような時間に。写真と目の前の風景を照らし合わせてみたんだ。そうしたら、実際には、とあるマンションの明かりが点灯されているのに写真の中のマンションは明かりがなかった。」

 そこから見破られたのか。それは仕方ない。写真に映ったマンションの事情なんて知らない。対策しようがない。欠伸をしながら話を聞く。

「季節によって点灯される時間が異なることはよくある。でも、七月から八月になったからといって、点灯時刻を変えるマンションはおそらくないだろう。季節の変わり目でも何でもない。気になって、そのマンションの管理人さんに聞いてみた。」

 まるで小学生かのように声が踊っている。なぜここまで熱心に知り合いの動きを探ることができるのだろうか。信頼というものはないのだろうか。

 ずっと座って話を聞くのは退屈な上に従順すぎるので、コーヒーを淹れることにした。もちろん自分用に。

「そしたら、凄い感心してしまうくらい想定通りの結果だった。その日はたまたまマンション全体の電球を新品に交換する日だったそうだ。しかし、発注していた電球が予定通りに届かず、すでに古いものは撤去してしまっていたため、1日限定で光のないマンションが存在したというわけだ。」

 世紀の発見をしたかのように堂々としている。ムカつく。コーヒーカップを投げ割ってやりたいくらいだ。

「その日が、石竹さんの亡くなった三日後。残念だったな。」

 別に残念じゃない。心の中で睨みつける。現実では目を合わせないように精いっぱいの努力をしている。

 このまま返事せずに黙っていてもいいのだけれど、それじゃあ内容を認めることになる。いやどっちにしろ認めなければいけないのだが、もし黙ればまるで悔しがっているかのように映るだろう。それは嫌だ。

「随分と遅かったな。即座にバレると思ったけど。これだけ持ったならいい方じゃないか?」

 相手の頭を踏み躙る。台に乗って背伸びをする。そして相手の顔を見下す。

 目を合わせてそう言った。葛宮は鼻で笑った。そして言った。

「撮影者である記者にも当たってみたけど、何も話さなかった。単に従順なのか、それとも卑劣な脅迫をされたのか。」

 話を無理矢理変えられた。台から落とされた気分だ。

 それに、ストーカーで訴えると伝えだけだ。悪いことをしたつもりはない。気味が悪いストーカーなんて誰だって対処するに決まっている。当たり前のことをして、それにちょこっと付け足しただけだ。

 コーヒーを片手に食卓の椅子に座った。一口、口に含んでから言う。苦いコクのある味が全身に染み渡る。

「まあ組織で動いているわけじゃないから、時間がかかるのも仕方ないか。石竹さんは、自分で誤飲してしまったと告白した。まだ真犯人がいるのではないかと疑っている時代遅れの愚か者はお前だけだ。」

 犯人がいないことを何か隠されているのではないか疑っているのは事実だ。でも、今はニュースに縋り付くしかない。あれを事実として認識したことにするしかない。

 葛宮は、表情をかけた。威風堂々とした自信に満ち溢れた頬の張りは、徐々に縮まっていった。そして、なぜか哀れむような優しい瞳を向けた。いやらしい。

「お前、石竹さんが心の支えだったんだよな。」

 同情か。それならいらない。

「そんなお前からして、こんなことあり得ると思う?誤飲したって。」

 自分がどちら側の主張をしていたかなんて忘れてしまったかのように咄嗟に叫んだ。

「信じられるわけない。僕が一番犯人を妬んでいる。見つけ出したらぶっ殺したいくらいに。」

 寝起きの乾いた眼球にカラカラの風がかかり眼球は湿った。鼻がツーンと欠伸をしたときのように痛む。でも絶対に液体は作らない。この場では流さない。

 視線を感じる。

 何を考えていたのか、しばらく返答はなかった。想定外だったのだろう色々と。

「だよな。」

 再び沈黙が訪れた。

 コーヒーを一口飲んだ。熱過ぎる。舌をやけどさせてしまった。一人で我慢し顔を歪めた。

 しばらくしてその沈黙の膜を破るように言った。

「知っていると思うけど、アリバイがないということは直接的な犯人である証拠にならない。ちなみに実際には、家で休んでただけだ。でも、それを証明できる人はいない。だから、一番に疑われる可能性があったから念のためにアリバイを用意してただけだ。」

 どうせこれから聞かれるのであろう質問の答えを先に答えておいた。模範的な回答だと思う。家にいた。疑う余地がないだろう。

 今度は向こうが目を逸らしていた。

「もう一つ重大すぎる証拠があるんだろ。威力が大きすぎて自己犠牲も伴うが。」

 返答はない。仕方ないか。自分が向こうの立場でも返答しないはずだ。

「あの薬のことを世間にばら撒けば、犯人が三人に絞られる。」

 声を張り上げて言った。今は完全に向こうが劣勢になっている。このまま押し切ればいい。

「まあ、自分自身が真犯人だから、そんなことできるわけないか。」

 ニヤリと笑みを浮かべながらそう言った。この煽りに効果があるといいのだけれど。

「犯人を追っている、一番良いポジションじゃないか。第一に容疑者から除外される。」

 これはつくづく思うことだ。その立場を最大限に活用している。

「動機はなんだ?聞いてやるよ。やっぱり金か?それとも罪を着せるため?どちらにしろタチが悪いな。」

 そう言いながら距離を縮めた。葛宮が腰掛けるソファの横まで歩いてきた。見下しながら瞬きする。

 葛宮はどこかを見つめながら、目を細めて言った。

「お前が犯人に違いない。それはわかっているんだ。」

 うちに乱入したときの第一声とは打って変わって、情けない乏しい声だった。

 さらに追い込むように声を張り上げて言った。

「こっち目線では、お前。桔梗目線でもお前。2対1だ。諦めろ。」

 お互いに、答えはわかった証明問題のようだ。

 そう言われて諦めがつくと思いきや、逆に火をつけてしまった。気持ち悪いやつ。

「なんとなく後ろめたい気持ちになってたけど、今回のアリバイが見つかった件で、一つ足掛けを失ったのは、お前だけだ。こっちは何も損をしていない。」

 逆に今まで気がつかなかったのかよ。それにやっぱりこいつもアリバイがなかったんだ。正確には、証明できる人が。

 背を向け、食卓に一直線で戻っていく。その間もなんかごにゃごにゃ喋っていたが、耳から通り抜けてしまった。頭は通過せずに。

「つまり、今やっと同じ位の土俵に立ったってことだろ。次確固たる証拠を見つけた方が勝ちだ。」

 勝手にやってくれ。別にこいつを犯人に仕立て上げることに興味がない。どうせ何かしら裏の手でも使ってかき消されるだろうし。

 無視しながら席につき、そろそろ冷めたであろうコーヒーを一口飲むことにした。口元に近づいてくる液体を遠ざけながら近づける。一口口に含んだ。もう大丈夫だった。ちょうどいい温かさに変化していた。

「残念だけど、同級生が犯人だって証拠を見つける、そんな気持ち悪い趣味は自分にはない。」

 足を組んだ。目を合わせようと睨みつけながら葛宮の方を見た。彼はため息をついてから言った。

「綺麗な理由を後付けしてるけど、正しくは犯人候補が自分以外にいないから、だろ。」

 向こうも同じように睨みつける。

「証拠もないのにどうしてそう言い切れるんだよ。」

 対抗するように言った。そうすると葛宮は口を結びながら自分の真正面に向き直った。わかりやすい。

 また目を細めた。

「怪しいんだって。」

「何が」

 葛宮はゆっくりと目を閉じ開いてから、こちらに視線を向けた。まるで遺族を哀れむかのような似合わない瞳に眉をひそめる。軽蔑するような視線を向ける。

「そんなわけないと嘘だと思われるんだろうけど、本当は犯人は桔梗でもお前でもないと思ってる。」

 今更何を言ってるんだ。意味がわからない。宣戦布告もしていたくせに。

 そんな弱気なんじゃこっちの予定も狂う。

 眩しいときのように目を縮ませながら視線を向けた。

「それじゃあお前の行動の理由は何なんだよ。」

 向こうは何も答えられない様子だった。

「上手く言えないけど、全部が全部お前の責任ってわけじゃないんだろ。」

 葛宮は苦味を味わっているかのように渋い顔をしていた。説明するのが難しい、と言っているかのようだ。

 予想外の言葉だった。

「だめだ。なんて言えばいい。」

 彼は息を漏らすように笑った。何となく目を逸らした。思いというものは真正面から受け取るものじゃない。自分はそれが苦手なのだろう。

「なんていうか、そっちサイドはお前一人じゃないんだろ。」

 首の裏のあたりに電気の痺れを感じた。

 食器を洗うふりをして、向こうから見えない位置に隠れた。そして無理矢理自分の感情をコントロールし笑顔を作る。弱気になっちゃだめだ。

「根拠もないくせに、よくそんな堂々と妄信を語れるな。」

 嫌味のつもりで言った。ガシャガシャと食器を雑に扱いながら食洗機に入れる。コーヒーカップ一つしかないのだけれど。

 自分の行動の意味がわからずに、行動した。いやわかる。多分、この状況から逃げたいのだろう。全部見透かされてしまいそうで怖いから。

「確かに直感で根拠もない。でも、これしかお前らしくない行動とお前を結びつける理由がない。」

 やっぱり根本的には、僕が犯人だと考えている。何も変わっていない。全部話せばわかってくれると一瞬傾いたけど、無理みたいだ。仕方ない。

 でも、この捨てがたい温かい哀れむような視線が、優しかった。ただのゆすりで罠なのかもしれないけど、真意じゃないのかもしれないけど、嬉しかった。

「どうかな。」

 固い笑顔を浮かべた。一生懸命に笑みを作ろうとしたのに、その指令に従ったのは口だけだった。目は左下をなんとなく見つめていた。その先に何かが映るわけでもないのに。

「言っておくけど、これは同情とかじゃない。ただ一人の刑事として真実を知りたいだけだ。」

 どうせそんなことだろうと思った。

 顔は下を向けたまま、目の筋肉だけで睨みつけた。酔ったように目が痛んだ。

「はいはい。」

 目を逸らしながらそう言った。なんだか自分がものすごく小さく見えた。怯えてるように見えた。だらしない。情けない。

「だから、何かわかったこととか言えることがでてきたら、さっさと言えよ。今じゃなくていいから。」

 やっと理解した。これは不器用な優しさなんだ。

 何かに追われている自分を哀れみ助けようとしてくれているのだろう。

 しかし、残念だけど、何かに追われているわけではない。読みは完璧に外れている。

「白萩。」

 その真っ直ぐな瞳に応えられる瞳を持っていなかった。息を大きく吸って吐いた。

 瞳をゆっくり動かし目を逸らして頭をかく。なんとなく何かに従うように廊下に出た。トイレに行くと伝えた。震える両手を隠すように。

 用もないのにトイレに引きこもった。精神状態が落ち着くと、ドアを開き外に出られた。リビングに戻ると、もう葛宮はいなかった。ドアの鍵が開いている。それを閉めると、先ほどまで埋まっていたソファに座り込む。

 悔しい。気を遣われた感じが情けない。クッションを抱く。そして目を閉じた。

 次に開いたときには、水滴が溢れてきた。喉を遡ってきた吐き戻したものを飲み込むように、涙を飲み、深呼吸をした。出し切ってしまえば楽になるのだろう。でも、今はこうして応急措置を続けるしかない。空っぽになってしまったら、全部打ち明けられるようになってしまうかもしれない。それは不都合だ。自分自身というものは、コントロールできるようで大事なとこは何も言うことを聞かない。楽な方に本能で動く。そんな自分に振り回される自分も情けない。苦しいなんて言ってられない。

 立ち上がると朝食の準備の続きを始めた。

 


 自転車を取り巻くように風が吹く。

 今まで自転車に乗って通り越してきた道路が全て、自分の背中に付いているように感じた。心強かった。

 私はすっかり回復した。あれから、二日くらい検査入院をした。検査の結果は絶望的だった。ほんの少しだけ込めていた期待もあっけなく消えてしまった。

 先生の話を聞いているのが退屈で仕方なかった。どうせ結末はわかっているんだから現状の死ぬまでの過程の一部は説明されなくていい。それだったら余生を楽しむ時間として使いたい。

 お母さんの久しぶり会えたことは嬉しかった。白萩さんに全部話してしまったみたいだけど。他の人ならきっとカッとなって怒ってしまうだろうけど、彼ならいいかとちょっとだけ安心した。なぜだろうか。今まで会った人の中で一番不安定そうに感じ取れたのに。

 何を話したかは知らない。後から少し教えてもらったけど、どんな風に話したか、具体的にどんな話をしたのか、わからない。でも、きっと白萩さんの初めましての人に向けるような気まずい視線を受け取った限り、記憶を失ってしまったことも暴露されてしまったのだろう。自分が記憶を失ってしまったという記憶はある。ある一点を境に記憶が途切れ途切れになっている。全部が真っ白になってしまったわけではない。でも、ほとんど、95/100くらいは無くなってしまった。もう戻らないらしい。それを知ったとき自分は何を思ったんだっけ。

 自殺未遂だったことは認める。でも、運良く車が来てくれたらなって思って何もみずに道路に飛び出しただけだ。最初から死ぬつもりはなかった。結局、最後は自分の運に任せた。そしたら、運が良いのか悪いのか完璧なタイミングでトラックが走ってきた。これが最後なんだって笑ってた気がする。

 死にそうだってはっきりわかった。これが終わりなのかって。死にそうなんて使っちゃダメって何度も教わったけど、こんな時ぐらいはいいと思う。思った通りになるなんて、やっぱり運が良いのかななんて思いながら、轢かれた。

 でも、やっぱり運は悪かった。目を覚ますことができた。今でも覚えている。天国だと思って目を覚ました場所は明らかに地球で日本で病院だった。必死に誰かの名前を呼ぶ女性が一人いた。起き上がると抱きつこうと手を広げる。私は自然とそれを拒んだ。その様子を見て彼女は酷く落胆したようだった。でも、事前にその可能性を知らされていたようであまり驚いた様子はなかった。

 しばらくして事情を聞かされた。自分のことには思えなかった。何でこうやって病院にいるのかも忘れてしまったらしい。誰かから昔の様子を口伝えしてもらうことである程度の記憶は戻せた。戻せたというより暗記しただけだけど。

 でも、少しすると自分の状況が読めてきた。落ち着くと誰だかわからなかった女性も自分の母親だと認識することができた。何のヒントも見ずに自分の力で認識した。それを伝えると彼女は世界で一番美しい花のような笑顔を見せた。満たされていた。でも、接し方は忘れてしまった。何かリセットされてしまったようだった。少しセーブしておいてよかった。じゃないと赤ん坊からやり直しになってしまう。記憶に残っている人と残っていない人がいる。一夜漬けで暗記したテストの回答を忘れてしまったかのようだった。

 この病気だってことは最初は認識しなかった。誰も薬を飲むことを強要はしなかった。病気だってことを明かそうとはしなかった。忘れていたわけではない。何となくそんな気がしていた、くらいだったけれど。でも、考えないようにした。認識しないようにした。周りからは忘れたふりに見えたかもしれない。確かに、気が付かないふりはしていた。でも、全部消えてくれたわけではない。ちゃんと残っている。

 自分の状況に慣れてきて余裕ができたころ、お母さんに病気について聞いた。彼女は明細に教えてくれた。私がどんな気持ちだったかとかそうなってしまった過程とか。そして、お薬を飲んだ方が楽に過ごせることも教えてくれた。それから、何となく毎日、言われた通りに飲んでいる。諦めたのだろう。また治っているかもしれないという微かな期待は潰された。

 昔の自分を取り戻そうと頑張った。多分その私に会いたがっているお母さんがいると思ったから。でも、無理だった。知識として今までの経験を頭に詰め込んでも、もう戻れなかった。

 私は昔の私とは違った。別人のように見えるかもしれない。別人なんだ。生まれ変わったようだ。昔の私にできたことが今の私にできるわけじゃない。自分に非があるとしたら、その状況を改善しようとしないことくらいだ。それ以外は自分の力でどうしようもない。

 自殺未遂をして良かったなんて言ったらきっと怒られるだろう。でも、そう思っている部分もある。死にたいって思ったように昔の私は自分に幻滅していたのだろう。その絶望感は消え去った。トラックに轢かれるとともに必死の運命への抗いも去っていった。抗うから辛かったのかもしれない。受け入れてその中でベストを尽くすのが最適な方法だろう。でも当時はどれだけ深く深く探してもその答えは見つけられなかったと思う。今になって余裕ができ、離れた視点から自分を見ることができるから、そういった考えに繋がるわけだ。そう考えれば、あの状況のままだったら早かれ遅かれ身を投げ捨てていただろう。

 良い形で良いタイミングで身を投げ捨てることができた。そして、救われた。身体的にも精神的にも。やっぱり運が良い。

 

 自分の家につき、自転車を駐輪場に停める。駐輪場といってもラックもない簡単なものだけど。空はすっかり暗闇に包まれていた。でも真っ黒ではない。これくらいの時間が一番心地いい。

 ささっとシャワーを浴びて髪を乾かしながらスマホを開いた。退屈なニュースで埋まる。その中に知っている名前を見つけた。迷わずタップする。

 『池月千芒』やっぱり切り離すことができない。その内容を目で追う。

 簡単にまとめるとこうだ。

『女優の粟瀬花から、とある俳優からのハラスメントに苦しんでいることを伝えられた。相談に乗り、初めは匿名で明かすことを提案した。でも、それじゃああまり威力がないため、正式に訴えることにした。幸い彼女の名前が出回ることはなかった。それによりその俳優は失脚した。それと同時に、相談に乗るため彼女の家を訪ねたりするうちに写真を撮られてしまった。彼女の厚意で自分の正体は明かされずに済んだ。粟瀬花の結婚相手は一般人であるが、顔は一部のファンの間で出回っている。写真が世に出されたすぐの頃は、夫婦の仲睦まじい日常の一瞬として対処されたけど、段々と顔が異なるという噂が広まった。既婚者であるため浮気だと一方的に批判を受け、彼女も失脚した。しかし、共演をきっかけに相談に乗る間柄にはなったものの、恋愛感情があるわけではない。それは否定する。』とのことだった。

 情報量がかなり多い。頭がこんがらがる。ドライヤーを一度止めながら穴が開くほど真剣に記事を見つめ、真剣に考える。

 つまり、この一連の成り行きが三つ目と四つ目の彼にまつわる噂に対する事実だってことだ。三つ目のハラスメントで訴えられ退いた件と四つ目の不倫だと騒がれ退かずを得なくなってしまった件。

 どちらに対しても納得のいく理由だった。問題はなぜ、今頃、この実態を明かしたかという点だ。初めから公表するつもりだったなら、もう少し早い段階で明かしていただろう。騒がしく飛び交っていた噂も今はある程度鎮まった。このまま明かさずに黙秘していても良かったのではないかと感じる。

 しかし、今じゃ周りを気にせずに外出することも難しくなってしまった粟瀬さんのことを考えると賢明な判断だったのかもしれない。どうしても白萩さん側の視点で考えてしまうけれど。

 そのネットニュースのコメント欄を見ようとスクロールする。意見はかなり対照的にいくつも書き込まれていた。

 なんだそんなことかと安心する声。よく公表したと称える声。もっと早く明かすべきだと責める声。

 また、粟瀬さんに対する声も多かった。ハラスメントで件では完全に被害者である。また、不倫の件の勘違いをされ批判を浴びた点では被害者でもある。

 彼女を哀れむ声や彼女に対する謝罪の声がよく見られた。これで粟瀬さんも少しは報われるのだろう。きっとその結婚相手の人も。

 白萩さんはどのような気持ちでこれを公開したのだろうか。マネージャーが管理する宣伝用のSNSで分書体で公開したらしい。

 これが諦めなのか希望なのか、どちらだろうか。もう隠すことが辛くなってしまったのか、もう隠さずに済むようになったのか。

 どちらにしても何かを抱えていることは間違いなさそうだ。


 

「独断で行動しないで。」

 桔梗の声に腹が立つ。椅子に座らされ、説教を聞かされる。

 仕事の管理を頼んだだけでそれ以上のことは求めていない。

「別にこっちの勝手だろ。」

 睨みながらそう言った。本当にそれだけの関係だ。向こうがどう思っているのかはわからないが。

「そうじゃなくて、私にも相談してくれたっていいじゃない?」

 相談するかしないかだってこっちの勝手じゃないか。

「何か意図があるなら教えてとは言わないけど、せめてサポートさせて欲しい。」

「いやだ。断る。」

 どうせサポートが目当てなんじゃなくて、見張っていたいだけなくせに。

 桔梗は深いため息をついた。そっちからこの場に呼んだくせに何だよ。こっちだってため息くらい吐きたい。

「私は信じてるから。あなたが犯人じゃないって。二人のうちあなたを選んだんだから。」

 だから何だよ。勝手に選んだんだろ。こっちは自分を選べなんて一言も伝えていない。自分で行動したくせに人に責任を押し付ける。

「別にいらない。信頼も何も。」

 彼女は目を閉じて自分の怒りを鎮ませようとした。しかし、それは難しかったようだ。

「私がどれだけあなたに尽くしてきたかわかってる?人生かけてるから。」

 怒り狂った桔梗の顔を見つめる。間抜けな顔だ。上から見下しながら言う。

「別に強要したつもりはない。勝手についてきただけだろ。」

 桔梗の瞳は一度倍くらいの大きさに膨らんだ。そして何かが爆発したかのように弾けて、気がついたら湖のように水が張っていた。下を俯きながら自分の目の当たりを抑える彼女の姿を見て申し訳ない気持ちになる。そんなつもりじゃなかったなんて言っても許してくれないだろう。最低じゃないか、自分。

「ねぇ、何があったの?」

 桔梗は涙を啜りながらそう嘆いた。顔を上げて彼女の顔を見つめる。アイメイクが崩れるほどの号泣だった。そんな悲惨な彼女の姿より自分の方が醜悪だった。

「こんな人じゃないでしょ。」

 その言葉は胸の奥の奥の奥までスローモーションで突き進んで、グサリと刺さった。その瞬間から身動きができなくなった。

 冷静に振る舞えという脳の指令に抗うように身体中が震える。

 頭が熱くなり、汗をかく。こめかみから頰の辺りまで震えが襲う。冷たくなった指先。腹部の痺れ。異常なほどに足踏みをする足。靴の中で踊り出す指先。操られているようだ。怖くなってその場を離れようとする。誰にもこんな惨めな姿を見せてはいけないと感じた。

「ちょっとまって。」

 服を掴まれる。振り払うこともできなくなかったが、自分のために涙まで流せる桔梗をさらに泣かすことはできなかった。

「何があったの?」

「何もない。」

 そっと撫でるような声でそう答えた。

 桔梗は困ったように目を伏せた。しばらくしてまた口を開いた。

「それじゃあ自分で自分は変わったと思う?」

 難しい質問だ。目を合わせないように下を向きながら左右を確認する。考えるふりをしているだけだけど。

 正面を向き直しニコリと笑みを浮かべてから言う。

「何も変わってないよ。」

 目を細めて微笑む。霞のかかった瞳で相手を魅了する。

 桔梗は惹き込まれたように何も喋らない。その間もずっと暖かい視線を向け続けた。

「ほんとだ。」

 桔梗は瞬きをせずに滝のような涙を流す。

 そんなにザーザーと泣かれたしまったら、こっちだってどうしていいかわからない。

 周りに誰もいないことが唯一の救いだ。

「もう会えないのかと思った。」

 ヒックヒックと声を上げながら泣き出した彼女を愛おしく思う。

 衝動的に腕を回して抱き抱えようとする。

 彼女は断固拒否した。振り払われた手を見つめる。

「馬鹿。」

 桔梗の生まれたての子鹿のような瞳を、僕の馬のような大きくて暖かい瞳で包み込んだ。

 何とも表せないようなしっとりとした時間が続く。

 時間が止まりかけた瞬間、電話が鳴った。そして時間が動き出す。

「もしもし。」

 涙を拭いながら桔梗は電話に出た。

「はい。ありがとうございます。」

 そう言ってからこちらを向き、弾けるようなウィンクを見せた。


 あんなに泣かせるつもりじゃなかったのにな。成り行きで結果的に良い感じになったものの後悔していた。

 結局あのあと、お互いにどうしていいのかわからず事務所を出た。普通は高級車なんかで送迎してもらえるものだと思うが、そんなことをしてもしなくてもどうせ身バレしないので意味がない。逆にあまり目立ちたくない。だから、地下鉄なんかも日常的に利用している。

 お気に入りの洋食店に入る。ビーフシチューを頼んだ。特に理由はないけれど。

 スプーンと真っ白の皿が奏でる音を楽しみながら満腹度を満たしていった。

 その時、スマホが震え出した。片手でポケットから取り出し、画面を見つめる。

 葛宮だ。着信拒否しようと手を近づけたが、この間のように家に突入されても困るので仕方なく電話に出ることにした。

「なに?」

 シチューを口の中に含みながらそう言った。どうせ大した案件じゃないのだろう。

『なんで、このタイミングで公開したんだ?』

 予想通りだ。どうせそんなことだと思っていた。

「なんとなく。粟瀬さんばかりに批判を浴びせさせるのは可哀想だから。」

 それ以上の理由も以下の理由もない。

『ほんとにそれだけ?』

「うん。」

 そうだってさっきから何度も言っているじゃないか。二度手間だ。

『それにしてもよくバレなかったな。お前だってこと。』

 そりゃバレないよ。

「まあ。たまたまだろ。そんな暇なやつばかりじゃないってことだ。」

 葛宮は適当に相槌を打った。

『ここまで全部予想通りか?』

 そう言って彼は嘲笑した。電話越しでも伝わる。

「何のことだよ。」

『順調に潰していってるもんな。』

 都合の悪い言葉は無視した。

『花がハラスメントを受けてたとか俺聞いてない。大したことじゃないものをお前が犯罪に仕立て上げて、花に告訴させたんだろ。』

 そうかもしれないけれど、それは大して重要じゃない。ぽつりぽつりと報道される事実が重要なだけであってそれを結びつける詳細とか誰かの感情なんかはどうでもいい。

『そして、上手く記者に写真を撮られるように馴れ馴れしく彼女と接した。無理矢理家にも入れてもらった。』

 そんな無理矢理でもなかった。なんとなく話に出したら躊躇もなく入れてくれた。

『否定しないってことはやっぱり全部仕組んだ結果なんだろ。こんなに上手くいくことない。』

 否定しないからといって黙認しているわけじゃない。そう勘違いして勝手に騒いでおけばいい。無駄に時間を費やして。

『その勢いで殺人だってできてしまったわけか。』

 流石にこれは否定しなければ。

「できるわけがない。そんな敢然な行動ができる人間じゃない。自分は。」

 殺人なんてどう考えてたできるものか。最も卑劣な犯罪。

『度胸がなくたってその場の勢いでやってしまう人もいる。』

 葛宮は冷静にそう言った。

「相手は石竹さんだ。前にめちゃくちゃ尊敬してるってそう僕が言ってたのを聞いてなかったのか?」

 いくらなんでも無理だ。どんなに勇気と度胸に満ち溢れた人だったとしても、信頼をおける唯一の人間を自ら消してしまうなんて、できるわけがない。

『親しい間柄だからこそ、やっても許されると思ってしまう場合もある。』

 ぶっちゃけ親しい間柄、というと語弊がある。親しいわけではない。なんとなく自分が勝手に信頼を置いているようなものだ。向こうが自分を特別な存在として認識しているのかは別の問題だ。

「その場合に勝手に当てはめるなよ。」

 黙り込んでしまった葛宮だったが、まだ諦めはついていないようだった。

 これだけ信頼してもらえないのなら、こちら側も少し身を削るしかない。別にこいつからの信用なんて要らないけれど。

「最初の二件は認める。こうなったら良いという願望が成り行きで現実になった。関与していないわけではないけれど、誰かの人生を変えてしまうほど操っていたわけじゃないんだから良いだろ。」

 別に犯罪でもないんだ。認めたところでデメリットはない。

「でも、最後のだけは否認する。」

 キッパリと言い切った。この結論を裏付けるための証拠とまではいかないけれど、他の二つを認めることで信憑性は少しだけでも増しただろう。

『そんなんでこっちが手を引くと思ったか?石竹さんの件に関しては、何も状況が変わっていない。二つを認めたからといって。』

 こっちの意図がバレバレじゃないか。失敗した。若干見破られるんじゃないかという気もしてはいたけれど。

「別に信用してくれないならそれでいい。勝手に時間を無駄に費やしておけ。」

 自分なりの精一杯の侮辱だった。どうせ探り続けても意味がないということを伝える。

『わかったよ。』

 不気味なその声に鳥肌が立つ。

 まだ続ける気だ。声色でそう判断した。

 ぶつりと電話を切ってから、食事を再開した。味がしなくなっていた。ため息をつくのと口に食事を運ぶので忙しかった。


 殺人か。

 盗難も万引きもなんだってできる。その動機だって理解できた。

 金が欲しいから。ちょっとした好奇心から。

 でも、殺人は、理解ができなかった。動機がわからなかった。電車の中で、隣に座った人を殺せと言われたら、簡単にできるだろうか。

 もし、そう脅迫されたら、出来るだけ間接的に殺したい。故意に殺したい。一瞬で殺したい。感触が脳裏に焼き付かないように。忘れられるように。

 だから、には、できなかった。

 人命を救う医者だって、一歩間違えれば、人を殺せる。簡単な話、投与した薬の中身でその人の未来を自由に操れる。

 自分も誰かに脅迫されて、それを実行できる環境だったら考えていたかもしれない。

 そんなことを考えているうちに皿は空っぽになっていた。支払いで金が消えていく。

 自分の行動で全部が空っぽになっていく。

 

 事務所の自分の部屋にあるソファに寝転んで考え事をする。

 人は一番大切なものを見つけたとき、何を思うのだろうか。

 自分は絶望しか感じなかった。

 この先これのお陰で生きていけるという喜びやありがたみもあったけれど、それ以上に、これを守り続けなければ自分は死ぬだろうという絶望も抱えなくてはいけなかった。

 その大切なものに気がついたとき、まだそのものに会える環境じゃなかった。それならまずは探さなくてはならない。

 大切なものだったから、自分の生死を託したものだったから、自分の命よりも大切にできるものだったから、だから何でもできてしまう。考えららないような苦痛だって乗り越えられてしまう。考えられない悪徳な行いだってできてしまう。

 両親が死んだとき、あとを追うかどうか現実的に悩んだ。自分に残されたものと持ち合わせていたもので、これから先に人生を頭の中で描いてみた。何も浮かばなかった。明日でさえ自分がどう過ごしているのか想像がつかなかった。やりたいこともなりたいものも特にない。そうやって自分を追い詰めたときに一つだけ見つけた。自分が生きることに意味がある理由を。それが、あの人を探す旅に出るということだった。

 両親が死んだ時点で、自分も終わらせてしまう可能性があった。今死ぬか、少し冒険をしてから死ぬか。この二択しか頭になかったから、そりゃ後者を選ぶ。自分の理論的な誘導についていけず、とりあえず死ぬのが嫌だったから後者を選んだだけなのかもしれない。今思えばまぬけな話だが。

 初めは誰にも迷惑をかけないつもりだった。こっそりと一人で探していくつもりだった。しかし、いざ始めるとなったところで何をすればいいのかわからなかった。ぼーっとテレビを眺めながら、気がついた。その中に入ってしまえばいいんだ。自分から探しにいくのではなく、向こうに気がついてもらう方法を取った。自分から探しにいっても相手の顔しかわからないのだから、時間がかかる。それよりかは自分が表に出ることで相手に見つけてもらう方が幾分か早いだろう。

 そう決めたところで何をしていいのかわからない。だから、とりあえず桔梗に相談した。多分、自分に好意を抱いていただろうから、願望を聞いてくれると思った。彼女は自分のマネージャーになると言った。たった一つの好意だけで人生まで操ることができるんだ。申し訳ない気持ちになったけれど、彼女を利用しなければこの先どうしていいかわからなくなる。仕方なく利用することにした。

 まずは事務所に入った。大手でも何でもないところだったけど、役者の経験を何も積んでいない自分からすれば快適なところだった。小さな作品に何度か出演することで経験を順調に積んでいった。人になりきるという点では案外優れていたらしい。何の問題もなくこの世界でやっていけるような気がしていた。

 しばらくして事務所から出た。桔梗と二人だけでやっていくことを決めた。理由は一つ、自由じゃないから。事務所の規則として当たり前に書かれていることが、気に食わなかった。何かに縛られているようじゃ何もできない。それにいざとなったら、事務所に守ってもらえるのだろうという頼ってばかりの自分も気に食わなかった。事務所にまで迷惑をかけるわけにはいかない。何も正当な理由で知名度を上げていこうなんてそんな冗長なやり方は考えていなかったから。

 彼女と二人でフリーとしてやっていくのは、想定していたよりも苦じゃなかった。自分がそう感じたのは、想定以上に彼女が働いてくれたからだろう。それも無理のない話だった。だって、自分も会いたい人のためにこうして身を捨てるような思いで働いている。同じことが彼女になって当てはまるのだろう。その思いを利用し続けた自分につくづく最低だと感じる。

 降りかかってきた仕事は全部全力で取り組んだ。そして、徐々に世間に知られ始め、評価されるようになった。自分からすれば他人からの評価なんてどうでもよかった。たとえ酷評されたとしてもそれで知名度が上がるなら万歳をして喜ぶだろう。

 そんな中不可解なことが起こった。出させてもらった映画やドラマの主演の人たちが、一人消えた。そしてもう一人。あまり時を開けずに退いていった。

 最初の一人は不慮の事故だった。可哀想だなとだけ思った。それだけだった。共演していたこともあってニュースに流れていく事件なんかよりは親近感があった。ひき逃げだっていうから気の毒だ。何の非もないような人なのに。

 二人目は麻薬を隠し持っていたらしい。馬鹿だなと思った。同時に感謝もした。世間が気がつき始めた。二つの役者と自分のそれぞれの共通点に。

 偶然にすぎない。それはどの関係者よりも数少ない自分のファンよりも、一番理解している。でも、あり得ないような話だから、人が寄ってくる。神様に感謝した。

 世間の目の自分の目は同じ方向を見ていた。次のターゲットはすでに存在していた。自分が出演する次の連続ドラマで主演を務める年上の俳優だ。この人をどうにかして舞台から下げ下ろさなければいけない。監視するようにストーカーギリギリのようなこともした。尾行して告訴できるような彼の非を探した。ある時に現場を押さえた。同じ共演者である粟瀬さんにパワハラをしているところを。物陰にかくれながらスマホでこっそり撮影しておいた。後で話を聞いてみたところ、仕事後に外食に行くように誘われたらしい。彼女は夫との約束があるといい拒んだ。その結果、無理にでも連れて行こうと脅迫のようなことをされたらしい。こんなしょうもない話に世間が乗るとは考えられなかった。それなら脚色を加えて彼女に告訴させればいい。相談すると言いながら彼女を操っていた。裁判となると流石に世間も注目した。だいぶ強引に勝利を勝ち取り賠償金を払わせた。それで、もう彼は退いた。

 運が良いのか悪いのか。その次にキャスティングされたのは、粟瀬さんが主演を務める映画だった。元々気が強い性格の彼女だったけれど、自分には心を開いてくれたようだった。ちょうどその頃、まだパワハラの件が片付いていなかった。好都合だと思った。彼女の隣を歩き、異常に距離の近い素振りを見せた。きっと違和感を覚えられたと思う。いつもの池月じゃないと。しかし、こっちだって身バレするわけにはいかないから、他人になりきるしかない。常に笑顔を保っていた。自分に興味を持ち始めてくれた記者が盗撮をしてくれた。ばっちりのタイミングだった。これほど思い通りに世間を動かせるものなのだと自分の力に感心した。彼女の結婚相手は一般人だったらしいが、顔は知れ渡っている。その顔に見覚えを感じたが、無視した。そして、彼女も同じように退いた。

 確かにこの二件は自分が裏で仕組んでいた。しかし、あまりにも上手くいきすぎて、誰かが援助してくれているのかもしれないと思ってしまう。それくらい自分でも驚いている。

 こうして、すっかり有名人になった。手段は一概に正しいとは言えないだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。自分が這い上ることができたなら。

 そんな絶頂に立っていた頃、とある記者に取材を持ちかけられた。こういうのは苦手だが、また名前を広めるのには、またとないチャンスなのだと自覚し、受け入れることに決めた。初対面のとき、何かを感じた。彼女が自分からして普通の人間じゃないことを感じた。やはり普通じゃないことに徐々に気がつき始めた。もしかしたら、自分が長年探し続けてきたあの人なんじゃないか、と。決め手は何だったのだろう。最初に気になったのは顔だ。似ていると感じた。それから声。そして素振り。こびりついたあの人の記憶が蘇った。そして最後に雰囲気。あの包み込むような抱擁感のある空気は忘れることがなかった。予想が確信に変わりかけていた頃、彼女を取り巻く障害の存在を知った。きっと彼女以上に落ちぶれた表情をしていたと思う。自分の探し続けていた人らしき人が、昔の記憶を失った。自分との記憶を失っている。絶望した。きっと両親が死んだとき以上に。あの頃はまだ大切なものの存在に気がついていなかったから、落胆しすぎずに済んだのに。

 それでも、藤袴さんはやっぱりあの人にしか見えなかった。違うと思えば思うほど、諦めなくてはと思えば思うほど、あの人と藤袴さんが重なって見える。どうすればいいのだろうか。やっぱり彼女自身に気がついてもらうしか方法がないのだろうか。

 記憶に残るものは反復して思い出すという動作をしないと忘れていく。奇跡的に藤袴さんの数少ない残された記憶の中に入っているうえで、その記憶を刺激して思い出してもらうしかない。どれくらいの確率になるのだろうか。でも、ここまで人生をかけてきたようなものなのだから、何もせずに諦めるなんて方法は自分が許さない。

 クッションを抱きながら、自分が置かれた状況に憎しみを覚え、誰かを睨みつけた。

 スマホを開く。迷わずに連絡先をタップした。

 


 じめったい電車の中。

 なせだかわからないが、唐突に白萩さんから連絡があった。指定された公園にとりあえず来て欲しいとのことだった。

 祝日にやることなんてあるわけがなく、暇を持て余していた私は迷わず家を出た。

 もう9月だ。まだ半袖で出歩くことも可能だけれど、段々と冬への準備が始まっている。

 私はいつまで生きていられるのだろうか。一応余命はあと半年とちょっとくらいは残っている。でも、いつ死ぬのかなんてわからない。次の瞬間に私は倒れてそのまま目を覚さないのかもしれない。そんな恐怖を常に待ち歩いている。

 窓の外から浮き出る景色に魅了される。季節が変わると同時に植物の形や色も変わる。子供が遊ぶような無邪気な季節から、大人な季節に変わっていく。一番好きな季節だ。


 家からはだいぶ離れていた。神奈川県の方まで来ている。電車賃を見つめる。ここまでしてくる必要はあったのだろうか。

 最寄駅から徒歩5分くらい。昔、住んでいたところらしい。記憶に残っているような景色は何一つとしてない。事故の後はずっと東京にいたから。

 公園の前に到着した。

 芒。一面が芒に覆われていた。いくつあるだろうか。ざっと数えて千はある気がする。

 芒は、茶色で地味ではあるけれど、だからこそ趣がある。風情がある。

 白萩さんの姿を見つけ、近づく。

「こんにちは。」

 そう挨拶すると、笑みと温かい挨拶が帰ってきた。今日は優しい白萩さんの方だ。

「ごめんなさい。急に呼んでしまって。」

「いえいえ。暇を持て余していたので、問題ありません。」

 なんて初めて会った頃には考えられない会話だ。気遣いができるような人じゃなかった。

「今日はどのようなご案件で?」

 なぜ私がここにいるのかを問いた。

「いや大したことではないんですよ。でも、何となく話したいなと思っただけで。」

 電話で十分じゃないかと思ったが、やっぱりその言葉は撤回だ。相手の表情を汲み取りながらじゃないとわからない、言葉の意味なんかもある。

「一応、記者と役者の関係ですけど、別にそれが崩れてもいいと思ってます。」

 疑問を顔で表した。どういった意味なのだろうか。愛のメッセージにも聞こえなくはない。それとも、ただ単純に固くならずに話したいということなのかもしれない。

「だから、藤袴さんも何か話したいことがあれば、構わずに言ってください。」

 そういう意味だったか。愛のメッセージかもしれないだなんて勘違いしていた自分が恥ずかしい。

「わかりました。」

 大きく頷いた。

「なんて、ただ単に自分の考えを肯定して欲しいだけなんで、勝手に返事しておいてください。」

 彼はそう言うと嘲笑った。

 それだけのためにこの場所を選んだことには何か理由があるのだろうか。先ほどから目を真剣に見つめられている気がする。緊張した。面接のようだった。

「なんでこの仕事を始めたんですか?」

 答えに迷った。特に理由はなかったから。

「あなたも既にご存知なように、長く仕事を続けることはできないじゃないですか。だから、スキルも要らず、に周りとの信頼関係もあまり重要じゃないってとこが気に入って選びました。ネガティブな選び方ですよね。」

 本当にこれ以上の理由がない。

「いや、自分でも絶対にそうしました。」

 仕方ないよねって自分に言い聞かせて、幼い頃の将来の夢を叶えさせてあげられなかった。多分、その理由を聞いて可哀想だねって言われたかっただけなんだと思う。仕事も自分の好きなように選べないのに頑張って生きてるねって言われたかっただけなんだと思う。やろうと思えばできた。今からじゃもう遅いけど。

「それで、後悔しているんですか?」

 後悔しているのだろうか。自分に聞いた。

「やりたいことを選ばなかったことには後悔しています。でも、この仕事を選んだことには後悔していません。」

 自分で言葉に出してから納得した。後悔はしていないはずだ。想定していたよりは。

「実際に記者として働いているうちに生きがいを感じるようになれたので。」

 もし今から夢を叶えられるとしても、こっちを選ぶかもしれない。それくらい記者として働く自分が好きだった。

「記者って誰よりも先に事実に辿り着こうと一生懸命に走り回る。そんな仕事なんです。それに、その人の本質を見極める。何が本当に何が嘘なのか。それが面白い。私は多分人間というものが好きなんです。」

 白萩さんは優しく頷いた。私の保護者のようだ。何かを隠してベールをかぶっているかのようにも見える。

「それならよかったですね。」

 その言葉は、他人事のように聞こえた。でも、他人事に過ぎないのだから仕方ない。

 白萩さんの横顔を見つめる。

 寝起きなのだろうか。目が少し腫れている気がする。髪の毛も綺麗にセットされているというよりは、自由に遊んでいる。急いで来たのだろうか。

「白萩さんが人生を賭けている人に会えたら何をしたいんですか?」

 芒を眺めながら聞いた。

「ただ話がしたいだけです。」

 何かを知っているかのような目線を受け取る。説教中の目配りのように何かを伝えようとしていた。

「話?」

「僕からすれば、死人と話せるくらいに貴重で信じられないようなことなんですよ。」

 確かに。彼の言う通りかもしれない。会って話がしたいのに、どんな方法を使っても会えない存在なんて死人しかいない。

「その人が生きるために両親が死んだんなら、それでも許せるかなってくらいに。自分の記憶が正しいことを自分に証明したい。前も言いましたけど、幻想なんじゃないかって思ったことがあるんです。」

 綺麗な理由を並べているけれど、結局恋をしただけなのだろう。それを認めさせないように理由を加えているだけで。

 やっぱりその人の話をしているときの白萩さんが、一番輝いている。外部からの光ではなく内部からの輝きだと思う。

「でも、命を捨てるくらいの価値がある人だから、何でもできてしまう。僕の人生の中で彼女がきっと主人公だった。」

 そう言い切った彼は、やはり輝かしい表情をしていた。主人公だなんて、よっぽどなのだろう。

 でも、自分自身を疑っているかのように見受けられる。自分が誰なのか。その気持ちなら分かち合える気がする。

 芒が風に仰がれるのを見届けると、彼は再び口を開いた。

「もし。もしも、僕を殺せと脅迫されたらどうしますか?」

 思わず、は?と返してしまった。なぜかわからないが自然と笑みが溢れた。自分の理解が追いつかない思考を誤魔化すためだろうか。

「それはどうゆう意味ですか?」

 彼は、そうなりますよね、と言うかのような表情をして続けた。

「そのままの意味です。じゃあ、あなたの大切な人が人質に取られていたとして、もし誰かを殺せばその人を救うことができる。あなたが手を下さなければ、その人は殺される。そんな状況のときどうしますか?」

 ふざけたような質問だが、彼の表情は至って真剣だった。苦笑いもできない。

「どうしてそんな質問を?」

 彼の問いに対する答えを脳が考えようとしなかった。どうにかして回答することを拒否する方法を考えているばかりだ。

「簡単に言えば、どんな状況でも人は殺せませんか?って質問です。相手は誰だって良い。」

 私の問いはかき消されてしまったようだ。彼の瞳の色を確認しながら言う。

「そうですね。ちょっと現実味が無さすぎてわかりません。でも、そんな度胸はないというか。そんな決断をして誰かに恨まれるくらいだったら、ナイフを自分に突き刺すと思います。」

 きっと私はそうする。言葉にしてから現実味が湧いてきた。

「そうですよね。」

 白萩さんの瞳は今にも閉じてしまいそうだった。氷が張っているように見えた。それくらい脆い。

「ごめんなさい。変な質問を。」

 確かに変な質問ではあった。

 答える前より、彼の表情が壊れ始めていた。まつ毛が凍って見えた。それくらい動かなかった。

 視界に入る髪の毛は真っ黒で太くて、でも、柔らかくて温かい。

「でも私はそれくらい簡単にできてしまえるような魅力的な人質に出会いたいです。」

 彼はこちらを一度見ると、静かに笑った。彼に覆い被さった負の幕が少しずつ消え始めていると感じる。

「そういうのってすでに出会ってたりするものですよね。」

 笑いながらそう言うと真剣なトーンが返ってきた。

「おそらく。」

 その言葉の持ち主を見つめる。この人は何を感じるのだろうか。一度でいいからこの人の見る世界を体験したい。世間から見れば、悲観的な人なのだろうけど、その悲しい世界の中で何かを見出している。悲観に包まれる真っ青な世界を愛している。そんな人だと思った。

「白萩さんは悲しくなったらどうしますか?例えば誹謗中傷を受けたとか。」

 これは個人的に聞いておきたかったものだ。

 私はこの人に魅力を感じている。世間はまだそれに気がついていない。それならば私が伝えなくてはならない。まだ世間が知らない白萩さんを。それが私の仕事だから。

 彼の紡ぐ言葉を生きている限りは集めるつもりだ。

 言葉がその人を表す。言葉で自分を表すのではなく、言葉が自分を表す。仕事を始めたばかりの頃に、上司に教わった言葉だ。

 氷の中に一際大きく燃え盛る火。彼の中にある温もりは、彼自身の言葉でしか表せない。

「誹謗中傷なんてもので傷ついている暇はないですけど、悲しみというものは、その人と過ごした時間の密度の倍で返ってきます。正に倍返し。」

 得意分野かのようにはきはきと喋る。一言も漏らさないようにノートに書き留める。

「その対策として、考えたのが二つあります。

一つは、人と深い関わりを持たないこと。これは予防。」

 彼らしい回答だと思った。悲観的になってしまった理由は、おそらくあの事故にあるのだろう。そうだとしか考えられない。

「もう一つは、悲しみを認識しないこと。別れだって、別れるのだと認識しなければ何の問題も悲しみもない。」

 悲しみを認識しない。なかったことにする。

「つまり自分を騙すってことですか?」

「まあそうなりますね。」

 じゃあ彼の中では彼の両親は亡くなっていないことになっているのだろうか。でも、自ら二人の話をすることもある。思い出のように聞こえることもある。わからない。でも、流石に直接訊ねることはできない。

 でも、両親が亡くなったって話を他人事のように話していた。自分でもまだ信じきれていないのだろうか。だから、なんて直接的な言い方をして、あえて現実味をなくし遠ざけているのだろう。って言うと現実のように聞こえてしまうから。

 白萩さんの中にある根本的な思想はやっぱりあの事故による副産物だ。どうしてもあの事故が尾を引いてしまうのは仕方がないことなのだろう。

 やはり嫌でも、あの事故が彼の人生を左右させる。彼はあの事故の一番の犠牲者なのかもしれない。

 信じられないような現実を押し付けられ、それを受け入れない方法を考えた。そのために自分まで変えてしまった。変わったふりをして、自分自身でさえ騙す。それが白萩さんがこうある理由なのだろう。


 それから、私たちは地球滅亡の最後の一日かのように、あれもこれもと喋りまくった。今しかない。お互いにそれを感じていた。

 出会ったばかりのことを思い出した。あの頃は、一時間話せただけでも喜色を顔に出していた。今では、あっという間に時間が過ぎる。

 5時の鐘がなった。白萩さんはその鐘に急かされるように立ち上がった。

「もうそろそろ行かないと。」

 そう言って立ち去ろうとした。

「まだ時間ありますか?」

「少しなら。」

「じゃあ、最後にひとつだけ、聞いても良いですか?」

「はい。」

 全てのピースがはまり、大きな答えに辿り着いた気がしていたのだ。そのパズルは完成させてはいけないはずだった。そこに描かれた絵は恐ろしい現実だから。

「あなたは殺人なんてできない。そうですよね。」

「はい。」

 深呼吸をしてから、離さないようにしっかりと相手の目線を捕まえて言った。

「じゃあ。池月さんは?」

 声が震えた。伝えることを拒むように。

 白萩さんは、目を閉じた。徐々に彼の口元が緩んでいく。小動物を見つめているかのように愛らしい視線を向けられる。

 まるで、長年待たされた人質のごとく、よく来てくれたというかのような感慨深い表情を魅せられた。

「それは」

 白萩さんは、宙にまう桜の花弁に言葉を乗せるかのようにそっと言った。

「知りません。」

 そっぽを向いたその儚げな目は私に否定させなかった。耳が事実を受け入れることを拒んだ。芒は私たちの必死の葛藤にも構わず、風に揺られている。彼の瞳もそれと同時にやられていた。目に力が入っていなかった。本当に全部諦めてしまったようだ。

 仕方ないとでも言い出しそうだった。表面上は、興味がなさそうに見受けられる。しかし、内面では鬼の形相をしながら、何かと戦っているのだろう。

 彼が自分の過ちを認めようとしないのは、自分への甘さじゃない。むしろ厳しさだ。

 倫理的にあり得ないようなことをしてしまった自分を誰よりも憎んでいるから。だから、認めたくない。

 謎は全て解けた。

 磁石に吸い寄せられ砂鉄が引っ張るように消えていった様子が頭に浮かぶほど、悩み事はさっぱりと消え去った。心の中がすっきりした。爽快だった。

「自分じゃ殺人なんてできない。でも、自分が演じていた池月さんという人物には何だってできる。だって自分自身じゃないから。白萩さんが手を出さないことをさせるために作った存在だから。そうゆうことですよね。」

 彼は何も言わなかった。私の面前の彼が誰なのか、誰にもわからない。彼自身にしかわからない。

 視線が交わる。ヒントを得ようとしても何も教えてくれない。神のような絶対的な存在のように見える。これもそう見せているだけなのだろうか。何か敵わない気がする。背伸びをしても届かない。

「やっぱりその仕事合っていると思いますよ。あなたには慧眼があります。」

 視線を掴まれながら、そう言われる。

 その意味を即座に理解した。ついさっき自分から飛び出た言葉が頭に浮かぶ。

 今にも泣きそうな表情で必死にしがみつく。気がついたら彼の手を握っていた。

「離してください。」

 地が唸るような分厚い声でそう言われた。恐れず動じず、静かに視線を向ける。多分私よりも白萩さんの方がずっと慄いている。

「もし誰かに告白することで楽になるなら私に話してください。」

 細く冷たい手のひらを温める。沈黙が続いた。彼は口を結び、目を背けていた。その様子をとろけるような優しい瞳で見守る。

「本当に馬鹿だ。」

 白萩さんは涙と共にそんな言葉をこぼした。額を熱くなった手のひらで押さえつけながら。そしてそっぽを向かれた。

 瞳は潤っていた。小鳥がメロディーを奏でる横で静かにゆらぐ小池のような静けさと切なさが入り混じっていた。

 それでも彼は認めなかった。

 首を振り続けた。滝のように流れる涙を押し込むように拭いながら。

「ごめんなさい。急いでいるので。」

 そう言うと、私を置いて去っていった。


 公園を一歩出ると、深呼吸をするために立ち止まった。

 次の予定なんてない。ただ、藤袴さんと会話を交わすうちに、視線を交わすうちに、何か見破られてしまいそうな予感がしたから逃げた。

 涙を見せてしまったのは、失態だ。でも、次々と溢れ出るこの液体を止めようとすると、吐き気がした。喉のあたりがもやもやして気持ち悪くなった。体が拒んでいるんだ。いよいよそのレベルまで届いてしまったか。

 公園の周りを前も見ずに歩く。このまま事故を起こしてしまったって後悔はない。

 世間が騒いだあの日の出来事を思い出す。

 あれは、月が異常に大きく橙色に照らされていた日の夜だった。

 仕事終わり、桔梗と別れてから、人通りの少ない路地に入った。石竹さんの家には、何度かお邪魔させていただいたことがあった。だから、迷わず侵入経路につけた。

まるで、サプライズを用意しているような気分だった。心地よい緊張感と不安に襲われながら、一瞬一瞬を終わらせていった。

 カバンの中には財布とスマホとそれから学生時代に作って遊んだ毒だけが入っていた。できるのであれば誰にも見られたくない。目撃されたら厄介だ。

 広大な土地に建てられた高級住宅を見つめる。事前に調べておいた。

 彼は既婚者であったが、妻は友人と世界旅行中だそうだ。これは石竹さんから直接聞いたものだ。だから、一人で家にいるはずだと思った。

 玄関の前に到着すると、インターホンを押した。以前、インターホンの相手の映像を録画すべきか尋ねられたことがあった。最終的に、まだいいやってことになったから、今もなお録画はされていないはず。

 扉が開けられる。いつもと変わらない石竹さんの顔があった。

「今日はどうしたんだ?こんな時間に。」

 老人だ。そんな典型的な老人は、優しかった。自分の手に入らないものをいくつも持っている。それなのに威張ったりしない。その技術を渡すのではなく教えようとする。お手本のような人間だった。自分のロールモデルのような人だった。なんて言いながら真逆の方向に進んでいく。もはや清々しい。

 一時間後に僕は何者になっているのだろうか。全ては今のこの瞬間にかかっている。今この瞬間が自分の人生を決める。そう覚悟を決めた。

「夜遅くにすいません。相談したいことがあるんですけど、これから大丈夫ですか?」

 彼はきっと断らない。それだけ自分は大切にされていた。

 予想通り、彼は縦に首を振った。

 そして扉を大きく開けると、自分を中へ入らせた。丁寧に靴を脱ぐ。できるだけ指紋がつかないように気を配る。

「寝られない夜もあるもんだ。」

 彼は励ますようにそう言った。これから永遠の眠りにつくことを知らない。

 自分は冷たく接しているつもりなのに、石竹さんはそれを変換するかのように優しさで返す。それがくすぐったかった。でも、嬉しかった。自分を受け止めてくれるような気がして。だから、何やっても許されるなんて勘違いをしてしまったんだ。

「この間、美味しい紅茶を頂いたので淹れますね。」

 不器用な笑顔を作った。あくまで年上に対する礼儀としての笑顔だった。

 石竹さんはいつものように彼のお気に入りのソファに腰掛けていた。高級感のあふれる光沢のあるソファだ。その前には、ガラスでできたテーブルが置かれている。キッチンもマーブルだ。

 あまりの緊張感に笑みが溢れそうになった。いよいよおかしくなってきた気がした。

 キッチンのカウンター越しに映る石竹さんが愛おしかった。まるで自分の息子のように感じられた。これから殺すって言うのに。

 オレンジ色のニットを纏った丸まった背中を凝視する。自然と手が止まってしまった。深みのある茶色の棚に緑色の観葉植物。映画の一シーンのように美しかった。目に映るもの全てが優しかった。

 ポケットに忍ばせておいた睡眠薬を紅茶の中に注ぐ。前をチラチラと確認しながら。彼は本に夢中になっていた。家に呼ばれるといつもこんな感じだ。お互いがそれぞれの好むことに熱中している。その時間を共有することで、孤独感を忘れることができた。そんな存在を失うことはダメージが大きかった。今から行動を変えることもできる。そう考えると胸が苦しくなった。実行が義務付けられたそんな状況の方がよっぽど楽だ。迷わずに済むから。

 震える右手を左手で押さえつけながら紅茶を注ぐ。その間もバレないように手袋をはめていた。

「お待たせしました。」

 ぶっきらぼうな笑顔でそう言いながら紅茶を運ぶ。

「ありがとう。」

 その声をしっかりと耳に染み込ませた。

 常に誰かに監視されているような不安に襲われていた。

 一分に一度は、背後を確認していた。

 忘れ物をしていないか、重大なミスを犯していないか、不安でたまらなかった。鼓動は常に絶頂にあった。手順を忘れたらその時だ。そう思いながら自らを奮い立たせる。

「お手洗いお借りしますね。」

 震えた声で言う。震えなんて止められると思っても、実際に震えると自分じゃ制御できない。冷たいプールに落とされたようだ。誰か、ここから出してくれないだろうか。

 石竹さんが紅茶を飲む瞬間を目に焼き付けたくなかったから逃げた。そうじゃなければ、生涯、まだ未来を変えることができたこの瞬間を念頭に置きながら生きていくことになるだろう。そんなのは嫌だ。

 冷水で顔を一気に洗うと足が震えた。震えたというより痺れた。まだここからだ。

 鏡に自分の顔が映る。蒼白だった。できるのなら逃げたい。手足の筋肉が硬直する。人生を賭けた入試の直前かのような緊張感があった。不安に駆られながらも、未来に対する期待が含まれていないわけでもない。ここからどうなってしまうのだろうか。非日常に囲まれた日々に期待を預けた。

 リビングに戻る。随分、長い時間、閉じこもっていたみたいだ。石竹さんはすでに眠りについていた。

 自分しかいない空間に安堵しながら、そっと近づく。くしゃみが出た。鼻がむずむずした。

 ソファに横になりながら目を瞑っている石竹さんの額を撫でる。

 自分は、自分の顔はわからない。でもきっと、生まれたての我が子を見つめるような感慨深い表情をしていたと思う。

 注射器に致死量の毒を注入する。家で何度も練習した。完璧だ。量も。

 目線は注射器から石竹さんに映った。

「なんで?」

 彼の瞼は開いていた。真っ黒な不気味な点が二つこちらに向けられている。

 戦慄した。この世の終わりかのような絶望を味わった。とにかく焦っていた。

 鼓動が速くなった。まともに呼吸ができない。吸う量が極端に少な過ぎた。

 深呼吸なんてしている暇はない。苦しくなる胸のあたりを無視しながら、さらに近づく。

「君と作り上げてきた瞬間の尊さを舐めないでほしい。どれだけの時間を共有したと思う?声も顔も何もかもが違う。」

 何も話が入ってこなかった。でも、良いことを言っていることだけはわかった。多分、彼は正しい。自分は間違っている。

 でも、自分は目的を達成しなければいけないという使命がある。

 気を抜いたら今にでも涙は零れ落ちてくる。そうしたらきっと彼のか弱い力にだって負けてしまう。今やってしまうしかない。

 そう意気込むと、石竹さんの体を片手で押さえつけた。彼はあまり抵抗する気はないようだった。

「本当に後悔しないんだな?」

 何も考えられなかった。機械かのように言われたことしかできない。そんな自分に幻滅している暇もない。的確な判断は毎秒のように求められる。 

 右手で注射器を持ち直す。その時自分が何を思ったのかわからない。が、中身を3分の1ほど床に零した。意図的な行動だったのか、ただの事故だったのか、自分でもわからない。何となくそうしなければいけない気がしたような気もする。でも、まだ余っている毒を致死量に至るまで追加しなかったことは事実だ。

 そして、毒を注射した。防犯カメラのように自分の瞳を追い続け、訴え続ける石竹さんの目から顔を背けた。できるだけ夢でこの瞬間を再現させられたくはないんだ。

 忘れていた。毒の効果には時間がかかる。その間中、ずっと押さえつけ続ければいけないことに気がついた。そんなのは耐えられない。余分に持ってきた睡眠薬の粉末を彼の口の中に無理矢理押し込む。それから5分くらい葛藤し続けた。

 しばらくして、彼の動きは止まった。その瞬間を見届けると床に座り込んだ。ロボットの電源がぷつりと切れたように。

 額に浮かんだ汗に気がつく。呼吸を整えた。目を瞑る。大丈夫。何も覚えていない。

 こんなことをしている場合ではないと、自分を起こさせる。

 彼は静かに眠っていた。冷たい視線を向ける。気を抜いたらその場に倒れ込んでしまいそうなほど、心臓が痛かった。全身の筋肉が硬直していた。

 肩が寒かった。首が寒かった。

 目頭が熱くなって、鼻がワサビを食べた時のようにツーンとして。目が熱くなって冷たくなった。暑い夏、クーラーに麻痺された体のようだ。そんな自分を見て病気だと思った。可哀想なやつだ。少しは同情してやってもいいじゃないか。

 口が緩んだ。

 唾を飲む。

 自分の感情がわからなかった。

 気がついたら、自分の笑い声が聞こえて。

 気がついたら、自分の涙が手に降りかかって。

 気がついたら、笑いながら泣いていた。

 誰にも見られたくない無様な姿だった。

 天井を睨みつけながら、静かに涙を垂らした。

 表現できない複雑な感情が入り混じっていた。任務を達成したという安堵感。自分の未来をこの一時間弱で定めてしまったことに対する不安。緊張感から解放された喜び。初めての経験への感動。石竹さんへの哀れみ。

 でも、なぜかすっきりと晴れた気分だった。もう戻れない。後悔しても戻れない。そんな後ろめたい気持ちは、粗大ゴミで捨てられたようだ。今頃、ゴミ収集車によって、バキバキに壊されている。

 実行する前には後悔していたのに、終わってからは、何も感じない。

 全て忘れてしまえば、なかったも同然。

 誰に何を言われようが、自分が信じたことが真実。自分にそう言い聞かせる。

 何も知らない。何もやっていない。


 事前に用意していた逃亡経路を辿る。

 その足取りは軽かった。壁からの低くなった部分から飛び越えて脱出する。防犯カメラの位置もある程度は把握している。室内には一つもなかったはず。

 その時、ふと映った自分の姿は、今まで見てきた生物の中で一番醜かった。悪魔がいるならこんな形をしているのだろうと感じだ。人間として落ちるとこまで堕ちた。最悪すぎて笑えてきた。

 様々な感情が行き来した。でも、その中で特に大きな陣地を支配しているのは、あの緊張感と達成したときの安心感だった。それが何というか心地良かった。自分とは違う人間にどうしてもしたかったのかもしれないが。

 いくらでもこんな悪徳な所業を続けることはできたが、このままだと一生止められなくなってしまいそうだと思い、諦めた。そこまで極悪人にさせる必要はない。

 法に問われることをしていけない。何度も教わった。でも、その壁を飛び越える価値のある存在に出会ってしまったらどうすればいいのか。教わったことがない。

 大体、人は何をしていけない、何はやっていい。そんなことを教える。肝心なのはそこではない。それを避ける方法なのに。

 通行禁止だったとしても近道を通らないと間に合わない。確かに、正しい道を遠回りしたとしても、目的地にはつく。でも、それじゃあ間に合わない。

 自分の過ちを並べる。

裏で手を回し、刑務所にムカつくやつを突っ込んだ。そしてありもしない不倫を匂わせる。殺人未遂を起こす。そして自殺。

酷い。これ以上ないほどに情けないやつだ。

両親を亡くした代わりだとしても、重すぎる。批准がおかしい。

 僕は踏み入れてはいけない領域に足を入れてしまった。


 その時に気がついた。大切な人がまた一人、酷い目にあったのに、何一つとして悔しくない。悲しくもない。

 悲しくなるのは自分で制御できないからだったのだろう。

 だから。

 だから、自分の手がもたらした結果なら受け入れることができた。仕方ないと言って。

そう自分に言い聞かせて。

 だって、自分には激甘だから。

 それに気がつかなければ良かったのかもしれない、と思った。

 結果的に、石竹さんは亡くならなかった。当然の結果だと感じた。だって、致死量じゃない。彼が一命を取り留めたことには、何の感情も抱かなかった。事実を事実として自分の脳に入れ込んだだけだった。

 でも、きっと良かったんだと思う。今考えれば、別に殺人が目的だったわけではないのだから。死んでも死ななくてもどっちでも構わなかった。池月を殺人犯にさせる必要はなかったから。


 そして今公園で涙を流す。爽籟そうらいが周りを包み込む。ようやく自分の過ちの大きさに気がついたようだ。一生懸命に、自分とは別の人間がやった行いだと言い聞かせておいたのに、呆気なく否定されてしまった。それに対する涙だろう。

 自分さえ騙すことができれば、そのあとは自由だと思っていた。自分以上に大切にしたい人という難問をすっかり忘れていた。自分の言葉や決断よりも、権力があり決定力がある。よっぽど信頼できる。

 芒を跨いだ反対側の広場のベンチに座っている。ここまで彼女がついてくる予定はなかった。なのに、耳の奥まで伝達されてきたのは、間違えなく藤袴さんの声だ。

「何かできることはありますか?」

 顔を上げると、夜空の中に一つ輝く月のような絢爛たる藤袴さんの姿があった。

 その姿は母親同然だった。何か、繋がっている人間かのように感じられた。もしくは、この世に住む人間という存在とはかけ離れたもののように感じた。

 彼女が自分自身を創り上げた、何か絶対的なような存在にも思える。

 その瞳に吸い込まれた。涙が封じられたように止まった。疾風を感じた。彼女は、優しさの擬人化だった。なぜこんなに優しい人々に囲まれているのに、自分はそれとはかけ離れているのだろうか。

 何も言わない自分に不快感を覚えたのだろうか。何も言わずに彼女は隣に座った。

「あなたに全部話します。これが何を意味するかわかりますか?」

 藤袴さんは首を傾げていた。その表情が愛おしくて、眉の力が抜けた。自分は、マスコットキャラクターのような温かい表情をしていたと思う。

「隠し通すことに価値がないってことです。まあつまり、もう自分という人間に価値がない。むしろ暴露することに意味がある。そうして世間を騒がすことでしか自分の価値を測れたないなんて、もう終わったもんだ。」

 彼女は瞳を大きく開いた。

「そんな。」

 その続きの否定するような言葉は出てこなかった。彼女は驚いただけだった。きっと、自分の否定させない無言の圧に負けたのだろう。しかし、心のどこかで否定して欲しかった自分がいた。

「幸いでした。あなたが記者をやっていることが。隠し通さずに伝えてください。それでこそ意味があるのですから。」

 やっと目を見て話すことができるようになった。自分にはこの一瞬一瞬しか残されていない。誰だってそうか。

 それから、一切の詳細を明かした。藤袴さんはオーバーなリアクションをすることなく、ただ自分の口から噴出される汚い言葉をとろけるような瞳で見つめていた。そのおかげで少しは美化されたんじゃないかと思う。そんなわけないか。事実は事実なんだから。

 事実が事実として存在するのは事実。

でも、それをどう受け取るかは、個人の自由。彼女が自分と同じ思考をしてくれると良い。

「でも、後悔してないから、自分が可哀想なわけではない。」

 可哀想なんて言わせない。他人事のように聞こえるから嫌だとかそんな理由じゃない。そう情をかけられることで、何か大きなものを飛び越えたような誇らしい気分になる自分が嫌いだった。

「じゃあその涙は何なんですか?」

「わかりません。」

 藤袴さんに否定されたことに対する絶望だと感じていた。でも、どうやら違うらしい。

「こんなことを口にしたらきっと批判喝采になると思いますけど、他人に話せるはどの動機なんてないんです。」

 彼女は首を傾げた。目線を逸らしてから続きを話す。

「確かに、この主役を喰らう役者という不可思議な現象の続きのを作りたかったっていうのはあります。あと知名度を上げたかったとか。」

 その二つだってしょうもない理由だ。

「でも一番は、何となく、この人を殺さなければいけない使命感みたいなものを感じただけです。」

 自分はいわゆる愉快犯なのかと時々疑問に思う。その行為を愉快に思っていたかどうか。愉快ではなかった。でも、もう一度繰り返しても良いと考えてしまうのは確かだ。

「そうなるように仕向けただけ。結局最終的に手を下したのは、俺じゃない。その人の運命じゃないですか?」

 笑いながら軽々しくそう言った。あまり大事にしたくなかった。

 彼女になら、これくらい告白してしまってもいいだろう。そう思ったのだが甘かった。

「洗脳されかけてますかね。」

 藤袴さんは笑いながらそう言ったけれど、目は笑っていなかった。きっと俺を憎たらしく思っている。

「ごめんなさい。汚い言葉ですけど、そんなのが許されるなんて、流石に酷い世界じゃないですか?」

 その言葉に、にたりと笑った。やっぱり自分はこんな説教を求めていたのかもしれない。気持ち悪いやつだと思う。

 でももう遅い。今からできることなんて、言い訳作りくらいだ。

「許されるなんて思ってないです。」

 彼女の目をしっかりと見つめてから言う。

「でも、仕方ないと思いませんか?この過ちも。」

 彼女は100%の抹茶を飲んだかのように顔を歪めた。くしゃりと皺をつくった。

「思えません。」

 真っ直ぐなその善を表したかのような眼差しが心地よかった。自分の悪をとことん懲らしめるかのような眼差しが心地よかった。

「個人の尊厳に則って、あなたの意見も否定はしませんけど、尊重はできません。」

 畏まった言葉に距離を感じる。あえて作っているのかもしれない。

 自分だって気味が悪い人間だと思う。

 二人は黙り込んだ。違う世界の人間なのだとお互いに実感した。その時間だったのだと思う。向こうに譲る気がないなら、こちら側から向こうの世界に入っていくしかない。

「そうですよね。」

 そう言って笑った。彼女は不気味な自分を恐れながら見つめた。

「分かってます。ただ、自分のしたことが信じられなさすぎて、変なことを言っていただけです。」

 あながち間違ってはいない、はずだ。

 彼女は、俺を人間なのだと認識すると、笑みを浮かべた。安堵の笑みだろう。

「そうですよね。」

 藤袴さんはそう言いながら自分を安心させていた。

「ちゃんと償うつもりです。」

 でも、反省はしていないから、罪が課せられるとしたら、結構重いだろう。まあ、反省しているふりをすればいいのだけれど。自分の意思を変えられるのは、自分自身だけだ。

「自首するつもりなんですか?」

 こくりと頷く。しないけど。少なくても、あの人を探し出すことができるまでは、一歩も踏み入れない。

「それじゃあ、ファンの人はショックを受けるでしょうね。」

 首を振った。

「大体がこのミステリーに興味を持った人ですよ。この人間には誰も興味ない。」

 第一、池月という人間に惹かれるような魅力がないから、ストーリーを作ったのだ。これが一番の証拠だろう。興味を持たれないことに対する。

「一人くらいはいてくれると思いますよ。」

 まあ。それはどっちだっていい。いてもいなくても。その存在が自分の行動に関わるわけではない。

「でも、そんなことに人生を費やしてしまってよかったんですか?ある人を探すためにこの行動を起こしたわけですよね。」

 その質問は僕の頭を悩ませた。何と答えるのが正解なのかわからなかった。だから、答えにはならないけども自分が常日頃、考えている反省を話すことにした。

「考えますよ。ものすごい貴重な確率でこの世に生まれてきて、たった一人の永遠でもないもののために尽くすのはもったいない。生命の営みに背き努力もせず責任感も感じないのは申し訳ないと思っています。ただ、一人くらいサボっても平気だとも思っています。」

 しかし、サボっていいのは自分限定だ。なんて、流石に自分に甘すぎる。

 その点、仕事というものは生きがいになる。この世の成り行きに貢献しているという自己肯定感を満たしてくれる。

「それに、その時は、いつ死ぬかを考えていました。今、後追いのような形で投げ捨てるか、少し冒険してから終わらせるか。その二つの選択肢しかないと思っていたから、当然後者を選んだ。」

 真面目に生きていくつもりなんて一ミリもなかった。それでも許されるくらいの経験だったら。自分からしたら。

「でも、このまま死ねないくらいの存在を思い出してしまったから、身を投げ捨てる覚悟でこうやって生きているだけです。どうせ死ぬなら、自分のやりたいことをやってからの方がいい。」

 その方が後悔せずに済む。まあ、死んだら何も感じることはないのだろうが。

 彼女は難問をたくかのような気難しい顔をしている。それもそのはず。

「でも、もし、あなたの探しているその人が亡くなってたら、どうするつもりなんですか?」

 藤袴さんは申し訳なさそうに聞いた。

 黙って空を眺めてから答える。

「多分、自分もその道を辿ると思います。それ以外に生きがいを感じない。もう手遅れなんです。どうせ、余生を刑務所の中で過ごすくらいなら、いっそ来世の余力を残しておいた方がいい。」

 彼女は悲しそうな表情を見せた。だから、何かを変えるというわけではないが。

 そよ風に揺られ芒がなびく。そんな和の象徴かのような情景が切なさを増させていた。

「きっと生きてますよね。」

 頷くことしかできなかった。彼女は記憶がない。自分の記憶を信じるならば、探している人というのは藤袴さんなのだ。それとも勘違いをしているだけか。

「そろそろ帰りますか。」

 そう言いながら、腰を上げた。

 夕日が魅せる時間帯も終わり、あとは暗闇が支配するのを待つ時間になった。

 公園から駅までの道が異常に長く感じた。電車に乗っている時間も。

 藤袴さんは隣にいるのに、一言も喋らなかった。お互いに、自分を見つめる時間を過ごしていた。

 電車は途中までは一緒だった。しばらくして俺が先に最寄り駅で降りた。

 さようなら、それが唯一の会話だった。

 改札を出て、階段を上がって、薄暗い路地に入った。いちいち頭で指示を出さなくても機械的に足が動いてくれる。もう慣れた道だ。

「すいません。」

 突然声をかけられる。立ち止まって振り返った。

「なんだよ。」

 葛宮だった。何でこんなところにいるのか、尋ねようとしてやめた。そうか。GPSか。

 わざわざ他人のふりをする必要はあったのだろうか。

「たまたま見かけたから。」

 嘘つく必要なんてないのに。

「証拠が見つけられなくて、脅迫にでも来たのか?」

 歩きながらそう皮肉を言った。

 いつもの1.5倍速くらいの速さで歩く。

「そうじゃないけど。」

 向こうもその速さについてきた。疲れるだけだと思った。

 今は情緒不安定な状態なんだ。こいつといるといつも疲れるから、今日は特に話したくない。秘密を隠し通すことに必死になるから疲れるだけなのだろうけど。それなら、もういっそ伝えてしまおうか。

 ぴたりと立ち止まる。そしてまつげを伏せながら、下を向いた。相手は怪訝そうにこちらを見ている。わかりやすく深呼吸をした。

それからしばらく視線を釘付けにした。これ以上ないほど切なくて、今にも消えそうな、そんな表情を作り出した。思わず相手が助けてあげたくなるような。

「なんだよ、急に。」

 相手はそう言いながらも戸惑っていた。

「何も知らない。」

 冷たすぎる声でそう呟いた。眉をひそめた。

「僕じゃない。」

 必死に訴えかけた。秋のそよ風にが目を乾かしても瞬きをせずに見つめ続けた。髪の毛が目に入っても見つめ続けた。

 そうしているうちに瞳は潤っていた。

 文書で話したら記録に残る。言葉で話してもそれは同じだ。でも、瞳で会話したところで記録には残らない。記憶に残ったとしても。伝わればいいんだ。

 葛宮は完全に引き込まれていた。プロを舐めるな。そう言いたくなる。

 間接的に伝わった。きっと。

 罪を認めたようなものだ。でも、これは何の証拠にもならない。じゃあ、何のために伝えたかって?多分救って欲しかったんだと思う。それか隠し通すことに疲労を感じたからか。もしくは、ただ単にこいつをからかいたかっただけなのかもしれない。困らせることで。

 本当に釘で打たれたかのように微動だにしない葛宮を置いて、再び歩き始める。

 5秒後くらいに彼は追いついた。

「一つ聞きたいことがある。」

 相手が自分の横に来たのを確認してから言った。

「僕がいなくなっても誰も困らない?」

 決して目を合わせようとはしなかった。

「そりゃそうだろ。」

 催眠から解き放たれた葛宮は、いつものごとく笑いながらそう言った。

 何も返さなかった。無言で歩き続けた。彼もそれについてきた。段々と彼は小さくなっていった。自分の言葉に反省しているように感じ取られた。

「言っておくけど、これでもしなんか起きても」

「わかってるよ。」

 言葉を言葉で遮った。

 きっと彼は、もし何か起きても自分に責任はないからな、だとかくだらないことを言おうとしていたのだろう。

 ちょうど家についた。完璧だ。



 私は電車に揺られながら考えを巡らせていた。答えの見つからない問いに、取り憑かれたかのように悩まされていた。

 つり革を片手で掴みながら、窓越しに映る夜景をぼんやりと見渡す。

 頭に浮かぶのは、結局白萩さんの顔だ。目を瞑っても瞑っても、何をしてても出てくる。目の裏側にスクリーンがあるかのように映し出される。

 彼はかき氷のようだった。太陽に当たると溶けてしまう。

 シロップで何色に染まることもできる。冷たい青色にも、暖かい桃色にも。でも、味は変わらない。着色料で染めただけであって、根本的なものは何も変わらない。

 それが彼の本質なのだろう。だから、掴めるようで掴めなかった。いつもするりと逃げられてしまっていた。そんなところに惹かれていた部分もある。

 電車が止まり、人が乗り降りする。ものすごい数の人と出会い別れていく。その様子を静かに見つめていた。

 先程の会話を思い出す。正直、良い人ではなかった。彼の考えに幻滅した。石竹さんやご家族の真っ直ぐな気持ちを考えると、歪みに歪んだ言葉だった。大した動機なんてない、なんて。その後、彼は自分の言葉を否定していた。でも、最初からそんな考えがゼロだったのだとしたら、あんな攻撃的な言葉を放てるわけがない。一度は、思考の一部として含まれたことがあったのだろう。きっと。

 命の尊さを知っている一人の人間として、彼は批判せなばならない存在だった。明らかに敵だった。でも、どこか彼を許してしまうような私の心があった。それは、私の心が広いわけではない。ただ、彼に操られているだけだ。許してはいけないと思えば思うほど、優しい目で見つめてしまう。何か皮肉のように感じた。それは恋心とかではない。彼は人を惹きつける何かを持っている。それは変わらない。どんな事実が彼の名前を傷つけても変わらない。

 白萩さんの何がいけなかったのだろうか。何があんな思想を創り出したのだろうか。思いつく限りのことを並べる。

 親を亡くしたこと。

 大切な存在に出会ってしまったこと。

 一人で抱え込んだこと。

 初めの二つは避けられないこと。彼の力ではどうしようもないことだ。

 最後の一つは、私が彼でも同じ行動をした気がする。ある意味、想定通りの結果だと思う。理解できない因果関係では決してない。

 なるべくしてなった、と言える、はずだ。少なくとも私はそう思う。

 彼に非はないはずだ。そして、何があの白萩さんを創り出したのかもわからない。どれも周りにありふれた当たり前のことではないが、極めて奇抜なわけでもない。これかを抱えている人間はいくらでもいるはずだ。悪く言えば、大して悲劇でもないのに被害妄想が激しすぎて自分を追い詰めた結果、なのだろう。いや、これは悪く言い過ぎだ。やり返しにしても酷すぎる。

 これこそが偶然なのではないだろうか。いくつもの悲劇が、偶然にも絶妙なタイミングで白萩さんを襲ったこと。それによって彼の姿が形成されていったこと。それこそが偶然なのではないだろうか。

 

 その夜、私はパソコンを開いた。そして、ワードアプリを開き、白萩さんの一切をここに記すことにした。真っ白なパソコンの画面を見つめる。

 深呼吸をしてから、休憩もせずに書き連ねた。何も飾らずに事実だけをまとめた。

 白萩さんの家族のこと。事故をきっかけに変わってしまったこと。それを裏付ける桔梗さんの証言。殺人未遂を犯したこと。その理由。『主役を喰らう役者』の黒幕。

 そして最後にタイトルをつけた。

 『真の役者』

 池月千芒という別人を演じることで、自分自身でさえ騙してしまう。白萩さんにぴったりだと思った。

 『主役を喰らう役者』というのは、彼が作り出したノンフィクションだった。いや、フィクションなのかもしれない。彼の存在自体がフィクションのようにも思えてしまう。

 ノートパソコンを閉じると、一つの物語を描き終えたかのような達成感があった。



 目覚まし時計を使い、予定の時間通りに起きる。洗顔をしてから、スーツを見に纏い、身支度を整えた。昨日部屋の整理整頓をした。ほぼ何もない。大きなスーツケースを引き、家を出た。電車に乗車し、葛宮と粟瀬の家に向かった。

 相変わらず豪邸だな。

 葛宮と目があってしまったら面倒なので、電話で粟瀬を外に呼び出した。

「どうしたの?」

 まだ朝早いこともあって、普段着を着用しているようだった。この姿を見られるのは、きっと葛宮だけの特権なのだろう。本当にどこで出会いを果たしたのかが不思議でたまらない。

「不倫だって言ってお前が非難された件のことなんだけど。やっぱ自分のせいだった。」

 逃げたような言い方になってしまった。

「どうして?お互い様じゃない?」

 表向きはそうだった。誰も悪くない。裏がないはずだった。でもそれは幻だ。

「違う。匿名でお前の名前と葛宮の顔写真を投稿した。そこから炎上し始めた。それに、週刊誌にも情報を提供して、近い距離をわざととっていた。」

「簡潔に言えば、嵌めたんだ。」

 最初からそう言えばいいのに。なぜ遠回りをするのか。

「それは知らなかった。」

 彼女は、怒るというより驚いているようだった。もっと責められてもおかしくないはずなのに。

「だから、一応賠償金として。」

 そう言ってスーツケースを渡した。

「1000万は入ってる。」

 昨日、頑張って現金におろした。多分怪しまれていたと思うけど。これだけの量だから。

「いや、それは流石に。」

 彼女は受け取ることを拒んだ。スーツケースは返却された。

「仕事無くなって困ったでしょ。」

 冷静にそう返して、スーツケースも返した。本来は彼女が持ってるべきものを自分が預かっていただけだ。

「お金で解決できる問題じゃないことはわかってる。評判とか。」

 自分が甘いってこともわかってる。

「だから、ちゃんと全部、公表するから。粟瀬が被害者だってこともすぐに広まると思う。」

 それでも、癒えない傷は残るだろう。でも、せめてもの償いだ。

「許してくれとは言わないが、少し大目に見てくれないか?今回の件は。」

 そう言って、相手の瞳を掴む。彼女は、こくりと頷いた。

「わかった。じゃあこれも受け取る。でも、なんでこのタイミングなの?」

 難しい質問だ。真意を伝えるわけにはいかない。作戦が全て白紙になってしまう。

「隠すことに不快感を覚え始めたから。」

 正当な理由だと思う。悪くない。

「そっか。」

「あなたが何か抱えていることは、聞いてる。」

 きっと葛宮から聞かされたのだろう。

「何かあったらちゃんと教えてね。それくらいの関係だとは認識してるけど合ってるよね?」

 残念だが今更すぎる。もう遅い。

 でも、それを本人に直接伝えるわけにはいかず、曖昧な返事をしておいた。

 

 パワハラを起訴するのを手伝ったのも、ただの厚意じゃなかった。こちら側から提案したことだったし、彼女はしょうがなく乗ってくれた、そんな感じだった。

 自分の作戦の一部として彼女をむしろこちら側が利用した。そのことはまだ伝えていない。伝える気もない。だって、伝えるメリットがない。彼女だってそれで気持ちが明るくなるわけではない。暗くなる。

 こういうのは、自分が隠し通すことに辛くならなければ黙っていても問題ないのだ。結果、自己中心だってこと。

 自分への幻滅をさらに深めながら、音を鳴らして歩く。大きなため息をついた。

「あの。」

 声をかけられ振り返る。

「サインください。」

 目線の下にいるのは、小学生くらいの男子だった。自分の1/2ほどの身長ながら、頑張って上を見上げている。

 どうしてバレたのだろうか。

 男の子の純粋な目に青空が映る。この目には、なんでも見透かされてしまうってわけか。純粋な世界の中で1人歩く邪悪な野郎が目立つのもおかしいことではないのか。

 マーカーを受け取り、ファイルのようなものにサインをする。こんなの初めてだ。嬉しくないものでもない。

「やった!お母さんに自慢しようかな。」

 満面の笑みだった。何も隠さず、歯を見せた笑顔を見たのは久しぶりだった。自分にもこんな時期があったのだろうか。

「前に仮面ライダーの映画に出ていたときにかっこいいなって思って。僕もお兄さんみたいになりたいなって思ったんです。」

 自分のようになりたいなんて。苦笑した。どう考えてもこれは間違った例だ。

「じゃあ、将来は役者さんになりたいの?」

 子供相手だと、つい口元が緩んでしまう。声色も温かみを帯びてしまう。

「いや、宇宙飛行士になりたい!図鑑で宇宙を見て、僕もこの目でみてみたいなって思った。それで、自分の目で見て、新しいものを見つけたい!」

 眩しかった。ずっと暗闇しか見ていなかったから、目が慣れていないみたいだった。

「だから、たくさん勉強して、お兄さんみたいに夢をあげられる人になりたいんです。」

 泣きそうだった。心を抉られた。

 何かずっと騙しているような気分で罰が悪かった。自分は、この曇りのない真っ青な目に映る善い人間ではない。そのことは自分が一番理解している。だから、もう傷を抉らないで欲しい。この子は悪くない。自分が悪い。

「ありがとう。頑張ってね。」

 声がかすかに震えた。そう言って反対側を向き、歩き始める。向こうも歩き始めたのを確認すると、角を曲がり、壁を背もたれにして身を任せた。陽気な飛輪にからかわれながら、涙の雫を作った。何気なく見つめた先には、シミひとつない緑色の葉が茂っていた。目に映るもの全てが綺麗で、自分が見窄らしく見えてしまう。

 青空を仰ぎながらつぶやく。サインなんて書かなければよかった、と。

 初めての経験に気持ちが高揚し、自分の状況を棚に上げてしまっていた。きっと、明日には、あのサインはゴミクズ同然のものと降格しているだろう。ゴミ箱にも捨てられるのだろう。いや、むしろ、逆に高値で売れたりするものだろうか。少なくとも、あの美しい瞳を裏切ることになる、ということは確かだ。申し訳ないけど仕方がない。

 自分の厚意の行為が裏目に出ないことを祈るばかりだ。あの子が友達に自慢なんかしたりして揶揄されたりしないかが心配だった。その前に母親が捨ててくれるといい。きっと報道を理解できる母親なら気味が悪いと感じるだろう。犯罪者のサインなんて誰が欲しがるんだ。馬鹿馬鹿しい。あんなので、気持ちが高まり余計な所業をしてしまった自分が憎かった。


 家に帰ると、机に座り文書を作成し始める。それを印刷すると、卓上に整頓して並べた。昼食を済ませ、部屋の中を片付けてから家を出た。

 その前に感慨深く家の中を眺めた。

 横にはスーツケースひとつ。それ以外は全て置いてきた。

 秋だ。彼岸花が咲き誇っている。真っ赤だ。真っ赤なくせに美しかった。最高純度の赤だった。濁っている自分の手とは違う。

 電車に揺られながら、外の街並みを眺める。胸が痛くなった。懐かしさを感じるには十分すぎる材料だった。河原や公園で遊ぶ幼児が目に映る。きっと自分はふやけた瞳をして、彼らを見つめていたのだろう。

 気を緩めたら、声を上げて泣いてしまいそうだ。一生懸命に我慢している。

 電車を降りると、大型病院の前まで歩いた。その堂々とした建物を見上げる。自分がさらに小さな存在のように感じる。

 石竹さんの名前を伝えた。自分の名前は伝えなかった。聞かれなかったから。

 病室の前までに作戦を練るつもりだったのに、あっという間に到着してしまった。周りの目も気になったので、ノックをしてから個室に足を踏み入れた。

 ドアを開く。その穏やかで、二つの目と鼻と口でできているのにもっと単純なものに見える顔を見つめる。両脇から痺れが走った。感電したように。そして、その痺れは全身を駆け巡った。空気中を伝わる音の速さよりも優っていたと思う。一周して瞳にまで届くと、ぽつりぽつりと汚い雫が転落した。そして潰れていった。

 天国で再会したかのような、そんな忘れられない光景だった。彼の後ろに映る夕焼けが似合っていた。この瞬間のために生きてきたと思わせるような迫力があった。全てここに繋がっている。まともに呼吸もできない。徐々に浅くなる呼吸が苦しくて、頭から崩れ落ちた。石竹さんは、一言も声をかけずにただただ自分を見ていた。

 顔を上げる。磁石で吸い寄せられたかのように、もう彼の瞳から目を離すことはできなかった。まるで催眠術にかけられているようだった。でも、そうしているうちに深い呼吸ができるようになった。瞬きを2回ほどしてから我に戻った。立ち上がるとそっと彼に近づいた。

 ベッドの横まで来ると、大胆に頭を下げた。勢いで全部終わらせようとした。

「ごめんなさい。」

 本当に醜い。無様だ。

 それが1、2分くらい続いた。頭に血が上り、銀色のスパンコールのようなものが見え始めた。

「もういいよ。」

 彼のその声を聞いた次の瞬間、頭を起こした。

 そして、何を思ったのか、自分の手を掴んだ。

「冷たい。」

 何が起きているのか分からず、適当な返事で誤魔化すことしかできなかった。

 野太い。でも、優しい。特徴的な声だ。懐かしい。

 彼はそれから何も言わなくなってしまった。自分から問いかけた。

「あの、どうして今まで黙っていたんですか?僕がやったってこと。記憶には残っていますよね。」

 葛宮からの情報によると混乱していて顔を覚え出せない、と主張しているらしかった。そんなわけない。はっきり自分だと認識した上で、アドバイスまで投げかけた。結局、そのアドバイスに効き目があったのかはわからないが。

「不確かだったから、誰かの人生を変えてしまうような証言は残したくなくてね。」

 絶対に嘘だ。苦笑いをした。

 でも、その優しい声には祖父や祖母の面影があった。老人はみんなこんなものなのだろうか。

「でも、君は思いつきじゃなくて、計画的犯行のつもりだったんだろう。被害者が生きていちゃ、自分が犯人だと即座にバレてしまう。なのに、殺さなかった。なんでだろう。」

 理由なんてない。全て何となくで起きた出来事だった。

「度胸がなかっただけです。」

 それを聞くと、彼は笑って言った。

「それで助かったってわけか。」

 そんなに面白くないと思うのだが、オーバーにリアクションをしている。自分を気遣ってくれているのだろうか。

 この人が善い人間だってことは十分に伝わってくる。だから、自分との境を浮き彫りにさせないで欲しい。誰だって裏の部分があるってことを証明してほしいのに。この人にはなさそうだ。

 凍えるような声で聞く。

「あなたはこんな目にあって良かったですか?」

 ふざけた質問だ。沈黙が二人の間に広がった。被害者に尋ねるような内容じゃない。

 彼は質問の意図に気がついたようだった。いつものように笑みを浮かべると口を開いた。

「そうだね。」

 彼はこれ以上ないほどに目を細めていた。

「大切にしなければいけないものに気がつくことができたからね。」

 多分、石竹さんは気がついている。

 こうやって、過ちを美化しないと、僕は救われないということを。

 それを気がついた上で、優しさで言い放ったセリフだ。ああ、なんて人だ。

 左の頬を吊り上げた。口を結んでから緩める。眉を上げて、涙を防ぐ。でも、あっという間に壊されてしまった。歪んでいくこの世界が愛おしく思えた。その世界で生きる石竹さんが映る。

「君そんな表情するんだね。初めて見たよ。まるで別人みたいだ。」

 石竹さんは解き放たれたような笑みを投げた。それに応えるように笑った。

 それからしばらくしてから、彼はスマホを取り出して、画面を見せた。

「騙したつもりはないんだけど、彼から事前に頼まれていたことだから、ごめんね。」

 通話画面だった。相手は葛宮。

 何も言えなかった。良いんです、なんて言えなかった。顔が固まってしまった。突如、現実に引き戻されてしまったことの悲痛が大きかった。

 小さく頷くと荷物を持った。

「さようなら。」

「もう行くの?」

 間一髪に彼は聞いてきた。

「最後にやらないといけないことがあるので。」

 そう言うと、彼は

「そっか。」

 とだけ返した。

 ドアを開き、出て行こうとすると、鮮やかな声によって止められた。振り返る準備をしているあたり、きっと自分は望んでいたのだろう。呼びかけられることを。

「警察に告発しなかったのは、君を息子同然だと感じていたからだろう。自分の子供の罪を告発する親はいない。当たり前のことだ。」

 確固たる自信があるのだろう。堂々としていた。

「結局したじゃないですか。」

 拗ねながらそう言うと、石竹さんはおおらかに笑った。包み込むようなその声を聞くと、瞳を閉じた。

 頼むからもう泣かせないでほしい。


 病院から出ると、電話帳のアプリを開いた。履歴の一番上にある名前をタップする。自分から電話をかけたのは初めてだろう。

 歩きながら相手が電話に出るのを待つ。

 2秒もしない間に声が聞こえた。

「もしもし。葛宮?」

 決まり文句を言ったつもりだったのだが、

「自分からかけたんだろ。」

 と、鼻で笑われてしまった。声色は明らかに悪かった。お互い何を喋ればいいのかわからなかった。

 静寂を切り裂くような声で放つ。

「ごめん。」

「何だそれ。どうゆう意味?」

 こいつ。忘れている。

「お前が言ったんじゃないか。謝れって。」

「わかってる。」

 意味を理解した上で、聞いてきたってことか。

「信じられない。」

 今頃何を言っているんだ。散々、疑いに疑ってきたくせに。これ以上なく責めてきたくせに。

「最初のこの仕事を選ぶって聞いたとき、承認欲求に取り憑かれただけだと思った。だから、反対した。でも、もっと違う目的があるんだろ。」

 反対なんてされたっけ。覚えていない。

 何も返さずに黙っていると、葛宮は話し続けた。

「こんなこと、今更言うことじゃないってわかってる。ただ、昔のお前を知っているうちの一人だから、世間の目で見られているお前は本物じゃないって真の姿じゃないって、誰よりも証明したかった。てっきり、誰かがバックにいてそいつに操られているんだと思ってた。だって、こんなことしないだろ、お前は。」

 本当に今更すぎる。馬鹿だ。昔から自分より成績は上だったけど、馬鹿だ。これだから、好かれないって言おうとしたけど、もう既婚者だった。

 うざい。今更良い人頭してくるのも、自分を知っていますよ感を出してくるのも。

「警察に捕まれば、安全が保障されるから楽になると思ったんだ。」

 それで異様に追いかけ回されたわけだ。GPSまでつけやがって。

「殺害方法なんていくらでもあるのに、わざわざあの薬毒を選んだのも何か意味があるって思った。」

 自分がなぜこの方法を選んだのか、正直覚えていない。でも、きっと、躊躇があったのは事実だ。だから、桔梗や葛宮に助けを求めるかのように、あの薬を使用したのだろう。

 ある意味合っていた。これが本物じゃないことも。黒幕がいるってことも。まあ結局その黒幕の正体は自分が作り出した自分だったわけで、この白萩という人間がやったことには、文面的には変わらなかった。捉え方は人それぞれ違うかもしれないけれど。

「不倫したってのもほんとは信じてないからな。あれだってわざとやったんだろ。」

 あれだけ騒いでいたくせに。

 本当にむかつくやつだ。

「じゃあ、その件に関しては、どうでもよかったってこと?」

「まあ、どうでも良くはないけど、お前がそういうのに興味ないこと知ってるから、口実に使ってただけだ。」

 確かに、家まで呼ばれてからは、追ってこなかった。スマホを奪ったのも、他の証拠を探すため、とGPSをつけるためだったのか。

「それで、どうするつもり?これから。」

「とりあえず、現在地を教えろ。」

 GPSでわかってるくせに。わざわざ聞いてくるあたり、うざい。

「簡単に教えるかよ。自分で探して。」

 そう言い放つ。

「はあ?」

 相手の憤慨する声が聞こえた。

「もう良い?切るよ?」

 からかうような声で言った。

「え、ちょっと」

「それじゃあ。」

 強引に切ろうとする。

「粟瀬と幸せに。」

「待って」

 電話を切ると、その場に立ち止まった。通話終了の画面を眺める。

 急がねば。

 GPSを近所の公園に投げ捨てると、目的地に向かった。これで、あいつが余計にこの公園内を捜索する時間ができる。

 メールのアプリを開いた。

 全て台本通りだ。


 

 今日は、休みを取って、一日中家でぐたぐたしていた。不健康なファーストフードを口に押し込み、炭酸のジュースで頭を凍らせた。快感だった。絶望感なんて感じている場合じゃない。無視してしまえばいいから。

 おかわりをしようと立ち上がった瞬間、スマホが音を伴いながら震え始めた。

 桔梗さんからの電話らしい。耳元にスマホを当てる。

「どうしたんですか?」

 桔梗さんから連絡があることなんて滅多にない。緊急事態なのだろうか。

「池月さんが。池月さんがいないんです。知りませんか?どこにいるか。」

「え?」

 思わず聞き返してしまった。嫌な予感ばかりが脳裏を横切った。

「今日は舞台挨拶があるのに。集合時間を一時間過ぎても来ないどころか、連絡もつかない。何か聞いていませんか?」

 桔梗さんはひどく焦っていた。きっと責任感が強い人なのだろう。

「ちょっと待ってください。」

 メールを開いた。驚いた。

「来てます。連絡。」

「なんて?」

 桔梗さんは突っ込むように聞いてきた。

『いつもの時間に。池月千芒。』

 その文面を読み上げながら頭を捻る。

「これって、一体どうゆう意味ですか?」

 あまりにも簡潔すぎて、内容が一ミリもわからない。

「わかりません。」

「でも、暗号なんじゃないですか?何か思い当たることは?」

 暗号?ここに書かれているのは、『いつもの時間に』という指示と彼の名前だけだ。この中にヒントがあるのだろうが、わからない。一文字一文字丁寧に拾っていく。

 彼の名前が目に入る。よく考えたら、いつもは池月という名前を使わない。それどころか、メールの最後に名前も打たない。何か意味がある。池、月、千、芒。一つ一つを頭の中で描いた。描いた瞬間、思わずその場に立ちすくんだ。失われたはずの記憶から浮かび上がった記憶があった。

 に映る本の。その瞬間を境に、何か大きな扉が開いたのだろう。古い記憶がづかづかと入ってくる。どうして今まで気がつかなかったのだろう。あの公園にまで連れて行ってくれたのに。ずっと忘れていた自分が恥ずかしい。申し訳ない。

 この理由なら、彼が異常に私に干渉するのかのわけがわかる。私を探している人と照らし合わせていたのだろう。

「わかったかもしれません。ちょっとすぐに出かけます。」

 勢いで電話を切ろうとしたが、張り裂けるような声が電話越しに聞こえた。

「まって、私もついていきます。」

 ついて来ることには問題ない。

「ここから30分くらいかかりますよ。」

 無駄足になってしまったら、ただでさえ緊急事態なのに申し訳ない。

「本当にそこで合っているんですか?」

「わかりません。確証とは程遠い。直感の中の直感に過ぎないですから。」

 自分の今にも消えそうな崖っぷちの記憶の中から見つけたピースだ。

「それなら、私は他を探してみます。」

「確かに、二人で行くのは効率が悪いですもんね。」

「それじゃあ。」

 と言い、電話を切ると即、外出する準備をした。

 今から行くから。もうすぐ着くから。何をするつもりなのか知らないけど、早まらないでよ。後悔する。きっと後悔する。あなたは後悔しないかもしれないけど、あなたの周りの人は後悔する。それでもというのなら、とりあえず、まって。お願いだから待って。止めないから。いや、止めるけど、待って。

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