第三章

 『池月千芒、初主演映画。』

 その文字に体を唸らせながら、震えた。呻吟していた。

 空気を吸って吸って吸って、吐くことができなかった。

 そこそこ人気のある俳優が、主演をやる。それだけのことが新聞の一面を背負った。ペラペラのその紙の裏にはそれ以上の意味を持つものが隠されていそうだった。

 どうゆうつもりなのか。白萩さんに直接尋ねた。

『別に自分一人で決定したことじゃない。』と返された。

 でも辞退することだってできるはずだ。そう聞いても、誤魔化されるだけだった。

 何も悪いことじゃないんだ。そう言って自分も誤魔化した。


 テレビに映る白萩さんを見つめる。バラエティでもドラマでもない。お昼のニュース番組だ。もちろん主題はこの間の殺人未遂事件。取材として応答しているわけではない。池月さんの写真が画面いっぱいに映され、怪談話を語ってそうな不安定な声で、経緯を説明されている。内容が事実か否か、わからないからはっきりと非難することもできない。一概に彼を信用することもできないのだ。無罪であることの証明より、有罪であることの証明の方が幾らか容易い。真犯人が浮かび上がらなければ、生涯疑い続けられるのだろう。

 憶測を事実かのように話す。順番に映されるタレントは信者のようだ。ニュースを信頼し過ぎてはいけないと実感する。

 事実が知りたいことは確か。でも、心のどこかで彼の無罪を祈っている自分がいる。あの孤独な目を見てしまったら、一人にさせてほっとくことはできない。まるで何かの呪いにかけられたようだ。

 どうやらこの番組は、彼の昔の同級生にも探りを入れてみたようだった。取材している。人柄などが訪ねられていた。

「暗くていつも遠くを眺めていました。それに、彼は両親を亡くしてから、不登校になりました。だから、あまり面識がないというか。高校はほぼ通っていなかったので。でも、何人か仲の良いやつはいました。彼らはいつも一緒にいたので、その人たちに聞けば何かわかると思います。」

 懸命な回答だ。その仲良いやつというのが、桔梗さんなのだろう。でも、きっと彼女は取材に応えるようなことはしない。ここの記者も可哀想だ。

 ただ一つ気になったのは、彼ら、と複数いたことだ。桔梗さんだけじゃなさそうだ。

 小学校の同級生。そう呼ばれた女性も取材に対応していた。

「明るくて優しくて、何でも挑戦して、クラスの中心で笑っているような人でした。なので、テレビに映るクールな姿が同一人物だとは思えません。」

 真反対の回答だった。これには、ニュースキャスターも困惑しているようだった。彼は、なるほどと言ったものの顔が納得していなかった。

 結局、有益な情報はなかった。今までに公表された情報のかけらをまとめただけのものだった。これだったら私の方が上だ。誇らしい気分になる。

 もしかしたら、本人に取材させてもらえるというのは、とんでもない特権なのかもしれない、と今更気がつく。

 やはり、まだまだ取材が必要だ。

 そう感じていた。ちょうどその頃、白萩さんから連絡があった。

『伝えてないことがあります。今度、取材に来てください。』

『はい。喜んで。』

 そう返した。

 そして、記事にするために、質問する必要がある項目を並べた。まだまだ数多くある。

 その後、予定の取り決めをした。話を進めていくうちに、彼が形式的な取材を望んでいるわけではないということがわかった。また、家に呼ばれた。

 

 一度通った道を忘れることはない。方向感覚もそれなりにはある方だと自負している。段々と夏も終わりに近づいてきている。まだ上着を着用する必要はないが、8月の終わりを知らせる心地よい風が吹いている。

 どの季節も選べないくらい好きだけど、季節の変わり目というものも風情がある。植物や天気など別れと再会を知らせる要素はたくさんあるけれど、爽やかな風もそのうちの一つだ。

 最寄り駅から7分ほど歩いてアパートの目の前まで来た。約束の10分前に着いてしまった。早めにピンポンを押したら迷惑だろうか。でも、8月の終わりとはいえ、まだ暑さは残る。迷った末、5分待ってからチャイムを押した。

「いつもお邪魔してしまいすいません。」

 頭を下げながら、中へ入る。

 前回、訪ねた時より部屋が散らかっていた。一生懸命、整理したのは目に見えるのだが、物の定位置には置かれていない。

 そりゃ精神的に追い詰められてしまうこともあるか。

「いやいや、わざわざ来てくださってありがとうございます。」

 冷たくはない。でも、温かくもない。なまぬるくてふやけたような声だった。明らかに彼の中で何かが変わった。

 席に座ると、彼は口を開いた。

「自分の全てをあなたに預けようと思って、今日はお呼びしました。」

 彼の顔は下を向いていた。それはあからさまにというよりは、上目遣いができるほどだ。眼力だけで頑張って目を合わせている。白目の部分が大きく見えた。眼の筋肉だけに頼っている。他の力は全て抜けていた。

 生まれてから今までのどの瞬間よりも、真剣に受け止めようと決心した。

「前に、この仕事に就いた理由は大したことないって、ただの憧憬だって言いましたよね。」

 静かに頷く。

「全部嘘。」

 吐き捨てるようにそう言った。そして、自分の口から出た言葉を睨んでいた。

「ごめんなさい。」

 彼はかろうじて頭を下げた。

 私は、一言も喋らずにただただ見つめていた。綺麗に膨らんだ風船を割ってしまいそうだから。

「決めました。自分の生涯の全てをあなたに遺してもらいたい。」

 キリッとした瞳を向けられる。一瞬、意味がわからなかった。まるで遺書を遺すように聞こえる。

「はい。」

 首を傾げながらそう返答した。

「全部、記事にして世に出してくれますか?」

 そういうことか。それで良いなら、

「はい。」

 断る理由がない。

「これは、今から話すことは、まだ、誰一人として、マネージャーさえ、話したことがないことなんです。」

「そんなこと、私に話していいんですか?勝手に。」

「別に誰の許可も必要ないですよ。自分が決めたことなので。」

 鋭い声のベルトで身を引き締めているようだった。自分自身に言い聞かせていた。

「そうですね。」

 相槌を打つ。

「単刀直入に言うと、この仕事を選択したのは、ある人を探しているからです。」

 彼は、ゆっくり一つ一つの言葉を紡ぐ。私はそれを受け止め、静かに頷く。

「ある人?」

「ある人。」

 彼はその言葉を何度も繰り返す。どうしていいのかわからず、次の言葉を静かに待っていた。

「名前も知らないし、どこに住んでいるのかも、今何をしているのかも知らない。ちゃんと生きてるのかもわからない。でも、ずっと忘れられなかった人。」

 彼の目線は私の頭上にあった。時々、その長いまつ毛を伏せて目を瞑っていた。

「両親が死んでから、ずっと独りだった。いや、周りに人間は突っ立っていたけど、それは置物みたいなもので、気持ちを分かち合えるような人はいなかった。その状況を好んでいたわけだけど、ずっと独りでいたら、本当に気がついたら死んでそうだった。」

 彼は一言一言を吐き捨てるように喋った。もう、一度として繰り返したくないという意思が嫌というほど伝わってきた。

 最後の言葉に顔を顰める。

「学校にも行かずに、部屋の中に閉じこもって目の前ばかりを見ていた。ある日、何気ない散歩のつもりで夜中に家を出た。帰り道なんて気にせず、行きたい方向に進んでいった。」

 洗濯機が回る音が良い仕事をしていた。雑音が入った静寂がそこにあった。

「そうしたら、見たことのないような茶色の広場が見えた。芒がたくさんあったから、茶色かった。茶色なんて地味な色なのに何故かその光景に惹かれて、気がついたらベンチに座っていた。」

 芒なんてちゃんと見たことなかった。想いを寄せたことなんてもちろんあるわけない、とも言い切れない。

「少し離れたところにあるベンチが横目に見えて、目を向けてみると、同い年くらいの女性が自分と似たような表情をして腰掛けてた。真っ白のワンピースを着てたから、初めて見た時は幽霊かと思ったけど。」

 幽霊だなんて随分と失礼だ。彼の表情は徐々に照らされていった。

「相手もこっちに気がついてから、それなりの仲になるのにはそこまで時間を要さなかった。全部、自分が抱えている苦杯を打ち明けた。彼女は病気を抱えていたらしかった。それに比べたら、親の死なんて軽いものかもしれないけれど。」

 静かに首を振る。まるで自分のことかのように彼の話の中に入り込む。

「それから、度々、その広場で会って、話すようになった。特に約束はしていなかったけど、毎日のように通ったら、何日か会えた。」

 彼は純粋な少年のように優しい笑みを浮かべていた。初めましての表情だった。でも、その眼差しにも諦めの色が垣間見えた。

「あの、一緒に見た光景は忘れられない。」

 その光景の中に彼はいた。明らかに私とは壁があった。ちょうど西日が彼の横顔を照らしていた。それは、美しいというより優しかった。柔らかかった。暖かかった。

 その、操られたように固定された彼の視線に気がついたとき、友人の好きな人に気がついたときのような背徳感があった。その視線の先にはきっと彼の言うある人がいるのだろう。

「その人への想いは何をもって確信したんですか?」

 記者らしく質問してみた。

「昔から両親に行動には理由をつけるように言われてきたって言いましたよね。後悔しないように。未来の自分に説明ができるようにって。でも、その理由が要らなかった。ただその人ためだってことってだけで。それってすごいことだと思いませんか?」

 私にはまだ経験したことのない感情なのだろう。一部のゴールインできた人だけが得られる感情なのかもしれない。

「でも。だから、なんでもできるちゃうんです。」

 なんでも。人生をかけるような決断をしたことだろうか。

 恋心は犠牲も伴うのだと学んだ。

 彼は苦しそうに眉を顰めていた。

「つまり、その人のために、人生を捧げたようなものじゃないですか?どうしてそこまでその方に賭けるのですか?」

 たった一人の人間のために私は自分自身の労力をかけられるだろうか。今の私には、そんな力はない。

「ただの好奇心です。」

 好奇心?

「親が死んでから、生きることがどうでもよくなった。どうせ死ぬなら、なんてこんなこと言っちゃだめだけど、自分のやりたいことをやり通せばいいと思って。」

 文字だけ耳に入れれば、理解できないような思考だった。でも、私と重ねてみれば、その気持ちを共に背負うことができるかもしれない。どうせなら、という気持ちで気楽になれることもあるのだ。

 大きく頷いた。

「もし探し出すことができなかったら、彼女のために働いた時間と労力が無駄になってしまうと考えたことはないんですか?」

 彼は回答に迷う隙もなく、即座に不鮮明な目で喋り始めた。

「大規模な目標って達成するための過程を楽しむためにあるんじゃないですか?」

 思わず、ほお、と老人のような反応をしてしまう。

「それは、どういうことですか?」

「一つ目標があったとして、それを追っている期間が自分を満たしてくれるから、新たな目標を立てる。日々、努力する自分に自惚れて自己肯定感を高められる。目標を達成できたら、そりゃ嬉しいですけど、達成できないからといって、積み上げてきたものがゼロになるわけではないから。つまり、目標があることで一瞬一瞬に幸せを感じられるから、達成する大きな幸福を手に入れられなくても十分だってことです。」

 その言葉に納得させられ、頭が働かなかった。他人の、それも偉人でもない人の言葉にこれほどまでに衝撃を受けたのは、いつぶりだろうか。初めてかもしれない。首の横のあたりから鳥肌が立った。

「こんな堂々と語ってますけど、これ、逃げるか迷ったときに自分に説得させるための、後付けの理由ですから。」

 彼は鼻で笑いながら言った。

 固まってしまった私を置き去りに、彼は再び二人の世界に入っていった。その人と白萩さんだけの空間。私は当然、邪魔者だった。側から見たらだいぶカオスな空間だったと思う。

 なんというか、知れば知るほど不思議な人だった。

 しばらくして、自我を取り戻した私はかろうじて、

「本日はありがとうございました。色々なお話が聞けて大変貴重な機会になりました。」

 とお礼を言い、家を出ていった。その空間を邪魔しないように。

 


 気がついたら藤袴さんは出て行って、また一人になっていた。


 忘れられない。

 夜、8時を過ぎた頃だった。夜中に出かけるというのは、背徳感があって高揚していた。

 家から歩いて5分から10分くらいのところにある広場。広場で合っているのか、それとも公園だったのかわからない。

 時間が遅いこともあって、人はあまり見かけなかった気がする。静寂が場を支配していた。自分の雑草を踏みしめる音が響いていたのを覚えている。

 その広場には、無数の芒があった。芒があるかないかなんて、その広場に辿り着くまでは気にしたことがなかった。彼らは、多分、今までも何度も僕の視界にお邪魔していた。でも、振り返っても彼らは鮮明に残っていない。彼らにフォーカスして自然を見つめると意外とどこにでもいる。河原にはもちろん、何気ない道路や道端に突き刺さってる。

 勝手に芒広場って呼んでいた。

『ざっと数えて千はあるな。』

 ってよく見ないで言ったら、彼女に

『適当に言ったでしょ。』

 って怒られた。

 純白のワンピースを着ていた。視界の横の辺りにいる気配は覚えているのだけれど、鮮明な顔は残念なことに覚えていない。

 その広場には池もあった。多分、人工的な池だったと思う。生物はおろか、ほとんど植物も生えていなかった。生えていたのは年季を示すこけだけだ。案外、昔からあるのかな、なんて考えていた。そういえば。

 でも池もあったってことは、やっぱり公園だったのだろうか。そんなことはどうでもいいか。

 設置されたベンチは、月を観察するのには、特等席だった。都会のくせに、ビルどころか家もなかった。あるのは、芒だけだった。

 一枚くらい写真撮っておけばよかった。

 その公園にあった全ての要素が邪魔をせず、引き立て合っていた。記憶に残る限り、一番の絶景だった。どんな世界遺産より美しかった。もちろんその景色の中には彼女もいた。

 あの人と一緒にいた歩いた世界はシャボン玉に閉じ込められているようだった。幻想的で、不安定だった。でも、永遠が保証されているような気がしていた。なのに、そっと触れただけで、ぷつりと何もなかったかのように割れた。そのとき、地面に飛び散った液体は自分の瞳から飛び出たものだった。その液体に、全部を元通りに修復する力はなかった。

 暗闇を西日だけが照らしている。そんな部屋の中に一人、ソファに座っていた。

 昔のことを思い出そうとすると、いつも胸が痒くなる。もう戻れない、そんな事実がどこまでも自分に突きつけられていて顔が歪む。泣き出したくなる。

 ピンポーン。チャイムの音が鳴り響いた。藤袴さんの忘れ物かな。

 頭の指令に追いつかない足で、とぼとぼと歩きながら玄関に行く。そこまで距離もないのだけれど。

 相手が誰なのかも小窓で確認せずに、扉を開いた。それが悪かった。

 扉を開けた瞬間、閉めた。体が自動的に、相手を拒否して手を動かした。まるでアレルギーかのように。

 しかし、扉がぴったりと閉まることはなく隙間が生まれた。その隙間を作っている相手の指先を心配することなく、思いっきり扉を閉めようとする。しかし、その前に扉は最大限に開かれてしまった。もちろん、自分の力ではない。相手の剛力によるものだ。

 葛宮だ。本当にむかつく。

「何でここ知ってんだよ。」

 教えた覚えはない。第一、藤袴さん以外、誰にも明かしたことがない。粟瀬路線も考えられない。

 僕の質問は無視された。葛宮は、許可もしていないのに、玄関に足を踏み入れる。

 尾行されたのか。この間、藤袴さん宅に勝手に訪問したことを考えれば、彼女が尾行された可能性もある。タイミング的にもあり得る。本当に気持ち悪いやつ。そして、表札で最終確認をし、堂々と踏み入ってきたわけだ。暇なのか。

「どうしてここまで執着するんだよ。」

「私怨を抱いているからに決まっているだろ。」

 なんのことだ?

 思い当たる節が無いかと問われたら、無いわけではない。あれは、こいつの誤解に過ぎないけれど。

「藤袴さん連れて何やってた?」

 藤袴さんとかお前が言うな。気持ち悪い。やっぱり彼女の名前を知っている辺り怪しい。きっと彼女の家に行って表札で確認したんだ。

「何もやってない。ただの取材。」

 疑いの目を向けられる。怪しいのはどちらかというとそっちの方だ。

「取材は家でしないだろ。」

 何も返せなかった。確かに普通はしないかもしれない。

「向こうに聞いても同じ回答かな?」

 最高級にうざい。

「勝手に聞け。」

 聞いたところで何も恨まれるようなことは出てこない。悔しがるこいつの表情を見なかったけれど、ずっと監視しているのは時間の無駄だ。こんなくだらないことで、こいつの時間を潰せるならそれでいい。

 葛宮は、平気な顔で、家に上がってる。もちろん、断りを入れられたわけでもない。そして、何食わぬ顔をしてソファに座る。この家の中で一番心地よい場所を取られた。隣に座るなんてまっぴらごめんなので、食卓の椅子を持ってきて座った。

「何の用があって来た?」

 足を組みながら目を向ける。

「石竹さん、無事だったな。」

 その話か。どうせ疑われているのだろう。

「うん。それで?」

「悔しい?」

「何を言ってるんだ。」

 意味がわからない。会話が成り立たない。

「初めっから殺しはしない予定だったんだろ。初めっからというより、途中から。」

 切実に聞きたい。なぜ僕が犯人だという前提で話しているのか。

「現場に薬が落ちていた。落ちていた分を合わせれば致死量だった。故意に溢してしまったとは、考えにくい。直前で意図的に半分にしたんだろ。何があった?」

 真剣な顔をして聞いてくる。なおさら、まぬけに見える。

「馬鹿なの?そんな正直に、それもお前なんかに話すわけないだろ。」

 葛宮は諦めたようだった。彼は、黙り込んだ。それなのに、再び、口を開いた。

「じゃあ、石竹さんが亡くなった日の夜、どこで何してた?」

 つまり、アリバイがあるかどうかってことか。本格的に疑われている。

「覚えてない。何日だっけ?」

 首を傾げながら答える。こちらに向けられた視線を感じる。冷たい視線。

「日食が見られるかもしれないと世間がそこそこ騒いでいた日って言ったらわかるか?」

 わざとらしく大きく頷く。

 石竹さんが亡くなった日に何してたかなんて、忘れたわけないだろ。ただ、即座に返答できたら、尚更疑わしい。

「あの日か。特に何もしてない。撮影があって、そのあと真っ直ぐ家に帰った。」

 特に稀な行動はしていない。その日は。

「午後8時頃はどこにいた?」

 いつのまにか距離が近くなっている。向こうがこちら側に少し動いたのだろう。気持ち悪い。

「午後8時?ちょうど帰り中だったと思うけど。」

 葛宮はチッと舌打ちをした。横目で睨むと距離が離れた。

 それを見て頬が緩む。見られてないといい。もうだいぶ暗い。さっさと夕飯の準備したいのに。こいつ、出てってくれないかな。

「どうやって裏合わせしたんだ?」

 何のことだかさっぱりわかんない。そんなギラギラとした瞳を向けられても。

 理解できない問いは無視で十分だ。

「週刊誌。この間、出てたやつ。」

 そう言って投げつけられた雑誌を凝視する。こうしておけば、汚らわしいこいつに目を向けなくて済む。

「これがどうしたんだ?」

 投げ返しながら聞く。葛宮は、投げつけたそれを手に取りパラパラとめくる。

「このページ。」

 彼はため息を吐きながら、堂々と見せつける。そのページには、自分の姿があった。

「気づかなかった。どこの記者だよ。」

 盗撮をされたらしい。珍しいことでもない。

「知ってたくせに。」

 すごい形相で睨まれる。は?と睨み返す。

「記事は興味ないから読んでないけど、この写真が撮られたのは、石竹さんが殺害未遂をされたその日のその時間。こんな偶然あるか?」

 可能性がゼロなわけではないじゃないか。

 わかりやすく視線を逸らしていた。洗濯物畳まないと、なんて、どうでもいいことを考えながら。

「お前が撮らせたんだろ。」

 今度は棘のような視線を投げつけられる。その視線を鏡に写して返す。

 こいつに弁解したところで、時間の無駄だ。

「そんなわけないじゃないか。だって今初めて見たんだよ?」

 模範解答で返す。大体、誰もが初めは否定する。そして、それを裏付けるような根拠を提出する。

「それは証拠があるの?それともただの憶測?」

 そして、相手をムカつかせるような笑みで挑発する。

 どうせ、会話は録音されているだろう。不利になるようなことは言わない。でも、流石に盗撮されているとは考えられない。だから、いくら疑わしい表情を見せたって記録に残ることはない。どうせ何をしたって言いがかりをつけて、追い詰めてくるんだ。断定的に否定しない方が効果的だろう。

「これから見つけるんだよ。」

 つまり、現時点ではただの憶測に過ぎないってことか。予想通り。

「じゃあ、何しに来たの?」

 弱気になっている葛宮に煽るような視線を向ける。

 返答はなかった。無視するってとこは、それだけ余裕がないってことだ。

「さっさと出て行ってくれない?邪魔。」

 近寄って立たせる。

「本当に犯人だったら謝れよ。」

 耳元で囁かれる。謝るだけで済む話ではないだろ。

 これは、強気でぶち当たったのにも関わらず、力が及ばないことを自覚し、悔しみのあまり相手の這いつくばって謝る顔をみたいというせめてもの抗いなのだと自分に言い聞かせる。

 可哀想だと上からの見下げた。

 半強制的にこいつを外に放り投げる。そしてドアをばたりと閉めた。

 その瞬間、異世界に来てしまったかのような静寂に包まれた。それが心地よいのか気味が悪いのか、自分にはわからなかった。

 どうしてここまで疑わられなければいけないのだろう。真っ当に生きているつもりなのに。誰か労ってくれるような人はいないのだろうか。

 ソファにもう一度座り込む直前に、宅配便として届いた荷物が目に入った。荷物を開封するという動作でさえもめんどくさく感じた時の残骸だ。

 重い足を引っ張りながら、ダンボールの方へ行く。そして、開封した。

 新しいスマホケースが入っていた。真っ黒でシンプルなものだ。すぐに取り替えようと現在使用しているカバーを取り外した。

 その時、小型のチップのようなものが目に入った。すぐに察しがついた。GPSだ。あまり驚かなかった。

 このスマホを誰に渡したか、頭を捻る。同窓会の時か。あの時、接触はあっただろうか。酔っていたので明確には覚えていないけれど、明らかに怪しいやつが一人いる。葛宮だ。逆にあいつしかいない。もし葛宮だとしたら、この家の場所を知っていることも、説明がつく。藤袴さん経由でバレたのかと思っていたけれど、むしろ逆だった。申し訳ない。これは犯罪にあたらないのだろうか。

 黙っていた方がいい。こちら側から騙せるかもしれない。そのまま装着した。



 家は温かくなくとも、暖かい。誰もいなくても居場所があるだけで、それだけで暖かい。なんてことを考えながら、寝起きの顔を洗った。

 昨晩気がついた。取材用のノートを白萩さんの事務所に置いてきてしまったことに。取りに行くのか。めんどくさい。

 しかし、今のところ、再び訪問する予定はないので、足を運ぶしかない。

 洗濯物に干してあった服をけ、玄関に置きっぱなしのカバンを持ち、家を出る。

 ヒールのブーツを履く。少し背伸びをした気分になる。実際に身長も高くなるし。

 彼があの場所にいるかもわからないのに。どういった動機なのか自分でもわからない。

 彼の事務所は、ビルの一室にある。出入りするのは、私のような記者と桔梗さんと白萩さんのみなので、広々とした感じではない。むしろ、そこが気に入っている、なんて、ただの記者のくせにと言われるだろうか。

 前に独立した理由を訪ねた。やりたいことが自由にできるから、らしい。わかるようなわからないような。今でも十分自由な気がするのだけれど。

 夏の心地よい風に包まれる。ざわざわと木の葉のかすれる音がする。

 夏は暑すぎるがゆえに、外出するだけで達成感がある。それだけで今日の任務を終えたような気持ちになる。着飾らずに言えば、疲れるというわけだ。

 もう2度3度は通ったので、足がある程度覚えた。自覚している以上に依存しているのかもしれないと心配になる。

 足を止めたら、そこには事務所の入ったビルがあった。迷わず足を踏み入れ、エレベーターに乗る。埃の匂いに包まれながら、3回のボタンを押す。この匂いは案外嫌いじゃない。

 3回に到着し、機械音と共にドアが開く。白い壁に擬態するような真っ白のドアがある。そのドアをノックする。しかし、返事がなかった。でも、鍵は空いている。そっと荷物を取るだけだから構わないよね、そう言い聞かせてドアを静かに開ける。忍び忍び足を進ませる。なかなか見つからない。最後に使った小部屋に行く。そのドアを開こうとした瞬間、本能的に手を引っ込めた。部屋の中から人声が聞こえた。

 半透明のフィルターがかかった部屋だ。完全に中を確認することはできなかったが、ぼやけた人影が映った。2人いるようだった。

 ギリギリ話し声が聞こえる。

 そのうち、1人は桔梗さんだと分かった。でも、もう1人は白萩さんじゃない。しかし、聞いたことある声だ。誰だろうか。脳の中を走馬灯のように今まで会った人の顔が次々に映される。

 わかった。葛宮さんだ。

 2人とも知人だとわかると、耳を潜めて盗み聞きを試みた。

 話し声が意外と聞こえる。

「その日は、居酒屋にいたわ。〇〇屋ってとこ。店員さんに聞けば、アリバイが取れると思う。」

 これは、桔梗さんの声だ。想定していたより深刻そうな内容だ。

「じゃあ、お前じゃないんだな。」

 葛宮さんの声も聞こえる。返答はなかった。

「それはどうかしら。」

 桔梗さんはあえて濁しているようだった。なぜだろうか。

「まあそりゃそうか。3分の1が2分の1になったら、あいつが真っ先に疑われるからな。」

 葛宮さんは納得したようだった。しかし、私は納得していない。3分の1って何のことだろう。

「ちなみに、あれはどうした?あの後。」

「捨てたに決まってるじゃない。私の家を探しても何も出てこないから。」

 桔梗さんの硬い声がした。

「それじゃあ。それだけだから。」

 葛宮さんの足音が近づく。本能で影に身を潜める。

「ねえ、本当にこの3人の中にいるの?」

 引き止めるような桔梗さんの声。

「こっちだって信じたくない。でも、事実なんだから仕方ない。」

 お手本のような返しだ。沈黙の後、再び足音が聞こえた。葛宮さんが出て行くのを横目で見守る。こちらには気がついていなさそうだ。

 彼が視界から消えると、その部屋の中に迷わず顔を出した。桔梗さんの失望した面影が目に入る。つい好奇心に負けて入ってしまった。

「いらっしゃったんですね。」

 彼女は咄嗟に笑顔を仮面をつける。

「3分の1ってどうゆうことですか?」

 その仮面に鋭い声で亀裂を入れてしまった。しばらく静寂が場を支配していた。

「前に池月さんが、藤袴さんには何を言ってもいいって言ってたから言うけど、まだ口外しないでください。」

 そこまで信頼されていたとは。嬉しい限りだが、私には少し重すぎる気もする。

 次に話される予定の事実を息を呑んで待った。

「私と池月さんは高校の同級生だったって話したことがありましたよね。」

 大きく頷く。いつになく真剣な表情だったと思う。

「そのときに遊び半分で薬毒を作ってしまったってことも言いましたよね。」

「はい。」

 桔梗さんは声をいっそう潜めて囁いた。周りを警戒しているようだった。

「それが、今回の石竹さん事件の犯行に使用されていたらしいんです。」

 一瞬、言葉を脳が受け付けなくて、固まってしまった。動かなかった。

 次の瞬間に理解を始めた。少しそうなんじゃないかとかすかな疑惑はあった。でも、自分で否定していた。なのに。

 つまりは、桔梗さんか池月さんが犯人だってことになってしまうじゃないか。

「ちょっとまってください。そこまで絞られていてどうして警察は、いや、あなたに聞くようなことじゃないと思いますけど、まだ犯人に辿り着けないんですか?」

 理解した瞬間、反発するかのように口に出した。いつになく必死な眼差しだったと思う。

「それは、」

 彼女の次の言葉を待つ。私に明かすことを躊躇しているようにも感じ取られた。それも仕方ない。私は他人同然なのだから。

「その薬を分け合ったって言いましたよね。私と彼と、後もう一人と。」

 そういえば、そう言っていた。衝撃が続いたせいですっかり忘れていた。

 そのもう一人が犯人じゃないのだろうか。そんな崖っぷちの期待は、次の言葉によって谷の底の底に墜落してしまった。

「それが、葛宮さん。」

 息を呑んだ。唾も飲んだ。

 アニメで伏線が回収された瞬間のような爽快感もあったけれど、あまりの複雑さに反応できなかった。頭を高速回転させる。桔梗さんの次の言葉に追いつくだろうか。

 彼女は、事の深刻さをより一層高めるような薄暗くて細い頼りない声で続けた。

「もし、薬の正体が明らかになってしまったら、自分も三分の一の確率で疑われる。立場からすればかなり致命的。」

 自分の言葉に自ら衝撃を受けているようだった。彼女は目を瞑り、現実から離れようとする。

「それに、アリバイとかもないんじゃないのかな?」

 2、3回頷いた。理解した。そして気づいた。

 絶望的だ。

 本当にこの中にいるの?桔梗さんの数分前の言葉が蘇る。全く同じ言葉が浮かんだ。

 この3人の誰か。選んでも選びきれない。いや選ぶわけじゃないけれど。

 部外者の私でさえ、こんなに落胆し頭を抱えている。

 3人。少なすぎる。一人を信頼すれば、もう一人を疑うことになる。

 桔梗さんは今にも泣き出しそうなほど、皺の寄った顔をしている。いかめしい。

 彼女の立場からすれば、毎日隣で過ごしている白萩さんが犯人だというのは信じ難いこと。しかし、葛宮さんが石竹さんに手を出す動機も今のところない。誰を信じればいいのだろうか。誰を疑えばいいのだろうか。自分自身でさえ疑心暗鬼になっているのだろう。ちなみにこれは彼女が犯人ではないという仮定の話。でも、桔梗さんが老人を殺しかけるなんて、そんなことをするはずがない。いくらなんでもおかしい。

「ごめんなさい。おそらくまだ世に発表されていない証拠なのに勝手に私の独断で伝えてしまって。」

 魂の抜けたような顔でそう言われた。

「一人で抱えるには、抱えきれない気がして。ごめんなさい。」

 頭を下げられ悪い気分になる。

「いやいや、こっちから聞いたことなので、そんな、謝らないでください。」

 両手で彼女の上半身を押し上げる。髪の毛でよく見えなかったけれど、瞳が潤っていた。

 

 彼女はこれから、この瞳を抱えながら生きていくのだろう。

 

 それから帰路についた。事務所を出て右に曲がった。そして駅に向かって灼熱の中を歩いていった。そこまでは覚えている。



 真っ白に包まれた神聖な場所。僕は病院に馳せ参じた。と言っても歩いてきたのだけれど。そんなことはどうでもいい。

 迷わずに受付で藤袴さんの名前を伝え、病室を教えてもらう。そして、エレベーターで彼女の病室がある3回へ。エレベーターののろのろとした動きに腹が立った。一つ一つ丁寧にやらなくていい。

 彼女の病室前についた。躊躇うことなく引き戸を開いた。

「白萩さん?どうしてここに。」

 藤袴さんとそれと知らない女性がいた。年齢的におそらく彼女の母だろう。

「桔梗から連絡があって。」

 電話がかかってきたのは今から30分ほど前のことだろうか。家で休日を謳歌していた僕は呑気に電話に出た。向こうは、随分と必死だった。

『もしもし?』

 相手の緊急性を伝える声に焦る。

『どうした?』

『今、藤袴さんが事務所に来て、ちょっと前に出て行ったんだけど、なんか道端で気を失ったみたいで。昼食を買いに出かけたらちょうどその現場に立ち合って。それで今救急車の中にいる。』

 情報が渋滞していて理解するのに時間を要した。心配だとかいうよりも胸がギュッと張り詰めて苦しかった。また大切な人を一人失ってしまうのではないか。浅く呼吸すれば酸素が足りなくなり深く呼吸すれば胸が詰まった。

『私、この後、用事があって病院までは同行できるんだけど、そこから先は一緒にいられないから来てくれる?』

 これだけ暇しているのに、行かないという選択肢はなかった。

『どこに行けばいい?』

『中央医療センター』

『わかった。』

 その後、超特急で準備を済ませ、バスに乗ってここまでやってきたわけだ。

 バスの中で胸を押さえていたとき、藤袴さんの意識が戻ったと連絡があった。心底安心した。あまり重体じゃないことも知り、気が抜けてしまったのだ。


 彼女は管に繋がれていた。真っ白なベットと布団包まれて横になっている彼女は、それが本当の姿かのように見せる何かを持っていた。彼女の隣で見守る女性に目を向ける。

「こんにちは。」

 一応挨拶をする。相手も会釈してくれた。

「お母さん、白萩さん。会社の同僚。」

 そして彼女はこっちに目を配った。気を遣って同僚だという設定にしてくれたのだろう。ありがたい。こんな時まで。

「わざわざありがとうございます。」

 彼女の母親に頭を下げられる。母親というものに慣れていない。それゆえに対応に困る。他人の母親なんて尚更だ。

「いえいえ。」

 首を横に振った。

 母親の顔は硬かった。そして白かった。あまりにも不自然だった。

 ただの貧血だと聞かされている。他の問題でも何かあるのだろうか。

 藤袴さんと彼女の母親の二人だけの静かな空間の中に入り込んでしまうことに申し訳なく思った。どちらかと言えば人見知りな方だ。自分から声をかけにいくことは少ない。

「大丈夫なんですか?」

 なぜここまで飛んできたのかを忘れかけるところだった。これは、病人に声をかけるには一番容易い方法だろう。

「まだ検査はしていないから、何が原因なのかはわからないです。でも、体調的には問題ないです。わざわざ来ていただいたのに大したことないなんて申し訳ないですね。」

 申し訳ないだなんて、何てことを言わせてしまったのだろう。首を横に振る。

 体調は優れているようだった。それを聞いて心臓の位置が少し下がった気がする。

「検査はこれからされるんですか?」

 彼女は大きく頷いた。

 白色がよく似合う。だなんて場に合わないことを考える。

「多分、もうすぐお医者さんが来てくださると思います。」

 彼女の言葉と同時にガラガラとドアの開く音がした。

 まるで予言したかのようだ。白衣を見にまとった医者の姿が目に入った。深刻そうな彼女を憐れむ目に不安を覚える。

「お待たせしました。」

 医者は彼女を起き上がらせると車椅子に乗せた。馴れ馴れしさから初めましての間柄には見えなかった。彼女のことを熟知しているかのように映った。

 彼女が連れられていくと、静寂に包まれた。彼女の母親と二人だけの空間。気まずい。何を話せばいいのだろうか。第一、俺は彼女の同僚だという設定になっているのだ。藤袴さんの会社なんて行ったこともないし見たこともない。ほぼフリーらしいから、会社名も伝えられていない。

 あたりを見渡す。流石にスマートフォンを出すのは、違うか。

「白萩さんでしたっけ?」

 空気に溶け込んだ柔らかい声に耳を奪われる。

「はい。」

 できる限り丁寧に返事をする。ぶっきらぼうにならないように口角を上げた。

「失礼ですが、娘とはどのような関係なんでしょうか?同僚さんには見えなくて。」

 茶色の瞳を向けられる。瞳の中には光と熱が共存していた。

 嘘をつけない。正直に明かすことにした。

「ごめんなさい。同僚ではありません。一応役者をしています。」

 自分から嘘をついたわけではないのだけれど、謝っておくのが律儀だろう。

「役者さんなんですね。もしかして、あなたが池月さん?」

「いや、違います。」

 嘘はつけないはずだった。なのに、これは咄嗟に口から出てしまった。まるで機械かのように反発的に。

 ばつが悪く顔を背けた。もうこの際、今のが嘘だと悟られてもいい。

「ごめんなさい。娘が随分と熱心に池月さんのことを調べていたもので、てっきりあなたがその池月さんだと勘違いしてしまいました。」

「いえいえ。」

 勘違いじゃない。正しい。でも、自分の発言を撤回しようという気にはならない。自分の嘘を告白するのが怖いというより、池月千芒という人物にふっかけられた偏見とか先入観に恐れている。池月はあまり良い人物ではない。

 噂が本当だというわけではない。ただ噂が事実か否かを知らない人にとっては、少なくとも良い人物だとは言えないだろう。それだけだ。

 また、藤袴さんが、母親が言うほどこの取材に打ち込んでいたことに驚いた。

 会話が途切れた。この瞬間が一番苦手だ。思い切って話し始める。

「あの、こういったことは、今までにもあったんですか?」

 倒れたこと、というと直接的になってしまうと思い遠回しに言ったつもりだ。しかし、伝わっただろうか。

「そうね。」

 彼女は、一度話すのを止めてこちらに目を向けた。まるで検査されているようだった。自分に、今から話される内容を渡す価値があるかどうか見極められているのだろう。

 その検査が終了すると同時に彼女は話し始めた。どうやら合格したようだった。

「こんなこと他人に相当するあなたに話すのはどうかと思うけど、受け流しながら聞いてね。」

 他人相当にされていたようだ。それは申し分ない。

 彼女は言葉には出していないものの、一人で持つには大きすぎるものを抱えてるのだろう。それを僕に半分預ける、つまりそういうことだ。彼女が言う通り受け流してしまうのが適切だと思う。

「あれは、蘭が中学生くらいのときのことでした。」

 そういえばそんな名前だった。苗字で呼ぶから、つい忘れてしまう。

 彼女は遠くを静かに見つめている。まるで、自分の存在が消されたようだ。別に問題ないけど。

「学校で実施された健康診断で引っかかって病院に行きました。大したことないだろうって油断していたのがいけなかったのかもしれない。検査結果は、肝臓ガンのステージ2。手術することはできず、余命は約5年。」

 驚いて顔をあげる。震えた瞳を向ける。白目を大きくさせる。

「突然変異で生まれたもので原因と言える原因は特にありませんでした。たまたま、偶然に。」

 彼女の話には現実味がなかった。何か遠い親戚やテレビのドキュメンタリーで取り上げられるような人の話だと自然と思ってしまう。

「偶然。」

 その言葉をオウムのように繰り返す。

 何であっても捨てて片付けることができるゴミ箱のような言葉だけど、扱いには注意しなければいけない。

「病室から呼び出され、廊下でお医者さんから診断結果を告知されたとき、全身の筋肉が硬直しました。そのせいで呼吸困難に陥った私にかけられた『大丈夫ですか』という声に反応して蘭が病室から出てきました。蘭にはまだ伝えない予定だったのに。私だけでこっそり抱えていくつもりだったのに。気がついたら手が震えていて、蘭は私のその手を握ってくれた。蘭は笑顔を浮かべていました。」

 母親の指先はわずかに震えていた。声も震えていた。自分は何もせずにただ椅子に座っていた。頭の中で彼女の言葉通りに再現しようとしてもなかなか上手くいかなかった。リスニング試験のときのように耳の中を通過していった。半分くらいなら聞いていたと思う。

「あの子の優しさに頼り、私ばかりがくよくよしてしまっていました。蘭に孤独で寂しい思いをさせていることはわかっていました。でも、今まであの子と紡いできた時間が全て無駄になるのだと考えると涙が嫌でも溢れてくる。分かってます。無駄にはならない。でも、なんていうか全部無くなってしまう気がするんです。」

 その気持ちなら半分くらいわかる気がする。僕の両親は、残された人の記憶の中でしか生きられない。僕が全て忘れてしまえば、彼らの存在はなかったことになる。彼らの存在は吹き飛ばされ打ち消される。

 しかし、分かち合えない部分もある。向こうは心の準備を嫌でもしなければいけない。それは良くも悪くも捉えられる。こちらは、生活という当たり前の一部分に突然、トンカチで殴られ亀裂が入った。そして戻る方法を忘れたかのように何も変わらない。

 どちらが良いのかはわからない。

 どちらが悪いのかはわからない。

「蘭が一人で悩み考える時間を奪ってしまった。私のケアをするばかりで、蘭の、自分に目を向ける時間がなくなってしまった。」

 自分の置かれた状態から目を背くことができるというのは、ある意味、最高の時間だ。胸の中に貼り付けられたけむくじゃらの塊を一瞬だけでも取り出すことができたらって何度も考えていたから。

 でも、それを最高と呼ぶのか最悪と呼ぶのかは人によって異なる。

「それから、娘とどうゆう風な距離感でどのように接すればいいのかわからなくなってしまった。以前のように何気ない会話をするのにも気を遣ってしまう。いつも通りを蘭は望んでいたはずなのに。戻れるなら今すぐ戻りたい。後悔だらけです。」

 まだ生きているだけいいじゃないか。生きているのに、目を見て話すことができるのに、どうやって接すればいいのか悩む。そんなの、それが一番無駄な時間じゃないか。心の中でそう叱咤する。

 きっと自分にはまだ理解できないようなことがあるのだと自らを落ち着かせる。

 後悔するがいい。絶対口には出さないけど、そんな心のないことを思う。大丈夫。口に出なければ誰にもバレない。

「気を遣う私に、さらに蘭は気を遣ってくれた。それから、自分の作った食事に色を感じられなくなり、蘭の言葉に冷たさを感じるようになってしまいました。」

 それはある種の鬱ではないのだろうか。

 可哀想な人だ。自分から距離を置くよう突き放して感情移入しないようにする。

 それに、親子の絆的な話をされてイラつかないわけがないのだけれど、穏やかな笑みをぎりぎり保っている。そこは褒めて欲しい。

「しばらくすると、蘭は、私が裸足で寝ていても毛布をかけてくれなくなりました。」

 それは比喩表現なのか実際の出来事なのかわからないが、とりあえず、距離を置くようになったのだろう。

「会話を交わすどころか、お互いを見かける機会も少なくなり必要最低限の会話しかしませんでした。夫は元々仕事第一の人間だったので、家族3人揃って監獄されているかのように静かに過ごしていました。」

 その夫がもう少し献身的な人だったらもっと良かったのだろう。バランスが取れていない。惜しい。

「まるで例かのようにわかりやすく廃れていく自分たちに幻滅していました。それでも、きっかけを求めてしまい自分から何かを変えようとはしなかった。」

 教科書のような言葉に胸を打たれる。まるで自分に振りかけられた言葉かのように感じる。

 彼女の瞳の先を見つめる。その先に何があるのだろうか。

「私はきっと母親としては最低ランクです。」

 否定しなかった。否定できなかった。彼女の人柄は悪いとかではない。事実、こんなに笑みの溢れる人は見たことがない。でも、藤袴さんの気持ちを考えると、もう少しやってあげられたことがあるんじゃないかと思ってしまう。自分が母親だったとしても同じ行動をしていたかもしれないけれど。

「多分それが結果的に悪いきっかけになってしまった。」

 彼女はそう呟くと、一度口を閉じた。その意図的に空けられた間に心地よさを感じる。時間が遅く流れているように感じた。時空が歪んだように感じる不思議な空間だった。

 その先の内容を聞くには、さらに難関な試験が必要なようだった。おそらく自分がそれに見合う人間なのか見極められている。別に特別興味があるわけではないが、ここまでためられたらその先が気になってしまうのも、不自然じゃないはずだ。

 それから幾分かして彼女は静かに頷いた。どうやらまたもや合格したようだった。多分、人間関係が浅そうだから噂が広められることはない、と判断したのだろう。それが良いことなのかどうかはわからない。

「蘭は、ある日、自殺を図りました。」

 え?という驚きの声よりも先に心臓が少し前に飛び出た。深呼吸をして元に戻す。

 信じられなさすぎて口が緩む。そんなわけないと心の中で叫び笑った。え、え?と何度も何度も目を周りに向ける。嘲り笑いながら。

 余計に自分自身を興奮させて惑わそうとしているのが、わかる。

 多分、周りからすれば、今のこの何秒かの時間は、沈黙という返事によってに誤魔化されているだろう。この動揺が波に乗って自動的に彼女の元まで届くことはないだろう。

 むしろ冷静になっていた。厳密に言えば、冷静になったのではなく、状況を理解していないがゆえに、冷静に見えるだけだ。

 本当に空洞になってしまったかのように頭が空っぽだ。何も結びつかない。ザクザクに区切られた彼女の言葉だけが脳の中に浮かんでいる。でも、それを結びつけようとはしない。その抵抗する力がどこから来るものなのか、自分でもわからない。

「ちょうどこれくらいの暑い時期に。突然、近所の割と大型な病院から電話がかかってきました。パート中だったけれど、内容が気になり電話に出ました。そうしたら、着信受諾のボタンを押した瞬間、目まぐるしいほどに大量の情報が押し寄せた。一つ一つ掬って理解するのが本当に大変だった。電話音の後ろには、救急車のサイレンも聞こえていて、向こうの声も焦っていたので、聴こえているのに聞こえていなかった。」

 まるで、現在の自分の状況を説明されているようだった。まさに今その状態に陥っている。彼女にはそれが伝わっていないはずだけど。

「とりあえず、病院に行けばいいですね、とそう聞いてそれから病院に駆け込みました。本当にできる限りの速さで走りました。どの道を通っただとか誰が歩いていたとか何が道にあったとか、本当に何も覚えていない。目の前に繰り出される写真のような情景は見えているようで見えなかった。その代わりに心の中で暴れる不安がずっと一歩先を駆けていました。」

 現実を見なければと思えば思うほど見えなくなる。考えれば考えるほど、自分の考えるに気が散って、集中することができない。

 先程からまるで自分の心中を描写されているかのように共感できる部分が多く、驚愕している。この驚きもきっと伝わっていない。

「電車で移動している間に頭を回転させ、記憶に残る限りの耳から入った単語を集めた。蘭。交通事故。意識不明。重体。」

 絶望しかない。どすんどすんとおもりを付け足されているようだ。

「それだけで十分でした。私の不安をさらに駆り立てるには。」

 彼女は頭に手を当てていた。病室にある窓の方に体を向けているため顔はよく見えない。窓の方に向く彼女と椅子に座る僕の間をベットが挟んでいるというような構図だ。気がついたらこうなっていた。彼女がいつ立ち上がったのか覚えていない。

「どれだけ不幸なのかと自分を恨みました。不幸なのは私なのか蘭なのかわからないけれど、もし原因は私だと結論付けてしまったら、また周りに迷惑をかけてしまうことになるから、考えるのはやめました。きっとどちらも不幸なんでしょうけど。」

 聞いてられなかった。どっちが不幸だかなんて。

 この人は本当に僕を紙のような薄っぺらい存在だと認識しているのだろう。あってもなくても変わらないような。そう感じた。

 自ら望んで、こうやって彼女の話に耳を傾けているのだけれど、こっちにだって感じることがある。簡単な言葉で傷つかないわけじゃない。自分勝手なのかもしれないけれど、デリカシーがないと感じてしまう。もちろんそんなこと口に出さない。めんどくさいから。

「病院についてお医者さんの話を聞きました。細かい病名や症状を伝えられたけれど、何一つとして覚えていない。後でメモくださいってそう言いました。」

「蘭は、まだ眠っていました。幸いなことに、状態は回復しているようでした。ただ後遺症が残るとそう言われた。覚悟を決めて静かにその後遺症が何なのか訊ねました。お医者さんは、言い難そうに記憶障害だ、と。」

 記憶障害。自分はその時、その4文字の重さに気がついていなかった。わかっているようで何も理解していなかったのだと後でわかった。

「命が救われたことに歓喜するべきだったと思います。でも、それでも、私が蘭にかけてきた言葉、蘭のための行動、何よりも蘭とのかけがえのない時間が、全部。全部、ゼロになるんだと思うとやりきれなかった。」

 彼女は毒を吐き捨てるように喋った。それをどれくらい自分は受け止めることができただろうか。

「私が全部、私の記憶に収めておけば、無駄になることはないです。でも、それがとても不安で、自分が忘れてしまったら、いなくなってしまったら、何にも残らない。」

 彼女の言うことは正しい。納得できる。でも、不完全だ。良いとこばかりを取ってきたようにも見受けられる。良いとこというより自分を可哀想に見せるために都合が良いところ。

「じゃあ、簡単な話、何かに残せばいいじゃないですか?誰かに伝えれば」

 そこまで言って気がつく。これは今、自分に遺されているのでは。

「そうです。だから今こうしてあなたに話しているんです。」

 彼女は振り返った。そんな優しい視線で見つめられても何もできない。

 もし、本当に誰かに言葉で遺す気なら、伝える人を間違えた。間違いなく適任者は自分ではない。

「私の葛藤があったことを忘れないでほしい。私の懊悩を何かに生かしてください。」

 それならできるかもしれない。できる限りは尽くすつもりでいた。自分が許す限りは。

「でも、これだけじゃないですよ。伝えきれないくらい甘い思い出も苦い思い出もあります。それは写真に遺っているからいいのか。」

 彼女の表情は明らかに緩んでいた。緊張から解き放されたようだった。自分の打ち明けられなかった気持ちを誰かに告白できたことで、彼女のこれからの人生が彩るならそれだけでも自分がここにいる価値はあるのだろう。

「それに、いざ誰かに伝えるとなったら、しょうもない日常にありふれた話ばかり。でも、この関係であの場所であんな時だったから、だからこそ、大切になる時間もあるんだと思います。」

 夕陽が窓から溢れていた。彼女のシルエットが浮かび上がる。そのシルエットは黄色で縁取られている。

 なんだかこの人とは考えることが同じだ。

「それから、蘭がしばらくして目を覚ました。お医者さんの言った通り、何もかも忘れていた。基本的な名前、住所、家族、クラスメイトなんかはかろうじて覚えているみたいだった。でも、エピソードとか一度しか経験していないような思い出の記憶は、全部なかった。綺麗に何もかも忘れていた。自分がなぜ入院しているのかも忘れていた。自分が病気だってことも多分忘れていた。今は薬もちゃんと飲んでいるみたいだけど。それに、周りとの接し方とか距離感とかも忘れてしまったみたいだった。それから、蘭と話すとまるで別の人と話しているかのように感じるようになった。」

 絶望感が身体中を襲った。震えが止まらない。何もかも忘れたって。そんなの酷い。

「お医者さんは、言っていました。ここまで重症だとは思わなかったって。それと、これはもしかしたらだけど、忘れたふりをしている可能性もあると。」

 忘れたふり?どうゆう意味だろうか。

 母親は苦しそうにため息をつきながら言った。

「病気のことを自分の行く先を受け入れられなくて、全部忘れたふりをしているのかもしれない。もしくは、違う人間として生きようとしているのかもしれない。考えたくないことを忘れることができるように。」

 何ていうか、どきりとした。学生時代の発言の順番が近づいているのにまだ答えを見つけられないときのような感覚だった。それ以上のことはわからない。でも、陳腐な言葉とは違う受け取り方をした、気がする。言葉の密度が違った、気がする。

「信じられないような話でした。でも、もしかしたらそうなのかもしれないと思いました。だって、明らかに違う人だったから。それからの純粋で鏡のような蘭の瞳を見つめるために、二枚重ねになっていないか後ろにもう一枚隠れていないか疑ってしまう。」

 自分はもはや銅像かのように硬直していた。不思議すぎる感覚だ。 

「もう昔のあの子はいない。」

「私は気の利いた言葉も掛けられないし、同情してあげることも難しい。それなら、あの子の思い通りな世界をちょっとでもいいから体験させてあげたいって思っています。」

 徐々に目の前がぼやけていく。深呼吸をして、眼鏡をかけたかのように視界を戻した。


 それからちょっとして藤袴さんが戻ってきた。母親が、全て明かしたことを伝えると、彼女は意外にもそっけない態度を取り、

「あっそう」

 とだけ言った。

 ベッドに横になった彼女は、僕ら二人を交互に見てから言った。

「順調に悪化しているって。」

 彼女は目を細めてから、静かに笑った。何かを諦めたかのように聞こえる。

 母親は寄り目気味でどこかを見ている。きっと見ているのは、藤袴さんの未来だと思う。可哀想だ。

 大変息苦しい空気だった。何て対応したらいいのかわからない。とりあえず、模範的なことを彼女に言う。

「こんなことがあったなんて、知りませんでした。」

 別に嘘をついているわけじゃないから問題ないだろう。他人事には聞こえないように、そして、あまり彼女の域に入り込まないように。静かに言った。

「だって伝えてないですから。」

 藤袴さんは藤袴さんじゃなかった。元々笑顔が張り付いている、というわけでもなかったのだけれど、真の姿の行き過ぎた部分を見ているようだ。つまり真の姿ではない。真っ黒にギラギラ輝く積乱雲のような険悪さがあった。その怒りはきっと誰でもなく、彼女自身に降り注がれているのだろう。

「私も一つ秘密を打ち明けました。だから、あなたも教えてください。」

 距離は変わっていないけれど、迫られているように感じた。顔がこわばる。

 それに打ち明けた、のではなく、正しくは打ち明けられた、だろう。何でこちらだけ自らカミングアウトしなければならないのだろう。

「本当の本当は、何をしたんですか?どこまでが偶然でどこからが犯罪ですか?」

 雷が轟いた。稲妻は見えない。でも、音が耳に突っ走った。晴れているのに。

 真実を伝えるべきなのだろうか。こんな、真正面から睨まれたら、小動物のように縮こまってしまう。

「ちょっと、犯罪ってどうゆうこと?」

 母親は藤袴さんに訊ねた。彼女は、一度こちらに視線を向けてから、再び口を開いた。

「池月千芒って知らない?最近よくテレビで見るじゃない?」

 母親は知っている。だって、さっき自分からその名前を出していた。

 決まり悪く、俯いた。

 想定通りに母親は頷いた。

「それ、その池月っていうのが白萩さん。同僚じゃない。さっきは嘘ついた、ごめん。」

 藤袴さんは頭を軽く下げた。母親の視線がこちらに向けられているのを感じ取る。

 もういい。どうせいつかはバレることだ。思い切って顔を上げた。

「ごめんなさい。彼女の言う通りです。」

 頭を下げるふりをして、目を合わせないようにする。母親に気迫があるとかではないのだけれど、なんとなく人が怒ると怖い。強く怒られるのが怖いわけじゃない。誰かに嫌な思いをさせ、それを知ったときの反応を見せつけられるのが怖い。

「別にいいのよ。でも、やっぱり隠そうとしたのは、蘭が言うように都合が悪いことがあったから?」

 何と答えるのが正解なのだろうか。二人分の視線は矢のごとく降りかかる。目を泳がす。過度に沈黙しすぎると余計に疑われる。

「何もないです。何もしてないです。少なくとも自分は。でも、そのニュースでやっているように悪い噂が出回ってるから、勘違いされて距離を置かれると思ったんです。それだけですから。」

 肩を内側に寄らせて小さく見せる。自然と上目遣いになる。

 顔を上げると、いつもの藤袴さんがいた。安心感に体がほぐれる。筋肉の力が抜ける。

「ちょっとお母さんいい?」

 彼女の視線で察したのだろう。母親は病室を出て行った。撫でるような温かい声に懐かしさを覚える。

「実は、たまたま聞いてしまったんです。桔梗さんと葛宮さんの会話を。白萩さんがどこまで把握していらっしゃるわからないんですが、葛宮さんの話によるとあなたと桔梗さんと葛宮さん、のこの3人の中に犯人がいるということですよね。」

 間違っていない。頷きながら言う。

「信じがたい内容だけど、そうらしいです。」

 3人の誰一人として動機と呼べるようなものはなく、また、誰かかを証明する証拠もない。

「もし、白萩さんじゃないのなら、2人のうちのどちらか、ということになりますよね。」

「この2人だったら、どちらが犯人だと思われますか?」

 目が合う。もう逃れられない。何て答えれば正解なのだろう。

「これは、藤袴さんという記者からの質問ですか?」

「はい。個人的にも気になりますが。」

 彼女は間一髪いれずに答えた。それだけ答えを欲しがっているのだろう。

「葛宮としか言えないです。マネージャーを疑うなんてできないので。」

 自分にはこれしか答えがないから仕方ないというかのような回答だ。何の参考にもならないだろう。彼女も想定通りだったと思う。

「そうですよね。すいません変な質問を。」

 首を横に振った。

 彼女に向き直り、姿勢を正してから言う。

「わざと、惹きつけるために曖昧な返事をしましたけど、本当は、やってないです。」

 念を押した。眉毛を垂れ流した冷たい視線を送り彼女の視線を仕留めた。まるで洗脳させるかのように念を送った。自分の意思を伝えるための。

「私には何を言ってもいいんですよ。意味なく口外はしないので。もうすぐ死ぬんですし。」

 彼女の瞳孔は、薄暗く輝いていた。真っ黒のラメが入っているようだった。

 その話を出されると、首を動かすこともできない。ただ眩しさに目をかすめるような憐れみの目しか向けることしかできない。

「そうですね。」

 相槌のつもりだった。この言葉に意味は何一つとして込められていない。

「いつ死ぬんですか?」

「え?そんなのわからないですけど。」

 まあそりゃそうか。馬鹿な質問だ。

「葬儀場にはあなたがいて欲しかった。火葬前の最後の姿を見届けて欲しい。」

 最大限の明るさの灯火を瞳に宿し、それを向ける。出来るだけ純粋に作るように努力した。どこまで伝わってくれるだろうか。

「ちょっと、そんな縁起でもないこと言わないでください。」

 彼女はいわゆる苦笑いというものをしていた。意味がわからないというかのような表情だ。

 それでいい。きっと真意は伝わっていない。それでいい。

 

「ここで速報です。」

 何となくつけられていたニュースから凛とした声が聞こえた。

 二人は自然とテレビに視線が映る。ちなみに母親は買い物に行った。

 テレビの画面が切り替わるのを待つ。

「俳優の石竹満さんが、毒物は誤飲してしまったと明かしました。」

 藤袴さんのか細い視線を感じる。その視線は喜びで溢れていたと思う。一緒に、疑いの晴れた喜びを分かち合えばよかった。

 自分を眉をひそめてままニュースを睨みつけていた。彼女は不自然そうに見守っている。

「よかったですね。」

 何も返さなかった。返せなかった。

「何か気に触ることでもあるんですか?」

 憂慮されているのを感じる。

「いや、そんな誤飲するほどボケた人じゃないはずだと思って。」

 これは真実じゃない。

 彼女の怪訝そうな横顔が視界に入る。


 もうすっかり日も落ちた。夏の微妙な薄暗闇は好きじゃない。どうせなら冬のように真っ暗がいい。

 彼女の病室を後にして、外に出る。病院の自動ドアが開き、キラキラ光る道路に足を踏み出したとき、雨が降っていることに気がついた。

 誰もいない画用紙の中のような暗闇を1人歩く。傘を持ってきているわけがない。絶望感に浸すような雨が心地よかった。落とすなら底まで堕として欲しい。また堕とされることがないように。

 交差点に立ち並ぶ赤色の光を放つ信号。列を作るかのように遠くまで連なっている。

 その光は水溜りに反射している。海に映し出されに太陽のような風情があった。水溜りができるほど降るなんて珍しい。

 遠くから見えるイルミネーションのようにぼんやりと取り巻く赤色の光。それらを睨みながら、その中を躊躇なく突き進む。

 突然、一筋の白色の雷線のような光が目を刺した。その眩しさに、思わず手で顔を覆う。その次に麻痺した目に車が映った。

 その車は、へ進んだ。目で見えなくなるまで追跡した。雨が目に入り込む。瞬きもせずにただただ見つめていた。

 僕はその反対を進む。跳ね掛けられた水滴を振り払いながら。

 取り返しのつかない、結果が結びついた過程に諦めを覚える。どう足掻いても、もう何も変わらないらしい。今から車と同じ方向に進んでも、もう何も変わらないらしい。

 なんて残酷なんだ。いや、こんな残酷な状況を作り出したのは自分なんだから、誰も悪くない。

 目から飛び出る涙は、水溜りに集い、消えていく。井の中の蛙だった雫は世界を知った。大丈夫。雨の中だから、誰も気づかない。こんな情けない涙なんかに。


 あえて明記する。藤袴さんは候補だった。最も有力な。

 最初の取材のとき、何かを感じた。顔が似ている。単純にそう思っただけなのかもしれない。しかし、何かがピッタリとはまった。効果音で表すなら、ピタッというような気持ちの良い音だった。

 あえて言葉にするなら、長年探し続けてきた人に会えたと思ったら、その人は記憶を失っていて探し続けてきた人がその人なのか別の人なのかわからない。もしその人だったとしても、相手は自分を覚えていないってとこだろうか。

 なんて残酷なんだろう。流石に酷すぎる。

 両親が見えなくなったとき、何か大きいものを飛び越えた気がした。それは、精神的な何かとかではない。人の人生に一人一つ通らなければいけない壁があるのだとしたら、それがあの壁だったんだと思う。

 だから、もうあとは、幸せが待っているだけだと勘違いしていた。

 なのになぜこうなんだろう。なんでこうなんだろう。何もかもが思い通りにいかない。人はこうやって死ぬんだと思い詰めた感覚を体感する。陰惨とした気分だ。

 原因が知りたい。誰かからの罰なのか。それとも何かの抽選に外れただけなのか。もしくは、全て自分が招いた結果なのか。きっとこの中のどの理由を提示されても納得しないのだろうけど。

 自分が悪いのならそれが一番納得できるかもしれない。もしそうなら受け入れるしかないのか。

 その夜は眠れなかった。今までの努力が全て水の泡となり下水道に流されていくのだと考えるとやりきれない。

 彼女は悪くない。病気にかかったのは彼女自身のせいじゃない。でも、自殺しようとして記憶を失ったのは責められてもおかしくないことだと思った。選択肢があったはずだ。なのに、彼女は間違った方を選んだ。

 


 私は病室という暖かい空間の中で母と二人、外を眺めていた。

「お母さん。」

 そう言うと、母はこちらを向いた。

「白萩さんには伝えてなかったけど、もういつ死んでもおかしくないみたい。」

 そう言いながら、あまりの絶望感に笑うことしかできなかった。笑顔を作ることで、事の重大さを弱めることしかできない。

「長くてもあと半年。きっと最後の3ヶ月は病院で過ごすことになると思う。」

 ちょっと昔は、母を憂鬱な気持ちに陥らせないか随分を気を使った。今はもう、諦めがついたようで悲しい表情ひとつで終わる。

「だからね、もう別れの挨拶をしとこうかと思って。」

 そう言いながら自分の瞳が潤っていることに気がついた。

「やめてよ。そんな、お別れなんて。」

 私だって別れなんて口に出したくない。でも、これは受け止めなくてはいけない事実なのだ。拒んでも拒んでも、ひょろりと何食わぬ顔で出てくる事実なのだ。

「一応形だけだからね。」

 そう言って笑みを浮かべた。

「生まれてからここまで、ずっと見守っていてくれてありがとうございました。」

 そう言って頭を下げる。母はもちろん涙に呑まれている。

「確かに、私が死んだら、死体以外には何も残らないかもしれない。」

 額を冷たい手のひらで冷やしてから言う。

「でも、私は一瞬一瞬を楽しんで生きてきた。この瞬間の分の楽しさは、後で振り返ったときに味わうのではなく、その瞬間に身に染み込ませて味わってきた。振り返りは、私にはもう必要ない。」

 10年後に振り返って楽しむはずの思い出は、もう十分に楽しさを噛み締めてきた。だから、今更、後悔することはない。

「そうよね。これくらいの壁を一人で乗り越えられるくらいに成長したのだものね。」

 母は大きく頷いた。娘の成長に感動しているようだった。

「生まれてきたのが、あなたで良かったと思うわ。」

 そんなありがちな言葉が何よりも身に染み込んだ。嬉しかった。

「あなたがいなくなったら寂しくなるだろうけど、もうあとは自分のために余生を満喫する。」

 それが一番嬉しかった。先に逝った人が残された人々に、最も望んでいることは彼らの幸せだろう。

「応援してるから。サボっちゃだめだよ。」

 笑い泣きをする私の頭を母は静かに撫でた。この人を助けてばかりだと思っていたけれど、肝心なところでは助けられてきたのかもしれない。

 命を宿してから、ここまで、よく生きてきたと思う。きっと自分は強運だった。

「よく生きててくれた。」

 夜景に照らされながら、抱き合う私たち。

 この瞬間も存在することのありがたみを噛み締めた。


 本当に私に誇れるような才能がなくて良かったと思う。もしあったら、きっと手放さなければいけないという悲痛さに、病気よりも早く自分自身を手放していたと思う。

 お母さんが帰った。誰もいない病室で窓の外の大きな世界を眺めていた。

 一つ拭ったらまた一つ。洗浄機のように定期的に溢れ出てくる涙に手が忙しい。

自分で選んだ行動のくせに、何で後悔しているかのような涙を流しているのだろう。

 発作が起きているかのように、しゃっくりが出ているかのように、苦しくなる。こんな無様な醜い姿は誰にも見せたくない。顔を髪の毛で覆い隠す。誰もいないことを良いことに声をあげて泣く。一人で想いを溜め込んで、それを人知れず一人で発散して。誰にも見られないのなら無駄なのかもしれない。誰かに同情してほしい。私の涙を肯定化してほしい。

 日に炙られているように熱くなった額と、キンキンとかき氷を食べたときのように悲鳴をあげる頭を、冷やす。手を額に押し付けるけれど、時間が経つにつれて額の熱が手に移っていく。サウナに入ってるかのように全身がぽかぽかと温まる。

 脇腹から鳥肌が立った。暖かくなったのも束の間、末端部から冷たい空気が入り込み身震いする。

 

 白萩さんの顔が忘れられない。私が病室に戻ったときの、希望のない顔が。色を塗るならきっと深緑色か鮮やかすぎて不自然な青色だろう。

 彼なりの気遣いなのが、失望させてしまったのかわからない。しかし、彼が世界の終わりのような顔をしてしまったら、私はどんな顔をすればいいのだろうか。笑っていればいいのだろうか。泣いていればいいのだろうか。彼の表情は結果的に私を傷つけた。傷つけるつもりはなかったかもしれないが、傷つけた。私からすれば、その傷つけたという事実だけが彼の印象に影響する。真意がどうだろうが関係ない。

 でも、責め立てることができないのは、やはり彼を特別な目で見ているからなのだろうか。しかし、その気持ちは認めたくなかった。白萩さんは正しい人間ではないと感じたから。自分が惹かれるに値しない人間だ。でも、彼はんでいるだけでではない。縦で成立しても横で成立するのは限らないものだ。


 感情なんて全部自分で制御できると思っていた。楽しい、嬉しい、悲しい。全部自分の中の選択だ。どう反応するかの選択だ。それなら、楽しい、を選択すればいいのに、なぜ私は泣いているのだろうか。真逆だ。

 自分の思い通りにはいかないことを知った。自分以外の何かの力が働いている。私の自己制御はそれに敵わない。


 藤袴さんは気楽そうでいいですね。よく言われる。

 そりゃ全て失うことを決まっているのだから、気楽になる。気楽になると言うより、全てを投げ出したいくらいにどうでも良くなる。何を頑張っても全て水の泡と化すことを知っている。そんな結末をネタバレされた人生の何が楽しいと言うんだ。視聴率は一以下だろう。きっと。

 でも、時間は止まる事なく動いている。その事実だけは私を見放さなかった。いやでも時間は動く。刻一刻と時間は動く。何もせず、価値のない日でも、時間は動く。

 生きている。私は生きている。

 時計を見るたびにそのありがたみと生き甲斐を感じていた。

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