第二章
朝起きると、何やら世間が騒がしかった。ネットニュースの一番上の文字に、私は飛び起きる。昨日聞いたばかりの名前。
『俳優・
その記事を隅々まで読む。
殺人未遂。その言葉を凝視する。どうやら警察は殺人未遂だと見ているらしい。
今のところ犯人は見つかっていない。証拠がないことから、かなり計画的な犯行だったらしい。
Twitterを開く。トレンドは案の定、この話題で埋め尽くされていた。
『頑張って生きてください。』
そんな応援メッセージもある中、犯人の考察が進められていた。
トレンド欄に見つけた4文字に胸が痛む。
『池月千芒』
ニュースを見たときから、予想はしていた。もしかしたら。でも、そのもしかしたらが現実になってしまった。
『ついにやった。』
『流石にやりすぎw』
『これ、結構やばくない?』
次々と流れていくコメントに胸が埋め尽くされる。弓矢の攻撃を受ける弁慶のようだ。守っても守っても結局、彼は傷つけられる。
不幸にも、やはり、池月さんが出演した最新の映画の主演を務めていたのは、石竹さんだった。
偶然は3度まで。自分が言い放った言葉を疑う。3度続くという偶然を一つの偶然だと考えれば、結果的に9回起きたとしても、3つの偶然だ。だから、これも偶然のうちなのだろう。そう、自分に言い聞かせた。人間は、何かしたら理論がないと自分自身を落ち着かせることができないのだろうと感じる。
それに、もう一人の親だと言っていた。そのような存在を傷つけるわけがない。何かの間違えだ。
気がついたら、私は池月さんに電話をかけていた。
「もしもし。大丈夫ですか?」
主語も何もない伝わらないはずの言葉だったけど、この状況が言葉を付け足した。
「ニュースのことですか?」
焦燥とした声が耳の奥まで響く。
「正直、頭の理解が追いつきません。なんであんなことになったのか。」
私にも理解できない。テレビで、どのタレントのコメントにも丁寧に頷いている姿が印象的だった。カメラに抜かれるといつもニコニコしているから、その場の雰囲気が明るくなるのだろう。彼が信頼をおく理由がわかる気がする。
「でも、まだニュースを見る限り生きています。」
私にはそんな誰にでも言えるようなことしか言えない。
「そうですね。」
このまま電話を切ることもできたけど、もう一つ確かめたいことがあった。
「その、今、Twitterで、」
頭が混乱して上手く言葉が出てこない。
「それも見ました。」
落ち着いた声だった。
「言いたいやつには言わせておけばいいんですよ。あんなの気にしていたら、とっくに死んでます。」
アンチに対しては強気だ。
「よかったです。これに対しては落ち込んでなさそうで。」
安堵感でいっぱいだ。
冷や汗をかきまくった背中も、保冷剤で冷やされているかのように静まる。
「そこまで、繊細じゃないから、心配しなくて大丈夫です。」
言い切られると安心できる。
「でも、何かあったら相談してください。話くらいは聞けますから。」
気がついたら、そんな調子のこいたことを言っていた。だいぶ上から目線だ。
「わかりました。」
朝から、忙しい日だった。おかげで遅刻しそうだ。朝ごはんを詰め込むように食べて、超特急で家を出る。
彼の言うように耳を塞げばいいのかもしれない。感情に結びつけなければいいのかもしれない。ざわつく街中でそんなことを考える。おかげで、赤信号に引っかかってしまった。
僕はいつも通りの冷静を顔に塗って街中を歩く。
石竹満。あの人は生命力が異常だ。きっと何食わぬ顔をして戻ってくるだろうと予想していた。一喜一憂していたら疲れるだけだ。
これは冷徹なわけではなく、自分を成り立たせるためだなんて、誰に説明しても理解してもらえないだろう。別にそれで問題ないのだけれど。
批判されることなんて日常茶飯事だ。もう慣れ切っている。
その中で弁護してくれるのが、本当のファンなのだろうけど、そんな存在に出会ったことがない。今までのうちで。
街中を歩く大衆は、隣に僕がいることに気がついていないのだろう。隣に批判されまくっている容疑者がいることに。隣にいることも知らないで、非難する。隣で傷ついていることも知らずに。残酷だ。
これは被害者であるから言えること。もし、自分がその他大勢であったら、きっと僕も同じように批判している。何か共通の標的があることで人々は団結する。その不必要ながら便利な性質に逆らうことはできないのだろう。例えば、テレビ番組の結果が思い通りにいかなかったとき、罪もない努力した人を批判する。自分の思い通りにならないから、批判する。そして、同じようなことを発信している人を見ると安心し、強く同意して勢いは倍になる。やがて、極悪人を相手にしているかのように堂々と誹謗中傷をする。その連鎖は止められない。自分もその連鎖の一部になったことがあるかもしれない。
誹謗中傷は良くない。やめるべきだ。かつてその中心にいたとしても、堂々と万人受けするような正論を語れるのだから、被害者も悪くない。そう思った。
ポケットに入っているスマホが震える。機械のように自然な動きで手に取った。ロック画面に表示された通知に目を向ける。
『今度、話がしたい。』
葛宮からだ。そのメッセージを睨みつける。大体その話の内容が推測できた。
『断る。』
そう返した。
それから、何度も着信があったが、全て無視をした。こっちだって暇じゃないんだ。
投げ捨てるようにバックの中にスマホを放り込む。どいつもこいつも余計なお世話だ。人に同情して慰めて、そんなことをする自分に惚れるのだろう。自己肯定感を高めるために利用するだけだ。
こいつに関しては違うかもしれないけれど。対蹠的な立場に立とうとしているのかもしれない。
「おはようございます。」
マネージャーの暗めの声に驚いて目を向ける。いつもと違う。
共に仕事場に向かう間も不穏な空気が漂っていた。それは僕を完全に黙らせた。
「何かありましたか?」
沈黙から解放されて、問いかける。
「いえ、何も。」
この主従関係を理解し切ったような対応ぶりだ。こちらは別に従わせているつもりはないけれど、かなり従順だ。この関係に息苦しさを感じないからこのままでいい。
その日の夜。
マネージャーとも別れ、一人夜道を歩いていた。暗闇の中を進み続ける。
自分の足跡が何重にも重なって聞こえた。街灯に照らされた影も明らかに一人で作れるものではない。
次の角で振り向こう。それまでの道を大股に歩く。1秒でも早く確認したかった。
踵が地面に叩きつけられる音が響いていた。
角を曲がる瞬間、横目で後ろを確認する。その瞬間、カシャッとシャッター音がした。反射的に顔を隠す。眩しさに顔を顰める。
恐る恐る顔を上げると、人影は視界から消えていた。卑怯なやつ。
流石に、声を荒げて呼び出す勇気はなかったため、そのまま歩き続けた。しかし、自分の背中はだいぶ縮まっていたと思う。
野生動物なら真っ先に狙われるだろう。
しばらくは足音が一重で規則正しかった。しかし、少しすると、再び足音が重なった。誰かにつけられていることは、ほぼ確実だ。それに、シャッター音がしたことを考慮すると、相手は記者かなんかだろう。記者と言えばで、藤袴さんの顔が浮かんだけれど、このような卑怯なやり方はしないだろう。彼女に尾行するような勇気があるとは思えない。もしあったとしても、いくらでも写真を撮る機会はあった。盗撮でも。それにも関わらず、このような不法な方法で盗撮をするのであれば、どこか頭のネジが抜けているのだろう。
コンコン。靴が地面に叩きつけられる音で心を沈ませる。あと3回音がしたら、勇気を出して振り向こう。
コンコンコン。約束の3回が過ぎたけれど、4回目で振り向いた。瞬時に物音と共にそいつは消えた。度胸がないやつだ。
相手が度胸がないやつなら、こっちの方が強い。強気な態度でいく。
「ストーカーで訴えます。警察呼びますから。」
そう言って、スマホを取り出す。わかりやすく緊急のボタンを押した。
「ちょ、ちょっと待ってください。すいません。」
物影から登場した黒づくめの男に目が行く。黒づくめと言っても、こちらも似たような格好をしているので、どちらが怪しいかと問われれば、どちらもだ。
焦燥とした態度が頭に来る。そわそわと目線を揺らしていた。ハンマーを投げ下ろしたくなる。もちろんそんなことはしない。
「そんなこと言ったって。事実は事実ですから。電話しますよ。」
反応がなかった。返事がないと逆に心配になる。彼は、猛獣に襲われる寸前かのような顔をしていた。
ちょうどいい。これは使える。
「わかった。電話はやめにしてやる。でも、その代わりに条件がある。」
ニヤリと頬を吊り上げた。
『石竹満 意識取り戻す』
そんなニュースの見出しに胸を撫で下ろす。本当によかった。即座に池月さん、いや、白萩さんに連絡する。
『本当によかった。生きていてくれて。』
そう返ってきた。可愛いスタンプもついてきた。こんなのも使うんだ。意外だった。
『ところで、今度どこか行きませんか?』
いきなりの全く違う話題に驚く。意外と軽かった。
これは、仕事としてではなく、プライベートでということなのだろうか。いや、流石にそんなわけないか。
『仕事で、ですか?』
『仕事だと堅苦しいので、友達として。』
友達。勝手にそんな関係に昇格していたとは。嬉しいんだか否かわからない。
友達が増えるのは嬉しいことなのだろうけど、相手が相手だ。芸能人の友達なんて、周りにバレたら殺されるかもしれない。特に彼のファンにバレたら命はないと思わねば。
『わかりました。』
断る理由も特にない。
『いつが都合良いですか?』
『休日は基本的に空いているので、いつでも大丈夫です。』
友達がいないことがバレたかもしれない。
『同じです。』
確かに彼も友達はいなそうだ。なんて失礼だけど。
『あ、でも、明日の土曜日は予定があるので、無理かもしれないです。日曜日はどうですか?』
大した用事ではないのだけれど、もう予約しているので、今更キャンセルするのは難しい。それに彼となら他の日でも予定が合いそうだ。
『大丈夫です。じゃあ、日曜日に。うちに来ますか?あまり人に会いたくないので。』
え?一人で叫ぶ。
それこそやばいのではないだろうか。いよいよ、これは、命懸けだ。完璧に変装しなくては。いや、私は一般人だから意味がないか。
そもそも、どこか行きませんかと来たのに、そっちは一歩も動かないじゃないか。もしや確信犯か。
『まずくないですか?』
『なんで?』
なんでって。どう考えてもおかしい。
池月さん、そう打ちかけて消す。相手の名前のところに白萩と入力されているのだから、白萩の方が良いだろう。
『白萩さんの家って誰かにバレてます?』
『もしかしたら』
おっと、これは危険だ。完全装備で家を出なくては。
『白萩さんの立場からして、一般女性をうちに入れるというのは、大丈夫なんですか?』
『別に問題ないと思いますけど。逆になんでダメなんですか?』
これはダメだ。自覚がないやつだ。自分がどれだけの力を手にしているのか自覚していない人だ。
ダメってことはない。いいや。諦めた。批判されるのは、どうせ私じゃない。彼が良いというのならそれに従えば良いだけだ。責任は私にはない、はず。
『わかりました。どこに行けば良いですか?』
『住所送るので、そこに午後1時くらいに来てください。』
『ちょっとまって。まだ送らないで。』
即座に返信する。流石にそれは許容範囲を超えている。それに、記録に残ってしまう。
『最寄り駅まで迎えに来てください。』
逆に、彼が外に出ない方が無事なのだろうか。でも、身バレすることはほとんどないって言ってたし、それを信じるしかない。
しばらく返信はなかった。どうせ、めんどくさいななんて思っているのだろう。
『はい。』
諦めたようだ。
寝て起きてを繰り返していたら、いつのまにか明後日に当たる日曜日になっていた。
別に着飾ることなんて必要ないのに、いつも倍は化粧に時間をかけた。こっちか?いや違うか。そんなことを永久的に繰り返していた。
洋服も滅多に着ないようなレースのついた真っ白なワンピースを選んだ。
彼の家の最寄り駅まではうちからも意外と近かった。地下鉄で10分もかからない。でも、意外にもザ都会というような場所ではなかった。東京23区の中だけれど、割と端の方だ。土地代がえげつないからな。でも、都会の、真っ白で広大な豪邸なんかに住んでいそうなのにな。
駅の改札を出てみたけれど、彼らしき人は見当たらなかった。そこまで大きな駅ではないのに、見つけられずぶらぶらしていると、突然耳元で名前を呼ばれた。思わず声を上げながら振り返ると池月さんがいた。
「ずっといたのに。でも、だからバレないって言ったでしょ。」
いつもの紫色のオーラが1ミリたりとも感じられない。完全に素だった。
「こっちです。」
その後ろについていく。どうやら私の速度に合わせてくれているようだ。いつもはさっさと行っちゃうくせに。
「迷いました?」
彼は振り返りながら訊ねる。
「大丈夫でした。近所だったので。」
笑顔で答えると、
「それならよかったです。」
彼も笑顔を作った。とても自然な微笑みだった。あれ、こんな人だったっけ?
「そのワンピース素敵ですね。」
「ありがとうございます。」
本当に人が変わったようだ。絶対こんなこと言わないのに。
彼の服に目を向ける。いつもは真っ黒なのに、今日は鮮やかなブルーのニットを着ている。細身の体によく似合っている。でも、それを伝えるのは恥ずかしいので、心の中で褒めておく。
「あ、石竹さん、何度も言いますけど、本当に無事でよかったですよね。」
流石にしつこいかもしれない。
「はい。」
彼はにこやかに笑っていた。彼が笑うと少し不気味だ。こんなこと伝えるわけにはいかないけれど。
「もう、面会されたんですか?」
「いや、まだです。事件性があるからっていうのと、やっぱり親類の方が優先されるので、僕のところにまで回ってくるのはまだまだ先ですよ。」
なるほど。確かに関係的には、遠いのかもしれない。
そして、彼の反応を伺うと、この話題はあまり掘り返さない方が良さそうだ。確かに、自分の大切な人が殺されかけた話なんて普通はされたくない。
次の瞬間。彼は突然後ろを振り向いた。何かの気配を察知したようだった。
「どうされたんですか?」
「いや、大丈夫です。勘違いかな。最近、尾行されることが多くて。」
大事ではないと言うかのような言い方だった。当たり前と言っているかのようだった。
「そうなんですね。」
気をつけてください。
10分くらい歩くと、アパートについた。意外にもこじんまりとしていて、大学生なんかが住んでいそうな感じだ。
「意外とちゃっちいって思いました?」
彼は鍵を片手で開けながら、こちらに目を向ける。
「いや、でもそうですね。芸能人といえば、都会の高級マンションに住んでいるイメージがあったので。」
失礼にならないように気をつける。
「買えないことはないんですけど、金々しい家は、お金の無駄なので。どうせ使うなら、物なんかに使うより財産として残しておく方が賢い。家マニアの人は別ですけど。」
確かにそうだ。必要ないという彼の考えも正しいのかもしれない。憧れはあるけれど、他の使い道の方が便利になりうる。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
扉は意外と軽かった。外見に見合った想像通りの内装だった。
「それにね、人もあまり呼ばないので、結局高級な住まいは自己満のためになってしまうんですよ。それだったらやっぱり他のことに使った方がいい。」
そう考えたら、高級マンションを買うような人より彼の方が大人に見えてきた。
「確かにそうですね。」
部屋は整頓されていた。生活に必要最低限の物しか置かれていない。私欲を満たすような娯楽のものは置かれていなかった。
珍しいものは、筋トレの道具くらいだ。
「お茶出しますね。」
「わざわざありがとうございます。」
ペコリとお礼をする。
「いえいえ。そこら辺に座っていてください。」
紳士的な対応にも慣れてきた。
固めのソファに座り込む。
「プライベートはいつもこんな感じなんですか?」
何気ない質問のつもりだった。
「こんな感じって?何のことですか?」
お茶を注ぎながら彼は聞き返した。その声は、とても冷たかった。なんとなくだけど、禁句を言ってしまったような気がした。
「いや、何でもないです。いつもこの部屋で過ごしているのかなーって。」
「あーそういう意味か。そうですね。ほとんどここにいます。」
「そうなんですね。」
危ない。軌道修正できた。
出されたお茶をお礼言って受け取った。
「昨日は何があったんですか?用事があるっておっしゃっていましたけど。」
「あー、健康診断です。普通のやつ。」
「なるほど。」
納得したようだ。
眉毛をピクピク動かした。彼の目を見つめる。あながち間違ってはいないだろう。
「あ、そうだ。」
突然声を上げると、彼がこちらを見る。
「何て呼べばいいですか?」
ずっと悩んでいたのだ。
「それですね。」
「仕事のときは池月の方が良いです。今は、どっちでも良いですけど、白萩だったら周りにバレにくいので。」
予想通りの回答だった。
「わかりました。」
仕事でも白萩さんと呼んでしまわないか心配だ。
「池月千芒って言うのは芸名ですよね。どうやって決めたんですか?」
せなぎなんてあまり聞かない名前だ。
「響きが綺麗だから。大した理由はないです。」
微笑んでいたけれど、他に理由がありそうだ。彼は時々私に何かを隠そうとする。
でも、それを直接訊ねるほどの勇気は持ち合わせていない。
「そうなんですね。」
相槌を打つ。
「どうします?映画とか見ますか?」
それってそうゆう関係の男女がすることじゃない?
LINE上から感情がわからないのに、面と向かっていると全て顔に出てしまう。
「嫌ですか?」
「私は良いんですけど。」
「じゃあ、見ましょう。特にすることもないので。」
確かにこのまま世間話をし続けるのも疲れる。彼なからというわけではなく、人と会話をするのはお互いに得意ではなさそうだ。
「何見ますか?」
「私あまり見ないので、詳しくないです。」
「白萩さんの方が確実に詳しいと思います。」
相手に決定権を委ねた。
「別にこんな仕事してても興味ないから、見ないんですよね。」
意外だった。詳しそうなのに。でも、さっぱりしている性格だから、彼の言うようにあまり見ないのかもしれない。
「好きなジャンルとかありますか?」
「好きなジャンルかー。そうですね。」
これは責任重大だ。間違っても恋愛系なんて言ってはいけない。
「アクションとか。あとは推理ものとかですかね。あ、でも結構どれでも見ます。」
ラブストーリーからは程遠いものを選んだつもりだ。ホラーは怖がって白萩さんとの距離が縮まってしないか心配なのだ。
「邦画と洋画。どっちがいいですか?」
結局私が全て決めているじゃないか。
「邦画の方がよく見ますね。」
彼はクスリと笑った。言った後に、駄洒落を言ってしまったことに気がつく。
「いや、今のはたまたまで。」
「わかってます。」
焦る私を見て彼はさらに笑顔になった。
洋画を見ないわけではないのだけれど、外国の傾向として、濃密な愛を描くことに抵抗がないため、物によっては危険だと察知したからだ。
「じゃあ、評判のいいやつ選びますね。」
「はい。」
リモコンを片手に操作する彼はスマートだった。
映画が始まると二人は黙って集中した。
運良く、愛情表現は無しに終わった。特に気まずいシーンもなかった。それが一番不安な点だったのでよかった。
結局、推理ものを見た。名探偵が次々に謎を解いていった。実に爽快だった。
その後、もう日没していたので、真っ直ぐうちに帰ることにした。
「送っていきましょうか?」
「結構です。お気遣いありがとうございます。」
やっぱり何か違う。
「今日は本当にお世話になりました。」
白萩さんの反対側の部分を見ることができた気がする。でも、やはり、月のように隠している部分はあるのだろう。いつかその部分も打ち明けてくれるくらいの仲になれるといい。それは時間がかかりすぎてタイムアップになる方が早いかもしれないけれど。
翌日の朝。
家のチャイムが鳴った。扉の穴から覗くと見知らぬ男性が立っていた。
まだ寝起きで髪の毛も整えていないのに。でも、このまま待たせておくのは可哀想なので諦めることにした。
それよりこの人は誰だ。簡単に開けるわけにもいかないので、チェーンをかけて入れないようにしながら、鍵を開ける。
「はい。どうされました?」
警戒されていることに気がついたのか、相手は穏便な表情になる。
「突然すいません。一応、警察の者なのですが、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?この場でも構わないので。」
なんで?驚いて目を見開く。こんなのドラマでしか見たことない。
「私、何かしましたか?」
心臓がバクバク鳴っているのが聞こえる。
「いえ。白萩という男をご存知ですか?」
白萩って白萩さんのことだろうか。知らないふりをするか正直に言うか迷ったけれど、その時点で既に顔に出てしまっていたので、隠さず伝えることにした。
「はい。その人、何かしたんですか?」
チェーンも外さずにそのまま訊ねる。それくらい、鼓動が激しくなっていた。
「家、入れていただけますか?詳しくは中で話します。もしくは、私の車まで来ていただけますか?」
どちらも選択し難い。この方は本当に警察の方なのだろうか。そこから疑問だった。
これは何かの詐欺の可能性だってあるのだ。簡単に信用してはいけない。
「これは、組織としてではなく、私個人として動いていることです。なので、従う義務はありません。ですが、気になりませんか?」
狭い扉の隙間から、真剣な瞳を向けられる。監視されているようで、瞳を揺らがすことでさえ緊張した。
つまり、ただの憶測で個人的に調査しているのだけれど、警察の立場を利用して私に話を聞きたいということなのだろう。
「脅すつもりはないんですが、昨日、白萩と歩いていましたよね。見かけました。」
ドキリと心臓が鳴る。思わず、彼の瞳に目を向けてしまった。
彼は声を顰めて続けた。
「白萩が殺人未遂を起こした可能性だってあると思っています。」
その言葉が耳に入った瞬間、何かがプチリと切れた。瞬発的に言葉を発する。
「そんなわけ。だって、あの人は」
「だから、静かに。まだ公にされていない情報なので。」
軽く睨みつける。それだから、家に入れろってことなのだろう。一歩下がった。
「あの人は、あなたが知っているような、あなたに見えているような人間じゃありません。」
その言葉にイラッときた。確かにまだ日は浅いけれど、彼という人間を理解できるように努力してきたつもりだ。じゃあ、あなたは熟知してるんですか?そう問いたい。
「平気で殺人だってするような人間だってことですか?」
眼球に力を込めながらそう言った。
「いやそういうわけじゃないです。」
じゃあ、どうゆう意味ですか?そう問い詰めるつもりだった。しかし、妙に切ながな表情をしているこの人によってその言葉は喉につっかかってしまった。そんな弱々しい態度を取られたら、こちらも対応に困る。
「じゃあ、根拠は何ですか?」
再び鋭い視線を向ける。
「使用された薬毒があいつが所持しているものにかなり類似しているからです。」
彼はひそひそとそう言った。予想していたより、根拠らしい根拠に口を閉じる。
何も言い返すことができなかった。
「もし警戒されているようでしたら、白萩に直接聞いてみてはどうですか?俺の正体を。」
それが一番手っ取り早いかもしれない。
「知り合いなんですか?」
「一応。」
投げやりな言い方を聞く限り、あまり親しい関係ではなさそうだ。それにしても知り合いを疑うなんて、人間としてどうなのだろうか。正しいのだろうか。
「お名前、お伺いしてもよろしいですか?」
「葛宮です。」
白萩さんにメールを送った。
『葛宮さんって警察の方知ってます?』
『はい。』
すぐに返信があった。
『大丈夫な人ですか?』
『なんで?何か家に来たりしましたか?』
その通り過ぎて何と返すか戸惑っていた。
『もしそうなら、何も答えなくて良いです。変な思想で洗脳されかけないように気をつけてください。』
そのメールを見て、葛宮さんを見る。確かに、思い当たる部分はあった。
白萩さんに従うべきなのだろう。しかし、何故に彼が犯人だという結論に辿り着いたのか、知りたかった。
葛宮さんの方を向き直す。
彼は時計を一眼見ると、焦ったように言った。
「もう時間なので、今日はもう帰ります。朝からお騒がせしました。」
そう言うと、彼はあっという間に姿を消してしまった。
そもそも葛宮さんが私の家の場所を知っている時点で、尾行されたかもしれない。かなり危険な人なのだろう。そんな印象を受けた。彼の憶測の理由も気になるけれど、でき限り近づきたくない人だと思った。
白萩さんの言う通り、この問題には関与しない方がいいのかもしれない。
そう思ったもののやはり好奇心には勝てなかった。
その日は、特に予定が入っていなかったので、取材という名目で白萩さんのマネージャーさんにこの事件について訊ねることにした。何も知らない、の一言で済まされる可能性もあるけれど。
白萩さんにそのことを伝えると、彼がマネージャーさんに話をつけておいてくれるらしい。ありがたい。桔梗さんという方らしい。可愛らしい名前だ。連絡先も教えてくれ、本人と直接やり取りすることができた。
池月さんとの取材の時に、世間話くらいはしたのだけれど、せいぜい1、2分だったから面と向かって話すのは初めてだ。
真昼間に外で活動するというのは、体力的にも精神的にも疲れるものだ。忙しそうに街ゆく人々を親のような目線で見届ける。今日もお疲れ様です。そう思いながら、自分のその波の中にいた。いよいよ夏本番も近づいてきた。体感温度は実際の温度よりもはるかに高い気がする。夏は冬が恋しくなるくせに、冬になると夏が恋しくなるのだから不思議だ。でも、少なくとも夏は一番好きな季節には入らない。夏は過ぎ去った後にあんなことやこんなこともあったねと懐かしさに浸るくらいがちょうど良いのだ。
そんな熱帯雨林を進み続け、予約したビルにある一室についた。清涼なクーラーが浄化してくれる。面接室のようなところだった。遠い方の席を選んで座る。
10分前に到着してしまった。到着してから5分後くらいにノックが聞こえた。はい、と返事をにて立ち上がる。
「桔梗さんですよね。今日はありがとうございます。」
深々と頭を下げる。
彼女の紺色のスーツがスマートでとても決まっている。仕事が早そうだ。そんな第一印象だった。偏見に過ぎないけれど。
「いえいえ。記事にしていただけるのはありがたいことなので、こちらこそ感謝です。」
仕事だから、仕方ないことなのだけれど、同世代の人と敬語で話し合っているのがなんだか面白かった。自分も成長したのだと感じた。
彼女が椅子に腰掛けたのが見てると、口を開いた。
「早速ですが、池月さんは、桔梗さんからしてどのような存在ですか?」
難しい質問かもしれない。仕事だけの関係である可能性もある。
「そうですね。違う世界に連れて行ってくれるような自由奔放な人でした。自分の意見には真っ直ぐで他人に迎合したりはしない。」
過去形。真面目な顔で話されていたため、何と返していいのかわからなかった。とりあえず、相槌を打っておいた。
「でも、今はとても窮屈そうで近くにいるのが、少し辛いです。」
曖昧だけど的確な表現に納得してしまう。池月さんとして働いている姿は本物じゃない、真骨頂ではない気がした。それが距離を作っているのだろう。近寄りがたい空気感を感じていた。その空気も魅力の一つなのだけれど。
「以前に池月さんに取材をさせていただいたことがあるのですが、私も似たような印象を受けました。」
「何か変化があったのだと思われますか?」
一つのきっかけで人は大幅に変わってしまうものだ。実体験からそう痛感していた。
「それがわからないんですよね。突然に、いや、徐々に変化していったのかな。気がついたら、私の知らない池月さんがいて。私も今混乱しています。」
初めて聞くようなことばかりだ。ずっとあのように無関心で冷静な人だったのだと勝手に想像していた。しかし、昔はもっと穏やかで暖かい人だったのかもしれない。
そんな池月さんにも会ってみたい。いや、もう会ったことがあるかもしれない。もしかしたら。
「尋ね難いことなのですが、悪い噂が原因になってしまったということはあり得ますか?」
嫌な思いをさせてしまったら申し訳ない。
「申し訳ないんですが、何もわかりません。探りを入れようとしても中々近づけないというか守備が固くて。」
「いえいえ。」
何度も執拗に聞いてしまった。知らないことを訊ねられても困るだろう。
「憂悶しているような表情を見ると放っておけなくて、大丈夫かと訊ねることも度々あるんですが、全て役作りの一環だと言って誤魔化される。撮影のスケジュールは私が一番把握しているから、そんな嘘は簡単に見抜かれることを知っているはずなのに。」
悔しそうだ。自分にしか与えられていない立場という特権を有効に使えないということは、責任感を感じる。辛いだろう。
もうこれ以上、追い込むのはやめるべきだ。
「質問内容が大幅に変わりますが、マネージャーになろうと決めたきっかけは何でしたか?元々面識はあったのですか?」
彼女は頭の中で話を整理しているようだった。話すことが決まったのか、少ししてから口を開いた。
「私たちが出会ったのは高校です。三年間ずっとクラスメイトで。」
そんな昔から面識があったとは、驚いた。
「初めの方は、彼はほぼ不登校の状態でした。ちょうどその前に両親が亡くなったというのは後で知ったんですが。」
その頃だったのか。中学の最後の方だろうか。その年齢で亡くすというのは想像を絶するほどに辛いことだろう。私が受け取った悲しみよりも、もしかしたら大きかったのかもしれない。
「悲しいことに友人が少なかった私は、隣の席になったことをきっかけにだんだんと会話をするようになりました。少しでも彼の力になれたらなってただの自己満でしたけど。」
懐かしそうに桔梗さんは話す。池月さんと同い年だということは、私とも同い年だ。池月さんの年齢は検索したら出てくるため、取材の事前に調べておいた。
「そんなある日、彼は言ったんです。有名になりたいって。芸能人になりたいって。だから、私も応援すると言いました。
あっという間に将来の道が決まってしまった。私はマネージャーになると、思いつきで言ってしまったんです。でも、後悔はしていません。夢を語り合ったあの頃は輝いていた。」
まさに青春だ。ドラマの1シーンのようだ。彼との思い出を誇らしそうに語る桔梗さんは、燦爛なオーロラに包まれていた。
「彼とは、こっそり実験室に忍び込んで、薬剤を作ったりしていました。薬毒が作りたいって。本気じゃないですよ。実験でやってみたら本当にできてしまって。」
薬毒。その言葉に異常に反応する。
「それは作ってどうしたんですか?」
尋常じゃないほどの食いつきに方に彼女は驚いた素振りを見せる。
「他のもう一人いたので、三人で分けて持って帰りました。こんなこと誰にも伝えていませんけど。」
「そうなんですね。」
冷静を保つように努力したけれど、動揺が隠せなかった。薬毒という言葉と彼が疑わられているという事実が結びついて離れない。これこそ偶然であってほしい。そう願うことしかできない。
「それ黙っててください。その薬のこと。私以外誰にも言わないでください。」
「なんでですか?」
理由は気になるのも仕方ない。
「彼のためなんです。」
疑問に対する直接の答えにはなっていないけれど、意思の強さは伝わったはずだ。
「わかりました。」
腑に落ちない様子だった。そうなるのも仕方ない。これだけミステリーを残されたら私だって気になって仕方ない。でも、その状況は私も同じだ。手がかりはあるのだけれど、それを結びつけたくない。いくら好奇心が強いからってその先の事実を知りたくない。
わかっている。可能性はかなり低い。でも、ゼロじゃないことが気がかりだ。
それから記事にならないような彼との思い出話を聞いた。どれも青春の輝きを感じさせるもので私には無縁のようなことだった。でも、楽しかった。そのかつての景色の中に私も含めてもらったような気分になれた。
「もう時間ですね。本当にありがとうございました。」
「そうですね。こちらこそありがとうございました。」
ぺこりとお礼をする。
「最後に一つだけ、良いですか?」
しょうもないことなのだが、どうしても聞いてみたいことがあった。
「直接的な言い方ですが、池月さんのこと好きだったりしますか?」
「え?」
まあその反応になるだろう。予想はしていた。桔梗さんの顔が急激に紅く染まった。え?え?と繰り返している。
「昔は好きでしたけど。」
彼女は、何もないはずの机をずっと見つめていた。
「今は?」
「今も、その気持ちがゼロなわけではないです。でも、最近はそんなことを考えてる暇がないというか、そのような関係になるのは違うんじゃないかと思い始めています。第一、彼は芸能人ですから。」
真剣な瞳があった。その瞳には何も隠されていなかった。
「芸能人との恋なんて、特に私はマネージャーですから許されないですよ。それに、彼にその気があるとは思えないので。」
なんだかな。彼女の気持ちは十分なほどにわかる。でも、もったいないような気がしてしまう。
「そういうのって、なんていうか、気にせずに突っ走っちゃった方が良くないですか?」
「遠慮せずに自分のやりたいことに全力を注いだ方が幸せなんじゃないかなって思うんですよね。」
そんな偉そうなことを言える立場ではないけれど。
「でも、私のこの想いも本物なのかなって自分でも疑ってしまうんです。」
その気持ちは十分なほどわかる。いざ、その気持ちを伝えるとなると、本当に伝えるほど強い気持ちなのか吟味してしまう場合がある。
「そんなわけないですよ。とりあえず、伝えることしか始めないと。」
励ますのは簡単だ。言葉だけ出せばいいのだから。
桔梗さんは首を傾げている。頬を赤らめながら。
「それで、もし、相手にその気がなかったならば、そこをスタートにすればいいじゃないですか?人間の気持ちは不変ってことはないと思うので。」
その言葉に納得させられたのか、桔梗さんは頷いた。その顔はすっきりとした青空のようだった。
「そうですね。ありがとうございます。」
「いえいえ。」
正直、この励ましが良い方向に進むかどうかはわからない。でも、自己満足は得られた。それだけでプラスなことだったと思う。
埋められた手帳のメモ欄を見つめる。まだ記事にするには、早い、そんな気がする。まだ核心部分まで辿り着けていない。これからだ。
家に帰ってからもう一度、メモを見直した。今まで彼の言動を全てまとめたノートに貼る。今時、コンピューター上にまとめる記者もいるのだろうけど、やはり、紙ならではの魅力もある。例えば、このめくるときの音が好きだ。学生時代は特に好きだった。めくる度にそのページを暗記できたという達成感があった。今もその名残がある。
ノートはもう半分ほど埋まった。池月さんに関する基本的な情報から心に残った言葉。彼の印象。彼の心情なども受け取った情報はほぼ全部記録してある。よく、几帳面だと褒められるのだが、こうすることでしか情報を整理できないのだから仕方ない。頭の中で情報を保管し即座に取り出すことができたのならとっくにそうしている。これは凄いと称賛されるようなことではない。
彼の情報から文章に起こすことは現時点でも可能なのだろうか。情報がいくらあったとしてもそれを結び付けることができなければ記事にすることはできない。個々の情報を一枚に記載するということであれば、箇条書きで十分だ。その点に置いて、彼の情報は不十分だ。手がかりはある。点となるような情報はある。しかし、それを結び付ける線がない。これは、私個人の中に存在するルールなのだが、彼の言動の核となる思想を見つけ出すことができなければ、池月千芒の記事として成立しない。
人間の行動には動機というものが存在する。それが全情報を繋げる線となる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます