第一章

 あのあと、マネージャーさんが心配して私たちのいた部屋に入ってきた。ちょうど彼が部屋を出て行くところだった。それから、二人きりになり、私もそろそろ、と言いかけたところでマネージャーさんの凛とした声がした。

「冷たくて愛想もなくてごめんなさい。」

 きっと池月さんの代わりに謝っているのだろう。申し訳ない気持ちになり、いえいえと首を横に振った。

「本当はあんな人じゃないんですよ。」

 彼女はそう続けた。あんな人じゃない。どうゆう意味なのだろうか。あんな人じゃないというのは性格の問題なのだろうか。わからなかった。しかし、それ以上、明細に尋ねる勇気もなかった。何か触れてはいけないもののような気がした。直感的に。

 適当に返事をしてから、部屋を出た。彼の姿はどこにも見えなくなっていた。


 家に帰った。そして、ため息と共にソファに座った。フカフカのソファは癒しを与えてくれる。それなのに今はすっぽり空いたしまった心の半分も満たしてくれない。機械のように手慣れた手つきでスマホを手に収める。そしてエアコンのボタンを押した。爽やかな風が身を包む。初めのうちは設定温度を最大限に下げる。しばらくして毛布をかぶる。


 絶対に失敗だ。もう取材には答えてくれないだろう。そう反省していた。何が悪かったのだろう。自分に非はなかったように思える。確かに、直接的な質問で気分を害してしまったことは、謝るべきかもしれない。しかし、たったそれだけじゃないか。

 一応、ありがとうございましたとお礼の連絡をした。どうせ返事は来ないだろう。そう予想したいのだが、まさかのまさか、返信があった。

『多分、記事にならないと思うので、もう一度取材に応えます。それと、質問変えたらどうですか?同じような質問だったら答えないので。』

 随分と偉そうな内容だな。立場的にはこちらが遜る側なので間違ってはいないのだけれど。

 自分のどれだけ自信があるのだろうか。少しでいいからその自尊心を分けて欲しい。

 『ありがとうございます。』と丁寧に返した。何かしら得られる情報があればいいのだけれど。読めない。

 エアコンを切り、夕飯の用意を始めた。


「あなたの生い立ちから聞かせていただけますか?」

 昨日と同じ場所だ。今日は迷わずにここまで来れた。

 彼は頷くと、ぽつぽつと話し始めた。今日は妙に従順だ。

「大したものじゃないですよ。極普通の家庭でそこら辺にいるような普通の人間になる予定でした。」

 その普通な人間に私が含まれていないことを祈る。だいぶ批判的な言い方だ。それに、あまりにも抽象的な生い立ちの紹介だ。自分のことを語りたくないのだろうか。

「その、誕生日とか幼い頃の性格とかは教えていただけないんですか?」

 しばらくの間、彼は沈むように黙った。

「そんなの誰も興味ないでしょ。」

 冷蔵庫から取り出したばかりの氷のように冷たい声だ。確かに調べればある程度出てくるだろうが。

 そして、どこを向いているのだろう。目を合わせてくれない。

「さっきの続き。割と順風満帆な人生だと思ってたけど、8年前の15のとき、両親が二人いっぺんに死んだ。2月9日4時3分。命を引き取りました。医者の声が今でも忘れられない。」

 彼の長いまつ毛がブルーな瞳を隠すように覆う。予想外の内容に動揺する。しかし、彼は他人事のように話す。そのおかげで悲の共有をされずに済んだ。

「深夜に二人で出かけてて交通事故に巻き込まれて死んだ。加害者も死んだよ。だから、誰に怒りをぶつけていいのかわからなかった。」

 表情はよく見えない。でも、声だけで十分伝わってきた。どれだけ未練があったのか。

 きっと自責している。その傷は不必要に触れてはいけない。私にだって、自分じゃどうしようもない傷をかかえている。きっと彼も私と同じような不安定な気持ちに陥ることがあるだろう。

「確かに思いましたよ。」

 凛とした声に顔をあげる。彼は次の内容を口にするか迷っているように口を閉じた。録音機を見つめてから覚悟をしたように声を出した。

「これから非道の方向に進んでも、仕方ないよなって。この悲劇でも話せば、許されるのかなって。」

 震えながらも芯のある真っ直ぐな声だった。きっと嘘は含まれていない。そう確信できるくらいの力は持っていた。

「でも、それだけ。考えただけ。」

 まるで、自分に言い聞かせているようだった。そこには池月さん一人しか存在しない。私は風景と化してた。

 励ますような言葉は返って嫌味に聞こえてしまいそうなので何も言えなかった。

「そのあとはどのようにしてこの道に進むことを決めたんですか?」

 代わりに新たな問いかけをした。私の質問に思考を移すのに時間がかかったようだ。少し間があいてから再び話し始めた。

「すぐに一人暮らしを始めました。」

 ふわふわしていて他に足がついていないような声だった。この一瞬で何があったのだろうか。

「親戚の方とかには頼らなかったんですか?」

 つい気になったことを口に出してしまった。デリカシーのない質問だっただろうか。

「不幸なことに親はどちらも一人っ子だったんで叔父とか叔母はいませんでした。祖父と祖母には捨てられました。」

 ハキハキと話していた。気持ちに整理がついたのだろうか。

 でも、本当に他人事のように話す。もう完結した歴史のように。

「捨てられた?」

 思わず聞き返した。捨てるなんてことをするだろうか。きっとこの池月さんも根は良い人なのだろう。何となく伝わってくる。そんな良い人を育てるような人が悪い人なわけがない。

 彼は鼻で笑ってから言った。

「嘘です。こっちが捨てた。」

「どういうことですか?」

 意味がわからなかった。捨てられたの方がまだ自然だった。

「母方の祖母は祖父の介護で手が回らなかった。だからあっさり断られた。父方の方は祖父はとっくに亡くなっていて祖母が一人だったからちょうどいいかなって思った。でも、自立しなさいって言われた。その時、おばあちゃんの顔を見て気がついた。これは遠慮なんだって。多分、自分がもう長くないから、僕が介護するはめになることを予想して、それは可哀想だから関わらなくていいって意味だったと思う。僕はそれに気がついたけど見て見ぬふりをした。だってめんどくさい。」 

 本心で言ってるようには聞こえなかった。何か真意が隠されているような気がした。その真意を隠すために、他人事ような喋り方をしているのかもしれない。

 また、ここまで細かく話してくれるなんて思っていなかった。今日と昨日で何があったのだろう。

「なるほど。」

 納得していないけれど、相槌のつもりで言ってみた。

「結果的に葬式とかは全部こっちが負担するのに。多分。」

 その多分がなんだか切なかった。溶けてしまいそうな声だった。

「俳優を目指したのは、大した理由じゃない。有名人になってみたかったから。金儲けできそうだし。事故からちょうど一ヶ月後に事務所に入った。今は独立しているけど。」

 ある意味、予想通りの理由だ。真意は違ったしてもそう答えるだろうと感じていた。

「まあ、子供の時に、演技の指導を受けていたこともあったし、この仕事を志していた時期もあったから、当たり前っちゃ当たり前の決断だったと思う。逆にこれしか自分の能力を活かせる仕事がなかったから。」

 それは意外だった。

「そうなんですね。」

 でも、今の全ての説明の中にどれだけ真実が含まれているだろうか。全て嘘でしたーなんて笑いながら言いそうだ。

「両親との思い出とかありますか?印象に残っているものとか。」

 明るい話題にするためにと質問した。

「死んだ親を思い出せなんて、随分と鬼畜な質問ですね。」

「いや、そんなつもりじゃ。」

 慌てて否定する。

「別に。いいですけど。」

 コーヒーを一口飲んだ。

「思い出?あー、なんか教えみたいなのはありましたね。よくわからないですけど。」

「教え?」

 何かの宗教講座が始まるのだろうか。

「はい。まあ教育方針みたいなものですけど。」

 なるほど。相槌を打ちながら聞く。

「自分の行動には理由をつけろ、です。これは毎日のように言われてきた。」

 思い出を話す彼の顔は、よく見えなかったけれど、暗かった。

「本当に一つ一つ聞き出されて、めんどくさかった。大抵その理由は休養にしていた。首を傾げる両親には家庭科の教科書を見せていました。バランスの取れた食事、適度な運動、十分な休養を、というページを。」

 明るい話題になって良かった。

「何度も言われてきたんでしょうね。」

 微笑みながらそう言った。

「今もです。」

 また、コーヒーを一口飲んだ。

 その時。初めて彼に違和感を覚えた。


「これで十分ですか?」

「はい。ありがとうございます。」

 立ち上がって礼をする。

 十分ではないのだけれど、これ以上は話してくれなそうだ。私は彼に振り回されている。

「また、よろしくお願いします。」

 彼は驚いたような表情を見せた。そして、嫌そうな顔をした。

「まだ続くんですか?」

 彼は、荷物をまとめながら聞いた。

「はい。まだ、足りないので。」

「さっき十分だって言ってたじゃないですか?」

 やっぱり。そこ突っ込まれると思っていた。

「今日のところは十分だって意味です。」

 満面の笑みのつもりだが、作り笑いだってことはバレているだろう。

「それなら連絡先入りますか?」

「え?」

 今のところWeb上のページでやりとりしているので、その必要はない。なぜだろうか。

「スマホ出してください。」

 言われるままに取り出す。

「これ、QRコード読み取ってください。」

 そう言われて出されたコードに驚く。

「LINEですか?」

「そうですけど。だめですか?」

 だめって。別に私は良いけど、そっちがだめなんじゃないんですか?思わずそう言いたい気分だった。

「いや、問題ないです。」

 なんだか有名人と連絡先を交換することでアタフタするのはダサいので、一生懸命慣れてる感を出す。

 表示された名前に驚く。

「これって本名なんじゃ。」

 白萩。思わず顔を見上げる。とんでもないものを受け取ってしまったような気がした。

「だめですか?」

 余裕な笑みがいらつく。

「あなたのファンに私を殺させる気ですか?」

 これは私の命に関わる問題だ。この人はその恐ろしさをおそらく知らない。

「そんな熱心なファンはいないんで大丈夫です。」

 どうしてそう断言できるのだろうか。

 ふと、彼のスマホを覗き込む。

「登録しているの、私含めて二人じゃないですか?」

 馬鹿にしたように言うと、

「勝手に見ないでください。プライバシーの侵害です。」

 真剣に返された。でも、めちゃくちゃ焦っている。

「親戚とかとも交換していないんですか?」

 流石に何かあったときに心配になるだろう。親戚同士で集まったりすることもないのだろうか。

「そこまで良い関係じゃないんですよ。さっきも少し話しましたけど。」

 投げやりな言い方だった。諦めているようだ。

「昔の同級生とかは?」

「元々そうゆうのには、交流がないような人間なんだから、仕方ないでしょ。」

 一人くらいはいてもおかしくないと思うけれど。私にはわからない。

「あと、こっちはプライベート用だからいないだけです。仕事用には山ほどいますから。」

 つまり、プライベートに友達がいないってこと。あまり状況は変わっていない気がする。

「そうですか。」

 その冷たい目で睨まれると勝てる気がしない。身を引くことも戦略の一つとして大切なことだ。

「もう一人はどなたですか?」

 チラッと見た感じでは、もう一人登録されていた。

「石竹満さんって知りませんか?」

 テレビでよく聞く名前だ。頷く。

「その人だけですから。信頼できるのは。」

 とりあえず、とても思慕していることは伝わった。

「もう一人の親みたいな。」

 そこまで持ち上げるということはかなり親密な関係なのだろう。一人で納得していた。

「それじゃあ。」

 彼はそう言うと速足に去っていった。最後のお礼もできずにいなくなってしまった。

 私はソファに座り込んだ。



 さっさと出てきたのだが、行く場所があるわけではない。僕は都会のビルの中を彷徨っていた。同じ道を何度も進み続ける。終わりのない迷路のように。

 藤袴さんとの会話を思い出す。

 

 母さんと父さんは死んだ。

 行動に理由をつけろ、って何度も言われた。その癖、彼らの最後は理由も利益もない行動だった。事故。交通事故。

 わかってる。制御できないことくらいは。自分でどうもこうもできないようなことだってことは十分承知している。

 でも、二人は愚かだった。誰が否定しても、これだけは正しいと貫き通す。避けられる方法はあるはずだ。もし、無いのだとしても彼らの素行が悪かっただけだ。

 自分に絶対的に避けられる自信があるわけではないけれど、こうやって怒りをぶつけることでしか救われないのだから仕方ない。それくらい許してくれたっていいじゃないか。

 自分は愚かな死に方はしたくない。意味のある死を迎える。そう決心したのを覚えている。


 父さんと母さんは死んだ。

 初めてその死顔を見たとき。頬を震えが襲った。それは、体を動かす威力はなかったけれど、頬は痺れるように引き立った。感電したように奮い立った。

 その死顔を見たとき。殴りたくなった。手を上げたら、係の人に止められた。気持ちはわかります。そう言われた。抵抗し続けることもできたけど、やめた。めんどくさかったから。

 死んだ父さんと母さんの額を触れた。それは、鱗のない蛇のようだった。非常に気味が悪かった。心の中で悲鳴を上げた。その甲高い悲鳴は涙よりも先に出てきた。

 それだけは記憶にこびりついている。

 彼らとの楽しかった思い出を思い出してしまう。それと同時にもう繰り返すことができないという深い悲しみに襲われる。どうせ死ぬなら、最初っから思い出なんて残さないで欲しい。

 親戚が死んだことはあった。年に一度、会うか会わないかの人でもちゃんと涙が出た。もう話せないんだ。頭に浮かび上がるのは、笑い合ったときの情景ばかり。泣かせにきている。

 親が死ぬなんて、そんな馬鹿げた話あるのだろうか。失ってしまった悲しみどうこうじゃなくて、何よりも不安が大きかった。毎日の日常の中から二人が消えるなんて想像も出来なかった。自分がこの先ちゃんとした人間に成長できるのか不安しかなかった。

 いなくなってしまった喪失感から涙が出たことはない。もう会えないことに涙が出たこともない。そんなのダサい。世間が思う模範的なことはしたくない。親が死んだら子供は泣く。当たり前のことをしたくはない。

 涙が出たのは、この世で一番恐ろしい姿を見たからだ。怖かったからだ。あんな化け物、もう見たくない。ひどく苦悶し、陰鬱な気分にさせられた。


 幸せだった。親が死んでから、誰にも注意されずに、自分が思うままの生活をするのは。

 でも、何をしても心にできた隙間は埋まらなかった。どんなに食事を温めてもなぜか冷たいままだった。どれだけ調味料を出しても味がなかった。

 それが彼らが残したものだった。そんなものが彼らの遺産だった。良いのか悪いのか。

 まだ金が少し残されていたことが救いだった。そんなものでしか彼らの価値を決めることができないなんて憐れだ。自分は。


 ちなみに数日後、マネージャーの桔梗さんに藤袴さんとLINEを交換したことがバレた。盗み見された。

「別にプライベートまでは干渉しないけど、また変な噂出るよ。」

 またって何だよ。

「別にこっちの勝手だろ。」

 そう言って誤魔化した。

 彼女は、知らないよ、とでも言うかのような冷たい視線を向けてから、さっさと早足でその場を去ってしまった。



 連絡先を交換したのは良いものの、特に連絡することもない。私は、スマホに映し出される彼の名前を見つめている。

 不思議。そんな言葉がよく似合う。でも、時々救ってあげたくなるような孤独な表情を見せる。

 惹かれた。認めたくはないけれど、お風呂に浸かっているときや一人で食事をしているときに、ふと思い出すのは彼の顔だ。

 恋愛的な感情は無い。でも、彼との空間では、未踏の地に足を踏み入れるような気持ちになる。それが、何だか夏の清々しさのように心地よい。

 彼を知りたかった。きっと全ては話してくれないけれど、知りたかった。

 食卓に置かれたグラスに視線が映る。影が何十にも重なっていた。一つのグラスはいくつもの顔を持っていた。


 それからしばらく経って。

 特に生き甲斐のない私は、休日、彼を公園に誘った。公園を選んだのは、一番近所だったから。それと、好きだから。日々、別々の生活をしている子供から老人までが、同じ空間でくつろぐ。泥だらけになって遊ぶ子供もいれば、ベンチに座り新聞をめくる老人もいる。とにかく自由な空間だから好きだ。

 意外にも簡単に誘いに乗ってくれた。暇だから予定があっという間に決まった。

 仕事の一つだと伝えてある。かしこまらずに取材できるからだと理由をつけた。


 その日。黒のスカートに白色のブラウスと仕事着に近い恰好をした。それは、自分の気持ちを引き締めるためでもある。

 待ち合わせ時間よりも7分早く着いた。

 サラサラと小川が流れている。その小川には小さな石橋がかかっている。小川の終点は深緑の木々に包まれていた。もさもさと茂る葉っぱをくぐるとその先は迷路のようになっていた。緑の世界に迷い込むように辺りを見渡す。穴の空いた天井からは青空が見えた。その青空はいつもよりも高く遠く見えた。

 やっぱり好きだな。東京に来てから一番初めに探したのは公園だった。

 影茶色のベンチに座った。

 雨のように降り注ぐ風が耳を覆う。緑に包まれた木々の影で一人休む。隣の人の話も聞こえないくらいに静寂が自分の中に広がっていた。

 口を閉じて、静かな世界に迷い込む。自分も風景の一部になったようだ。

 目を閉じていると、

「こんにちは。」

 と温かい氷のような声がした。

 想像していた顔が目の前にあり、安心する。帽子を深く被っていてよく顔は見えない。紺色のシンプルな服装だ。

「今日はありがとうございます。わざわざ休日に。」

 ベンチから立ち上がり丁寧にお礼をする。砂がアップで目の前に映った。

「別にいつでも暇なんで。」

 そう言いながら、彼は私の横に座った。その表情に変化はなかった。

 無意識に座っていた位置をずらした。距離を置いたのだ。理由は特にない。あるとすれば、あまりのオーラに体が強張ってしまったというようなとこだ。

「この辺にお住まいなんですか?」

 そう言いながら、彼の方に顔を向ける。

 すると、彼は驚いたように言う。

「家特定しようとしているんですか?」

 え?と聞き返す。焦りながら苦笑いをした。そんなわけない。

「はい、なんて言えないでしょ、普通。まあそうですけど。」

 結局、素直に教えてくれた。別に特別知りたかったわけではないのだけれど。ただの初めましての人との会話だ。

「昔からこの辺に住まれているんですか?」

 彼は、またかよとでも言うかのような視線を向ける。先も言ったけれど、特別な意味はない。

「いや、こっちに来るまではもっと田舎の方でしたよ。」

 謙遜しているようだった。やはり、東京というのは、自慢になるのだろうか。わからない。私も都会生まれではないけれど。

「失礼ですが、どの辺りですか?」

 彼は、もう観念したように抵抗なく口を開く。別に県か町を聞いたって他に情報が無いんじゃ特定できるわけではない。

「神奈川の厚木ってとこです。」

「え、私も同じです。」

 驚いて声をあげた。

 こんな偶然あるだろうか。どれくらいの確率なのだろうか。

「本当ですか?」

 そう言った彼は、今までで一番明るい顔をしていた。でも、その言葉には疑うようなニュアンスも込められているのだろう。

「もしかしたら、どこかで会っていたかもしれないですね。」

 なんて、ちょっと調子に乗ったことを言ってしまった。記憶が残る限りは、会ったことはないけれど。

 予想していたけれど、安定の無反応にもはや驚きもしなかった。ちらりと横目で横顔を確認した。何か考え事をしているかのように感じ取れた。

 それから、歓談とまではいかなかったけれど、たわいもないような話を日が暮れるまでしていた。と言っても、待ち合わせ時間が午後4時過ぎだったので、1時間少しくらいだ。でも、1時間も話が続いた。それが何だか少し嬉しかった。まだ出会ってから2日しか経っていないのに。

 記事にしてもしょうもないような内容ばかりだったけれど、一つだけ、彼の言葉で印象に残っていることがあった。

「ピンク色の空と青色の空、どちらが好きですか?」

 青空を眺めながら唐突にそんなことを聞かれた。その横顔の方が綺麗だったなんて言ったら、恋しているみたいに聞こえるかな。質問の内容はあまり考えていなかった。悩むふりをしていた。

「ピンク色の方が特別感がありますよね。青色はなんだか通常で飽きますよね。でも、いつも通りの安心感はあります。包み込んでくれるような。」

 話しながら、この問いかけの意図は何なのだろうかと考える。私の好みを知りたいだけのようには聞こえない。

 彼は私の回答を聞いてから、話し始めた。

「スポットライトが当たるのは珍しい方なんです。ありきたりだと思っているなんて損していますよ。自分たちは、青色を普通だと思っている時点で何かのトラップに嵌められている。」

 驚いた。こんな面白い考え方をする人だとは思わなかった。散歩をつまらないと言うような人かと思っていた。意外にも私と気が合いそうだ。自然とにこやかになっていた、と思う。自分では確認できないから実際のところは不明だけれど。

「ただ回数が多いだけで、基準になってしまうなんて可哀想だな。」

 ポツリと呟いた彼の言葉に、深く考えさせられた。確かにそうかもしれない。私たちは、天気だって何だって続けば続くほど、それが普通になってしまう。世界的な問題も、解決されずに続けば続くほど、緊急性は薄れていく。誰のせいでもなく、自分が悪いわけでもなく、自然のことなのかもしれない。しかし、視野を狭めてしまうのは、もったいないことだという自覚があった。

「これも親の言葉なんですけどね。」

 親の話を出されると上手く反応できない。彼と彼の両親の関係は、飴でできたガラスのように脆くて私が触れてはいけないようなものに感じる。精神的な距離感を感じる。


 足音を響かせながら家の廊下を歩く。誰もいないのに誰かに帰ったことを知らせているようだ。

 カーテンをパッと開くと、西日に部屋中が照らされた。光と影の縞模様ができた。

 その光に埃が照らされていた。白く舞っていた。でも、その正体を知った私は、その埃を綺麗なものと捉えることができなかった。

 今日の取材で、少なくとも他人からは昇格できたと思う。

 別に彼に近づきたいわけではない。いや、それは嘘になるのだろうか。とにかく冒険がしてみたかった。ただの好奇心だ。

 記者をやっていてよかったと初めて思えた瞬間かもしれない。とりあえず、誰でも出来そうななんて言ったら失礼だけど、簡単に出来そうな仕事を選んだ。

 今のところ、特に生き甲斐があるわけではなかった。仕事をして、家に帰って、スマホを見て頬をほぐして寝る。機械的でつまらない生活を送っていた。

 だから、非日常で不規則なことには心が躍る。異常に彼が頭から離れないのもそれが原因なのかもしれない。

 多分、私は彼の自由奔放さに惹かれている。

 そんなことを考えながら小分けにされた薬を口に詰め込む。もう習慣化しているので、忘れることはない。病気を発症したのは、中学生の頃だった。それからは、日常が少しだけ愛おしくなった。



 朧月夜。

 僕は、静まり返った道路に足を踏み出す。黒い服を見に纏い帽子とマスクと出かける。

 目的地は、都会の居酒屋。中学の同窓会がある。正直、行くのもめんどくさいし、人と会話を交わすのもめんどくさいから出来ることなら行きたくなかった。連絡が来たのだけれど、既読無視をするつもりだった。でも、どうしてもって言うから、しょうがなく家からぬるぬると出てきたわけだ。


 居酒屋に着いた。店に入った。何人かが久しぶりと言いながら近づいてくる。

 まじまじを顔を見られる。正直今すぐにでもここから脱出したい気分なのだが、笑顔を貼り付けなんとか誤魔化す。

 あっという間に、話題の中心に立たされてしまった。みんなが頼んでいるのと同じものを頼む。出る杭は打たれることを知っているから。しかし、芸能人っていう時点で出る杭だ。それは避けられない。

 必要以上には答えない。質問されたらそれに返すだけ。自分から話すことはない。それを保っていた。

 すでに酔っ払った名前も覚えてないようなやつに話しかけられる。

「ぶっちゃけさ。色んな噂出てるけど、どうなの?」

 薬のようにビールを摂取している。いきなり肩を組んできた。そんな仲ではなかったはずだ。

「事実無根。それだけ言っておく。」

 冷静に済ませた。そう言いながら肩に乗せられた重みのある腕を振り払った。

 別にこいつに嫌われたところで何の害もない。生涯のうちで、後何回会うだろうか。一度も会う予定はないようなやつとの関係なんて忘れてしまえばなかったも同然。

「えー、ほんとに?ほんとのほんとはどうなの?」

 うざい。軽く睨みつける。

 本当にそれだけだと言うとその場を離れた。トイレに行くと伝えた。

 疲れる。もう帰ろうかな。そう考え、手をハンカチで拭きながらトイレを出ると、名前も覚えてないような女子に囲まれていた。連絡先交換しようだって。

 紳士的な対応が出来れば、まあモテるのだろうけど、別にモテたいわけじゃない。それに、キャピキャピしていて疲れる。

 どうせ周りに自慢したいだけなんだろ、って言うとみんな黙り込む。

「やっぱりそうなんだ。」

 そう言ってその場を離れる。

知ってるよ。不登校気味で、クラスに迷惑ばかりかけてきた僕なんかに、誰が寄ってくるって言うんだ。知ってるから、掘り出さないで欲しい。こんな世界に入ってなければ、誰にも覚えられていないんだ。端っこでスマホでも見ているようなやつだっただろう。

「連絡先交換してくれないか。」

 またかよ、って思って振り向く。見慣れた顔にびくりと震えた。学生時代と顔があまり変わっていないから即座に誰なのか認識できた。

「なんでお前が。」

 葛宮くずみやだ。中学の時からの知り合いだ。こっちは友達未満のつもりだったのだけれど、異様に近づいてくる。目的がわからないから勝手に恐れている。冷酷無惨な人間だという印象しか残っていない。

「娘がお前のファンなんだ。たまに連絡させてやりたい。」

 妙に納得できる理由だ。彼は笑顔を浮かべていた。似合わないな。無理矢理貼り付けているのが見え見えだ。

「娘なんていたんだ。」

 この歳で子供なんていくらなんでも早すぎるけど、ありえない話でもない。そもそも結婚していたのか。

「別に良いけど。」

 そう言ってスマホを取り出す。それと同時にスマホは取り上げられる。そして、彼はそれを持って、店の外に突っ走る。

 一瞬何が起きたのか分からなかった。即座に彼を追った。店を荒々しく出てから左右を見渡す。しかし、すでにその姿は消えていた。夜道の中を一人歩く。全く、どこに行ったんだ?何が起きたのか不思議で仕方ない。

 5分あまり彷徨い続けた結果、怪しい姿を見つけた。細い路地の壁を背もたれにしながら、僕のスマホを一旦集中に見つめている。スマホの光が彼の顔を炙るように輝かせる。

 猫に近づくように、ゆっくり距離を縮めた。

 足音に反応したのか。葛宮は、一度こちらを見ると呟いた。

「履歴は消したのか?それも無理もない。危ない証拠を残すわけないからな。馬鹿だった。」

 何を言っているんだ?さっきから何が起きているのか全く理解できない。

粟瀬花あわせはなって知ってるか?」

 まるで尋問を受けているようだ。こいつの行動全てが頭にくる。言い方も表情も。自分が一番正しいかのように振る舞う。

「もちろん。最近見なくなったけど。」

「その原因は?」

 間一髪いれずに問いかけられる。睨みながら答える。

「不倫だろ?そりゃ知ってるよ。」

 あくまで冷静を装った。別に隠すようなことがあるわけではないけど、動揺するのは情けない証拠だから。

「単刀直入に聞くけど、その不倫相手、お前だよな?」

 随分と詰め寄ってきた。

 何を言ってるんだ。頭がおかしくなったのだろうか。

「言ってなかったけ?昔から大ファンなんだ。ずっと心の支えだった。」

 そんなこと、別に聞いてもない。勝手に続けて話し出す。

「不倫と騒がれた原因となった雑誌の写真。顔は写ってないけど、完全にお前だった。」

 彼は泳ぐ僕の瞳を捕まえた。反対に捕まえ返す。

「それだけじゃ、証拠にならないだろ。」

 明らかに証拠不足だ。

「だから、今探した。」

 やっと難問が解けた。それで強制的に取り上げたのか。

「でも、なかった。事務的なことしか、この携帯には入っていなかった。」

 このってことは、まだ他に所持しているとでと言うのだろうか。確かに別に携帯はあるけれど、それに彼女との写真なんて一枚も持っていない。時間の無駄だ。

「カバン貸して。」

 やっぱり読みは当たってしまいそうだ。カバンなんて店内に置いてきた。わざわざ持ってくるわけないだろ。

 黙ってもう一つのスマホを取り出す。やはりそれが狙いだったようで、再び顔をブルーライトで照らした。

 その様子を高みの見物で眺める。

 しばらくして、諦めたように顔を上げた。そして投げ捨てるようにスマホを返される。失礼なやつだ。

 葛宮は何も言わずに店内に戻って行った。ため息をついてから、僕もその後を追う。

 後で聞いたところ、葛宮は今刑事をやっているらしい。めんどくさいことに巻き込まれそうなそんな予感がした。

 今日は飲みすぎた。結局あれからは何事もなかったかのように店に戻り飲みまくった。

 もうこのまま寝てしまいたいのだけれど、明日も仕事がある。明日の朝、風呂に入る気にはなれないだろう。じゃあ、今入るしかない。

 シャワーの水が目に張り付く。目を覚ますために上を見上げる。

 水が透明なイルミネーションのようにぼやけて見えた。丸い水の粒の中に、細胞のようなさらに丸いものが見える。それは光に反射して、虹色に彩光を放った。

 一番美しいものは何か、そう問われたら間違いなく、水だと答えるだろう。それくらい神秘的だった。

 痛みを加速させるように水を追加する。

 お風呂から上がる。カーテンの合間の暗闇が気になり、カーテンを几帳面にぴったりと閉じる。こればかりは気になってしまうのだ。

 もう何もしたくない。でも、歯磨きだけはして、ベットに潜り込んだ。冷たかった。


 それから何日か経って。

 粟瀬さんから連絡があった。うちに来て欲しい。そう言われた。そんなことしたらまた、あいつが騒ぐ。わかっていたけど、断る理由もなかったので足を運んだ。

 何度か休日に会うことはあったけれど、家にお邪魔するのは初めてだ。本当に邪魔にならないといいのだけれど。

 送られてきた住所はなんだかとても価値がありそうに思えた。もし売ったらいくら儲かるのだろうか。実行には移さないけど。

 到着した。目の前に広がるのは、誰が見ても認めるような豪邸。まあこれくらいは稼いでいてもおかしくないか。葛宮の情報など結婚しているみたいだし、相手がとんでもない金持ちなのかもしれない。

 ピンポーン。チャイムの音もなんだか高級感があった。錯覚しているだけなのかもしれないけれど。

「はーい。」

 元気な声を上げながらそう言った彼女は相変わらず派手な格好をしていた。

 その後ろの人影が目に入った。結婚相手だろうか。恐る恐る顔を上げる。

「え?」

 視界に映るその顔に驚きのあまり言葉が出なかった。

「葛宮?」

 豪邸に似合わない男がいた。

 その瞬間に全てを理解した。多分、試験1分前でまだ半分も問題が解けていなかったときより、頭の回転速度は早かったと思う。

「なるほど。そういうことだったか。」

 自分を落ち着かせるように呟いた。

 葛宮の薬指に飾られた指輪が確信へと導いた。

「どうやったら出会うの?」

 一番初めに浮かんだ疑問はそれだった。どう考えてもおかしい。

「お前、何か裏の手でも使った?」

 葛宮に問いかける。

 返事はないどころか哀れな目で見つめられる。隣を見ると粟瀬も同じ顔をしている。時が止まり、自分だけが動いているようだった。

「とりあえず、入って。邪魔になるから。」

 静止から解放された粟瀬が言った。半ば強制的に家内に入らさせられる。

「そこ座って。」

 粟瀬が示した指の先には、食卓の椅子があった。命令通りに座ると、反対側に二人が座る。まるで何かの面接のようだ。堅苦しい。

 よく考えてみれば、別々の知り合いである二人が結婚するなんてすごい偶然なのではないだろうか。一人だけウカウカしていた。

「前も聞いたけど、」

「だから、違うって。」

 同じ説明を受けるのは、時間の無駄だからさっさと返答した。

 黙り込んだ二人の様子を見て察する。もしかして、それだけのために呼ばれたのか?別に電話越しでもいいじゃないか。

「一回、粟瀬と話がしたい。」

 ずっと黙っていても帰られそうになかったから、誘った。

「つまり出てけって?」

 葛宮の言葉に頷く。彼は、粟瀬を横目で見ると、静かに部屋を後にした。きっとどこかで盗み聞きするのだろう。聞こえないように小さな声で話すとするか。

 ドアがバタンと閉まる音がした。それを確認すると、彼女に問いかける。

「どうゆうつもり?」

 すぐに返答はなかった。

「わからない。写真撮られたのは知ってるけど、それだけであんなに怒る?」

 その反応にホッとする。裏切られたわけではなかった。俺を見捨てることも可能なはずだけど。

 そもそも、結婚相手が浮気したとして、なんでその浮気相手しか責め立てないのだろう。いくらなんでも理不尽だ。あくまでも仮定の話だけれど。

「さあ。被害妄想が激しすぎるんだよ、昔から。」

 本当に面倒がかかるやつだ。

「とりあえず、適当に誤魔化しておいて。」

 彼女は黙って頷いた。

「それにしても大分炎上してるみたいだな。」

 こんなことを直接言うのはどうかと思うが、彼女の反応が知りたかった。一応、責任は感じているから。

「本当に良い迷惑よね。そのせいで仕事が全くない。しばらくは潜んでいようかしら。」

 想定していたより、落胆してはいなさそうだ。まあある程度稼いでいるし、結婚もしているから、誤解さえ解かれれば問題はないのだろう。

「写真についてどうゆうつもりなのか、何度も聞かれるんだけど、そこまで距離が近いわけじゃないのにね。」

 相槌を打つように頷いた。

 彼女が言うように、腕を組んでいるわけでもなく、手を繋いでいるわけでもなく、友達程度の距離感で映っている。

 相手が僕だってことがバレていないのは、不幸中の幸いだ。

 彼女に思いやりの心があってよかった。隣に映る男の正体が僕だって、暴露することもできるはずなのに。

「もう帰っていい?」

 彼女が寝返っていないことを知るために来たと思えば、無駄じゃないと思える。でも、これ以上は必要ないはずだ。

「いいよ。見つからないようにね。」

 まるで葛宮が鬼かのような扱いをされていて、ちょっと笑った。

 鬼の居ぬ間にさっさと家を出る。後は彼女が上手く片付けてくれることを祈る。

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