ゴルナーグラートの山道

スイスにツェルマットという町がある。

マッターホルンの麓に位置する山間の町で、天候によっては町を歩きながらマッターホルンの頂を眺めることができる。

町からは登山鉄道が出ており、終点のゴルナーグラート駅はなんと標高3,089mだ。(駅から少し歩くと展望台にたどり着くが、そこは駅よりも更に高い位置にある。)


あれは確か2018年。

その年の10月、わたしは一人でツェルマットを訪れた。

到着してすぐ登山鉄道に乗り込み、気がつくと展望台からマッターホルンを眺めていた。

マッターホルンの壮麗さや展望台について書き連ねるのはやめておく。

わたしなんかが偉そうに書くことではない。

ともかく、展望台を一通り見て回ったわたしは、駅を離れることにした。

ツェルマットまで鉄道で戻ることもできるが、ハイキングで下りていくこともできるようなので、わたしも途中の駅まで歩いてみようと思った。


夏の観光シーズンが過ぎたからか、展望台から下りていく山道は混み合っていない。というより、すごく空いていた。

人の姿が多く見られて賑やかだったのは、道中にある有名な湖くらいだった。

ゴルナーグラート駅を出て湖にたどり着くまでは、道に迷ってしまうくらい人の数が少なかった。


湖の眺望を楽しんだ後は、次の駅を目指して更に進んでいく。湖を越えると、見かける人の数は一層少なくなった。

目に映るのは、無骨な山道と、凄みのあるゴツゴツとした山肌ばかり。

登山鉄道の線路も、もう見えない。


10月で、気温は決して高くなかったはずだが、晴天のなか歩き続けていると暑さを感じた。日光を避けるため帽子を被るが、秋冬用の帽子を持ってきてしまったせいで、帽子を被るとそれはそれで暑苦しい。

わたしは一人、帽子を取ったり被ったりしながら黙々と歩いた。


ふと立ち止まると、周囲に一切の物音はなく、静寂が山道を支配していた。

山道と言っても、傾斜のきつい道ではない。

そこはほとんど平坦に感じるくらいなだらかな道で、視界が見事に開けていた。

前後左右を見回してみる。

誰もいない。

どこまでも続くようなその道には、わたしの他に誰もいなかった。

人もおらず、人工物も見当たらない。

見えるものは、土と、草と、岩と、空・・・とにかく、自然だけだ。

そこは人の世界ではなく、自然の世界だった。

時の流れが存在しないような、不思議な世界。

そこは穏やかで落ち着いていて、居心地が良かった。

このまま溶け込んでしまえたらどんなにいいだろう、そう思ってしまうくらい。

心細さを感じていたわたしを、スッと安心させてくれた。

同時に、突き放された気もした。

自然の持つ、太刀打ちできない威厳のようなものを見せつけられ、そこに入り込む余地などないのだと思い知らされたような気がした。


帰らないといけない。

わたしは再び歩き出した。

少し経つと、遠くの方に建造物の姿が見えた。

線路らしきものも見えた。

道の先に、登山鉄道の駅が現れた。

まるで夢から覚めたような感覚。

駅を見つけて安堵したが、なんとなく、寂しい感じもした。

込み上げてくる感情に追い立てられ、わたしは足を早めた。


駅の前はがらんとしていたが、だんだんと人が集まり始めた。

先ほどは前にも後ろにも誰もいなかったのに、一体どこから現れたのだろうと思うくらいだ。

一息つき、駅のホームに入場した。

ゆったりと、登山鉄道がやってくる。

たくさんの乗客たちと共に、わたしはツェルマットに戻った。


夕方の町はまだ明るく、賑やかだった。

悠然と構えるマッターホルンの頂が、町を見守っていた。

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