壁際のホットコーヒー
カフェに寄るのが好きだ。
駅の構内にあるカフェ。そこに長いこと通っている。
「カフェ」といっても雑誌で紹介されるようなお洒落で個性的な店ではなく、
どこでも見かける某チェーン店だ。
壁際の席に座って、ホットのコーヒーをすする。
その瞬間が、一日の中で一番リラックスできる瞬間かもしれない。
コーヒーはもちろん美味しいのだが、もはやコーヒーの味は関係ない。
壁に身体を寄せるようにしながらドサっと腰を下ろし、ちょっと格好つけてコーヒーの香りを確かめ、そして口に含む。
その一連の行為がわたしを落ち着かせるのである。
椅子の表面はボロボロだし、季節によっては虫が飛んでいる。
前に座った人が落としていったパンの欠片が、床を彩っている。
そういうあれこれ全てを含めて、この店が好きだ。
働く店員さん達の顔ぶれが変わっても、ローカルで入りやすい雰囲気は変わらない。だから、いつもこの店に立ち寄ってしまうのだ。
夕方、帰宅ラッシュもひと段落して落ち着いた時間帯。
店内は空いていたが、ガラガラというほどではなく、仕事帰りや学校帰りと思しき人の姿がチラホラとある。
わたしはお気に入りの席に座り、チラリと視線を上げた。
この人達もわたしと同じく、一番リラックスできる時間を味わっているのかな。
なんて、勝手なことを考えてみる。
コーヒーを一口すすり、しばし想像する。
『まだ家には帰りたくない』
ひょっとすると、みんなそう思っているのかも。
家に帰れば、食事やお風呂の支度をして、明日の準備をしなければいけない。
一日を終えて、また一日を始めるための活動をしなければいけない。
つまり、先に向かって動かなくてはいけないのだ。
先に進めるのは幸せなことだけど、それでも、くたびれてしまう時がある。
家に帰る前に、立ち止まる時間が、動きを止める時間が必要だ。
もみくちゃにされながら一日を乗り切った後に、停止できる瞬間。
停止できる、場所。
それがないと、やってられない。
だからここに来て、コーヒーを飲むのだ。
大袈裟な表現だろうか。
心の中で苦笑する。
だが、どこかホッとした空気、安堵感のようなものが店内に漂っているのは、
気のせいではないと思う。
もう一口、コーヒーをすすった。
カップをソーサーに下ろすと、カチャリという音がする。
お客さんが注文している声が聞こえる。
どこからかパンの良い匂いがする。
よいしょと椅子に座り直すと、破れた座面が優しく受け止めてくれた。
慣れ親しんだ感覚に包まれ、心身の緊張がほぐれていく。
コーヒーの残りはあと少し。
大事に、大事に飲んでいこう。
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