第6話 回想しろ
身体がふんわりと浮かび上がる。それと同時に頭の中で何かが破裂し、何かが染み渡った。まるで蜜が詰まった風船が割れ、そのドロリとした温かな蜜が、脳の隅々まで浸透していくような感覚だった。
この上ない快楽だった。密は留まる所を知らず、脳を満たし続ける。脳内のあいつが、「よくやった」と言わんばかりに、快楽物質を放出し続けているのだ。
僕のとった行動は間違っていなかった。あまりの快楽にそう思わざるを得なかった。
身体は暗闇に向かって徐々に降下しはじめていた。宙を彷徨う虫達が放つ桃色の灯りが、まるで流星群のように視界に飛び込んできては、そのまま過ぎ去って消えていく。
こんな幻想的な景色のおかげか、奈落の底に飛び込んだというのに、落下しているというよりは、飛んでいるという感覚に近かった。
試しに両手を広げてみる。残念ながら羽ばたくことは出来そうになかったが、しっかりと空気を受け止めているこの両手が、空を優雅に滑空する鳥の翼と同じように思われた。
流星群に逆らいつつ、優雅に滑空しながら僕は考えた。
崖下へ飛び込むに至るまで、何故こんなに複雑な指示が出されたのか。最大の疑問はここだった。
最初の指示は、僕が崖から足を踏み外しそうになった際に発され、それで僕はおそらく転落死を免れた。次の指示は、とうとう怪物達に追いつかれ、振り返ってその姿を視界に捉えたとき。脳内のあいつは、その怪物達の方へ「行け」と命じた。
そして、律儀に従った僕は、怪物達に向かって駆け出し、そして身近な一匹に全力の一撃を放った。あいつが「行け」と言ったから、僕は頑張って攻撃したのだ。それなのに失敗。歯が立たなかった。それと同時に、あいつは朝令暮改どころではない早さで手のひらを返し、激しい警告を出した。結果、僕は、現在飛び降りている奈落の底に向かって逃げざるを得ず、そして走っているうちにあいつは「飛び込め」と命じた。
この一連の複雑な指示、おかしな点はいくつかあった。まず、どうして足を踏み外しそうになったときに、わざわざ警告を出して僕を止めたのか。結局のところ、僕は同じ闇の底に落下しているのだから、わざわざ鈍い頭痛を引き起こしてまで止める必要はなかったはずだ。
そして何故、怪物たちと対峙するというあまりにも危険なワンクッションを置くような指示を出したのか。
強い重力と空気の抵抗をその身に受けながら考える。最初の落下未遂と、現在行われている優雅な滑空。この両者の決定的な違いは何か。まず思い当たるのは覚悟だ。しかしこれは不正解な気がする。落ちる際のメンタルが少し違う程度では、転落死は避けられないはずだ。取るに足りないような覚悟があったところで、結果的に事故死が自殺に変化するだけだろう。これが指示の目的だとは到底思えない。
メンタルに関する違いではないとすると、考えられるのは物理的な状況の違いだ。落下と滑空の決定的な違い…。
勢いだ。
真下に落ちようとした僕に警告が出されて、走っていた僕に「飛び込め」と命じた理由。それは勢いよく飛び降りさせるため。どうして勢いが必要なのか。それは落下地点を変化させるため。
おそらく、崖の真下には、ただひんやりとした不愛想な地面しかないのだろう。そして、その一方で僕が滑空する先では、温かく受け止めてくれる何かがきっと待ち構えている。
合点がいった。多少荒々しい指示だが、それほどまでに窮地に追い込まれていたのだろう。そして僕は指示に忠実に従い、無事に正解のルートへ飛び込んだのだ。
相変わらず、桃色の星が流れ去っていく。怪物たちの恐ろしい姿を除けば、窮地にしてはあまりにもぜいたくで、幻想的な景観だった。感傷に浸りながら、着地点に思いを馳せる。憶測でしかないが、間違いなく暖かく素敵な何かが僕を受け止めてくれる気がした。不安はなかった。
安心感と達成感、そして幾許かの期待を胸に、僕はゆっくりと目を閉じた。桃色の灯りの残像が、風を受けているまぶたの裏でゆらゆらと揺れていた。
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