第2話 踏み出すな

 僕は踏み出そうとした右足を、左足の隣へと戻す。頭痛と耳鳴りが急速に治まっていく。

 そして落ち着きを取り戻し、恐る恐る真下の暗闇を覗く。

 たくさんの桃色が浮かんでいる。それぞれの濃淡は異なっていて、まるで夜空の星空を思わせるような、そんな圧倒的な奥行きを感じる光景だった。


 これは決して真っ黒な地面などではなかったのだ。それに、ここは行き止まりでもない。


 崖だ。僕が右足で踏み抜こうとしたのは、見えない地の底へと繋がる虚空だった。崖下は底が全く見えぬほど深かった。


 助かった。明らかに脳内ののおかげだ。僕は純粋にそう思った。あの重低音の耳鳴りと頭痛がなければ、この虚空に足を踏み出し、全身を地底に強く打ち付けて息絶えていただろう。安堵のため息をたっぷりとつく。


 しかし、状況を把握するにつれて不安が押し寄せてくる。僕が走り続けたこの洞窟は、幸いにも袋小路ではなかったが、行きつく先は崖だった。飛び降りるにはあまりにも底が見えなさすぎる。

 結局のところ、袋小路が断崖絶壁に変化しただけなのだ。僕が追い込まれている絶望的な状況に、大した変わりはなかった。


 こんな所で死ぬはずがないのに。放心状態で佇んでいると、耳がさらなる異変を感じ取った。


 後方の足音が無くなった。崖下に気を取られているうちに、いつの間にか足音は止んでいた。後方に何かの気配を感じる。

 ここから考えられるのは二つ。一つ目は、何らかの事情で、追っ手がこれまでの道を引き返したケースだ。その何らかの事情とやらは一つも思い浮かばないが、彼らにとって何らかのイレギュラーが発生し、そして帰路についたのかもしれない。僕は、段々と小さくなる足音には気付かず、知らぬ間に窮地を脱していた。後方の気配はただの気のせい。十分に有り得そうだ。

 二つ目は、追っ手と僕の距離が縮まりきったケース。彼らは、脳にエネルギーも割かずに走り続けていた。一方で、僕は足を止め、とコミュニケーションを取っていた。追いつかれるには十分な理由だ。


 直感が、一つ目が正解だと告げている。ではなく、僕自身の直感だ。順当に考えれば、二つ目、既に追いつかれたという結論が正解のように思える。しかし、特に根拠は無いが、直感は電撃を放つように「彼らは引き返した」と僕に告げている。


 意を決して振り返った。


 たくさんいた。

 黒々とした化け物が数えきれないほど山ほどいる。彼らはその身を支える細長い足を、絶えず地面にカサカサと擦り付けていた。全く可愛らしくない何対ものつぶらな瞳は、追い詰めた獲物を品定めしているかのように、そのすべてが僕の方へ注がれていた。

 順当に追いつかれていたのだ。


 参ったな…。思わず苦笑いを浮かべながら、彼らを視界にしっかりと捉えたその時、またしても耳鳴りがした。

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