第一章 代わり映えない日常

第2話

 朝、教室の扉をくぐって、いつもの席の方に向かう。


「おはよ〜」


 わたしが言うと、


「おはよう」


 ハルカも笑顔で返してくれる。


 ハルカはため息が出るほどの美少女。明るい栗色の髪で、スレンダーなのに、ちゃっかり胸だけはたわわで、短いスカートからすらりと伸びる脚も透き通るようでアイドル顔負けのプロポーション。ちょっとギャルっぽい感じだけど、そのギャル要素筆頭の茶髪は地毛らしい。なんと羨ましい。

 わたしが席に座ると、ハルカは席ごとこっちに向けてきて、


「さき、この問題解けた?」


 って聞かれるけど、もちろん、わたしは解けているわけがない。


「ううん。あの先生が出す問題、明らかに難易度あってないよね」

「ああ、なんかあの先生、東大卒らしいよ」

「え、そうなの? 確かになんか賢そうな雰囲気はあるけど……」

「でも、あたしら別に受験するわけでもないのにね」

「ほんとだよね」


 こんな感じで、あとはチャイムが鳴るまで、グダグダ駄弁っていればいい。そういういつも通りのあたりまえの日常。


 クラスをざっと見渡す。出席率は70%くらい。これもいつも通り。


「あれ、あの中学生クン、来られるようになったんだね」


 教室の真ん中の方で、他のクラスメートたちに囲まれている。ここ一週間くらい寝込んでいたらしい。


「まぁ、そのほうが気も紛れるし、その方がいいわよ。一人でいてもろくなことなんてない」


 ハルカは吐き捨てるように言った。でも、わたしもそれに賛成だった。

 一人でいるとろくなことにならない。全くその通りなんだ。


 チャイムが鳴った――と同時に先生が教室に入ってきた。


「授業やるぞ〜。学年順に座ったか?」


 廊下側から小学生、中学生、高校生の順に固まって座る。

 全校生徒が少ないから、一つの教室に集まって授業をすることになっている。

 わたしは転校してきた身だから、最初こそ違和感があったけど、それにももう慣れてしまっていて、むしろこれが普通で、あたりまえのこと。


 教室の右前の方を見る。小さい小学生たちはわいわいと教え合ったり、ふざけ合ったりしていてほんとうに楽しそう。子供らしい無敵の笑顔をしている。


 わたしはニッと口角を上げてみる。うーむ。あの笑顔は作れそうにない。

 手許てもとの教材をシャーペンで汚していく。わたしは勉強が好きだったろうか。どちらかというとわずらわしいものだった気がする。


 だとしても、今日も今日とてガリガリと黒鉛で紙を刻んでいく。


 ――何かを書き留めて忘れないように。


 空白を黒で埋めていく。空白があれば黒で埋めていく。


 ――何かを掻き消して忘れてしまいたいかのように。


「あ」


 ポキリと芯が折れた。

 シャーペンを置いて、窓の外を見る。今日は晴れだ。快晴ではないけれど。

 しかし、本当に何もないな……としみじみ思う。ここは「ド」のつく田舎だ。


「ハァ」


 溜息が自然に出た。

 どうしてかわからないけど、ふと、手紙を書きたいと思った。

 レターセットもなければ、宛先も宛名もないのだけど。

 漠然と手紙を書いて、誰かに読んでほしいと思った。

 文章をくだくだ書いて、一方的に送りつけてやりたいと思った。


 広げた教材に目を落とす。


 一体、こんな勉強がいつどこで役に立つというのだろう。教師になりたいわけでもないし、研究者とかになりたいわけでもない。受験だってしない。

 もちろん、知的好奇心旺盛ガールでもない。やっぱり勉強は好きじゃない。授業に出ると宿題が出されるから、やっぱり煩わしい。


 でも、勉強をしているのは、授業に出席しているのは、安心感がほしいからなのだと思う。授業に出ると学校じゃなくて、「いつも通りのあたりまえの日常」に出席している気がする。

 こんな些細な安心感がほしいから出席しているのだろうなと思う。


 待ちに待ったチャイムが鳴った。


「わー、お腹減ったぁ」


 授業中も腹の虫が鳴かないように身を捩ったりして大変だった。どうしてあの音は聞かれると無性に恥ずかしくなるのだろう。


「今日の給食はなんだろね」

「いつもとそんな変わんないでしょ。この食いしん坊」

「しょうがないじゃん。その分、運動するんだから」


 そう言うと、ハルカは顔を翳らせる。


「ねぇ、さき。あんたは別に……」

「ほら、食堂行こ? もう空腹が限界で死んじゃう」

「う、うん……」


 ハルカは不承不承と言った感じで、わたしたちは一階の食堂に降りていった。


 出された給食はいつもと代わり映えのしない、質素で簡素なものだった。不味くはないけど、お世辞にも美味しいと言えるものじゃない。でも、わたしにとってはこれで満足だった。


 食べ終えて、午後の授業をやり過ごす。窓の向こう側で、青い水彩絵の具が白い綿に染み込んでいくみたいに、青空がじわじわと広がっていった。どうやら、わたしは授業中ずっと空を見ていたらしい。

 放課後になって、教室で適当に時間を潰す。傾いた陽はまもなく地平の向こうへと沈んで行きそうだった。

 その頃には教室にいた生徒たちはみんな居なくなっていて、居るのは後ろに体重をかけて椅子をゆらゆらさせているわたしだけ…………ガタンッ――!!


「っ〜〜〜〜〜」


 椅子のK点越えをしてしまって、後ろに転んでしまった。頭は打たなかったけど、代わりに背中が犠牲になった。ジーンとする。


 机が大いなる一歩を踏み出したみたいになって、整然としていた教室に特異点を作り上げてしまった。

 わたしは倒れたまま、天井を見た。


「知らない天井だ…………」

 ――なんつって


 天井の方に手をのばす。教室に灯りは点いていないから、地球が回るのに合わせて、どんどん暗くなっていく。

 そうすると、掲げた手の平にインクみたいな暗闇が溜まっていって、やがて溢れて顔にかかった。すると、インクは生まれたての泉のように、教室の底から溢れ出して、水位が上がって渦巻いて、わたしを呑み込もうとした。


「早く行かなきゃ」


 息ができなくなる前に、わたしはインクの海から上がって、教室から脱出した。

 それから、日が沈んで、「夜」がやってきた。

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