第7話

「あーあ」


 起きたときにはとっくに授業が終わっていて、哀夢はいなくなっていた。

 明日はハルカにも午後の授業に出てもらって、起こしてもらおうかな。

 わたしは廊下に出て、なんとなくぶらつく。

 哀夢を探すというのもあったけど、なんとなく歩きたくなった。

 校舎を散策していると、職員室の前あたりで、後ろから声を掛けられた。


「またたき」

「はい?」


 振り返ると、凛と咲く花も萎んでしまうような爽やか美人がいた。

 こうやって不意に現れるだけで、わたしの中の時が止められてしまったような気分になる。

 いけない、いけない。恍惚うっとりとしている場合じゃない。

 わたしを呼んだのは玉兎ぎょくと先輩だ。中性的な儚げイケメンで、スタイルも抜群。さながらプリンス。性格も優しいから、女子からの人気はすごい。


 いつかこの人を、月と夜桜をバックにした写真を撮ってみたい。

 いけない、いけない。妄想コケットリーしている場合じゃない。

 その銀橋の上を歩いていそうなプリンスを苗字呼び、名前呼びなんてしたら、ファンの嫉妬を買い叩くようなものだから、わたしは「先輩」って呼んでいる。

 ただでさえ、わたしには事情があって、先輩に気にかけてもらっているのだから。


「珍しいな。こんなところで」

「なんか歩きたい気分で……」

「そうか」

「それより、何か用でしたか?」

「いや。ただ、珍しかったから声をかけただけだ。なんでもない」


 といいつつ、先輩はどうしてか相好を崩した。


「まぁ、良かったよ」

「何がですか?」

「校舎の中じゃ、あまりお前の姿を見られないからな。なんだか楽しそうで良かった」


 楽しそう……どうだろう。楽しいのか、自分でもわからない。

 というか、先輩はこういうことを平気で言うからダメなんですよ。この顔、この声で、「キミのことを気にかけているよ」なんて言っちゃいけない。まったく、魔性の人だ。


「ま、今日も頼むよ。またたきがうちの最後の砦なんだからな」

「あはは。そんな、大袈裟な……」


 先輩は最後に莞爾かんじとして笑って、わたしとは逆の方向に行ってしまった。

 その微笑みは呪いだ。残影が目の奥でずっと浮かび続けてしまう。


「はぁ……。やっぱ、イケメンだなぁ……」


 わたしは胸を撫で下ろした。トクトクと鼓動が跳ねている。

 先輩と会話するときは、どうも緊張する。ちょっと肩が強張こわばってしまっている気がする。あと表情をできるだけコントロールしなければいけない。そうしないと、スライムみたいに蕩けてしまう。


 もしかしたら、これが「好き」ということなのかもしれないけど、ちょっと違う気もする。どうも、先輩は自分から遠すぎる、空の上の存在に思えてしまう。

 でも、仮に、先輩側から言い寄ってきたら、絶対に拒めないだろうなと思う。

 もうそこからは成り行きで、もうそれはあっという間に…………。

 なんて、起こり得ないことに脳がだらだらと涎を垂らす。


 それから小一時間歩き回ったけど、結局、哀夢の「あ」の字も見かけなかった。

 たまに知っている人に見なかったかと訊いてみたりしたけど、みんなだいたい顔を顰めつつ、首を振る。


「うーむ……」


 わたしがここに来るより、一、二週間早くここに来ていて、で、哀夢が嫌われている理由をわたしが知らないということは、おそらくその一、二週間の間に何かあったのだろう。

 まさかここで殺人があったわけじゃないだろうけど、あいつが何か暴れたとか、喧嘩したとかで、必要以上の暴力をはたらいたから大仰に「殺人犯」なんて言われてしまった。で、その背景が全部消えて、「殺人犯」という部分だけが広がってしまった――これがいまのわたしの仮説。


 これなら、どうして噂ばかり広がって、どうして噂が広がったかを知っている人がいないのにも説明がつくし、納得もいく。ただ、全く証拠はないのだけども。

 やっぱり、わたしはあいつが殺人犯ということを認めたくないのだと思う。あいつが殺人犯だったら、わたしの日常は日常でなくなってしまう。

 日常はあたりまえにやってくるからわかりにくいけど、すごく脆くできていて、あいつみたいに風でも吹けばぽっきり折れてしまいそうな男子一人にも簡単に壊せてしまう。


 ――わたしはこのかけがえのない日常を絶対に失いたくない。


 だから、もし、あいつが殺人犯だったら――わたしはあいつを排さねばならないかもしれないと思った。

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