シュレッダー
登崎萩子
親友
結衣の家に来るようになって一年くらいたつ。新しいマンションでインテリアも凝っている。革張りのソファーにダイニングテーブルも居心地がよかった。
やっぱりカギがかかる部屋が一部屋あった。なんで外カギなんだろう。完璧に見えるのに、後からつけたこの鍵のせいで、この家はモデルルームとは程遠い。
「美月ちゃん、料理美味しくなかった?」
「いえ、おいしいです」
母親同士で話していると思っていたので、びっくりする。優子さんは母がパートをしているところに応募してきた。
真っ黒な髪で、きちんとブローしてあって艶がある。眼鏡をしているせいで、優子さんは銀行の人って感じがする。母は、いつもカラーリングをしているから当然のようにパサついていた。
「優子さん、あの新しくできたカフェでコーヒーのんでみた?」
母の方を向いて、優子さんはいつもと違って大げさな笑顔を作る。
「教えてくれてありがとう。本当においしかった。店員さんも、とても親切だったわ」
母もつられて笑う。
「オープニングメンバーっていいよね。みんな明るくて初々しくて。あの店って若い子が多いみたい」
私はサラダのレタスを何枚か重ねてフォークで刺す。結衣はウーロン茶を飲んでいた。
「ラテとか料理はどう?おいしいなら私達も行ってみたいね」
味も大事だけど値段も重要だ。行くんだったら、結衣か拓海を誘って行こう。自分一人では行かないな。
「玲奈ちゃんはご飯を一人で食べるの?」
ほとんど面識がないけど、結衣は玲奈のことを気にかけてくれる。
「今日はおばあちゃんちに行くって」
「近いの?」
「全然。遠いんだけど、あの子一人で行ってる。親戚が車出してくれるから、買い物目当てなんだ」
ネットで買うこともあったけど、試着できるし、見てるだけでも楽しいと言っていた。
玲奈は、家の近くでは康之に会おうとしない。私か母に気を使っているのかもしれない。「康之」は「玲奈の」父親だから。口ではそんなことないと言いつつも祖母の家まで行く。
「玲奈は予定が多いんだよね。誘われても断るってことを知らないから」
それに玲奈は嫌なことをさらりとかわせるから、どこに行っても苦にならないんだろう。
「本当、誰に似たんだか」
母はよくこういう言い方をする。不快とまではいかなくても気まずい思いをする。
「二人とも美香さんに似てるから人気なのね」
すぐにおっとりとした声が響く。優子さんは私達に対して優しい。初めは嫌味かと思ったけど、今は思ったことを言っただけって分かってる。隣に座る結衣は困ったように笑う。
なぜ母が離婚したかもチラッと話題に上がる。優子さんが嫌がりもせずに聞くのは不思議だった。
すぐに結衣に目配せしてソファーに移る。宿題をやったり漫画を読むこともある。でも、結衣も私や玲奈の話を聞きたがる。一人っ子なので、兄弟の話は聞いてて楽しいらしい。
「玲奈って、家にほとんどいないし帰ってきても寝るだけで話もしないよ」
昔はよく一緒に遊んだ。年子だったので姉妹と言うより友達だった。だから玲奈のことは心配している。まあ、最近は良くなったけど。
「先輩達と遊んでるんでしょう」
「今はやめたみたい。だいたいバイト先の子と遊んでるって」
「いいなぁ」
結衣の言い方はすごく寂しそうだ。いつもそうで、自分がやろうとは思ってもいないようだった。
母親たちが急にわっと笑い声をあげる。まるで女子高生のようだ。同時に、玄関で鍵を開ける音がした。優子さんが遠目で見ても分かるくらいに体を震わせる。
すぐに立ち上がって玄関へ行く。スマホを見ると十九時を過ぎていた。結衣も周りの物を積み上げて、空のコップをシンクへ持っていく。
「今日は早く終わったんですね」
優子さんの声は平坦で冷たい。廊下からリビングにスーツ姿の男の人が入ってくる。
「こんばんは、お邪魔してます」
同じように母も席を立っていた。食べ散らかした皿を片付け始める。
「気にしないでください。あとで嫁がやりますから」
疲れているのか、事務的な言い方だった。初めて結衣のお父さんを見た。言っちゃ悪いけど、普通のサラリーマンだった。背は普通で太ってはいなかった。スーツにしわが寄っていても、脂がギトギトって感じではないのが救いだった。
自分の父親に会ったことがなくても、悲しいと思ったことがない。写真が何枚かあった。いかにも遊んでそうな若い男女。二人とも日焼けして馬鹿みたいに笑って。赤ちゃんの私はゴテゴテヒラヒラのピンクの服を着ていた。
私が物心ついた頃から、母はちゃんとお弁当も作るし、仕事も休まないようになっていた。『お父さん』がいて守ってもらっている家のことは分からなかった。
結衣のお父さんはすぐに部屋へと消えてしまう。後を耳で追うと、鍵のついていない部屋へと入っていった。
「私が片付けるから、今日はごめんなさいね」
優子さんの声は叱られた小学生のようだった。
「そろそろ帰って明日の用意しなくちゃ」
結衣が黙々と片付けてテーブルを拭く。すでにキッチンから食洗機の音がする。
玄関まで二人が来てくれる。「また」と言って外に出るとひんやりとした空気に包まれた。
夜は風が冷たい。駅前を通って路地を歩く。
「うちも掃除した方がいいよね」
「まあ、女が三人もいてあれじゃあ、ちょっとね」
玄関を開けると、家の匂いがする。私も母もめんどくさがりなので、床には服が脱ぎ捨てられている。
「よし、十分くらい片づけよう」
二階建てのアパートで角部屋だった。2LDKで私と玲奈が同じ部屋を使っていた。
洗濯機のスイッチを入れて、ごみを拾う。すぐに流しの茶碗を洗って、お風呂を沸かす。これだけで部屋はましになる。明日は金曜日だから何ゴミだっけ。
制服のままで、部屋に戻ってスマホで拓海に返事を打ちつつ、母に見せるプリントを探す。
もうお風呂に入って寝よう。部屋の窓を開けて換気をする。空の星は良く見えなかった。
母は手帳を見ながら、レシートを整理していた。黙ってお茶を二人分淹れた。玲奈に電話をする。
「今日はあと一時間くらいしたら帰る。あと康之が昨日来てたって」
ちらっと母をうかがって、洗濯機と風呂を見に行く。玲奈はいつもと同じ調子で言う。
「お金、ポストに入れたって」
玲奈の父親は、忘れたころにやってくる。
一階までつっかけサンダルで出ていく。チラシの他に確かに封筒があった。母の目の前に出す。
「来てたの?」
「らしいよ」
母は郵便物を指で破って開ける。玲奈もそうだ。私ははさみかカッターで開ける派。
「言えば家に上げたのに」
この家には暗黙の了解があった。「男は家に入れるな」康之はいいのか。
母はたぶん恋人がいる時があったけど、家には連れてこなかった。玲奈も私も家には一度も連れてきていない。それどころか、いるかどうかもお互いに知らない。
スマホには拓海からのメッセージが届いていた。「明日はバイト後に会える」
拓海のいいところは、余計な話をしないところ。大抵平日もバイトをしていて土日は朝コンビニで働く。私もスマホやコスメ代のために働いていた。玲奈は、まかないが付く飲食系で働くことが多かった。
バイトが終わると、拓海の家に行く。合鍵は持っていないし、お泊りセットも家にはおかない。カバンの中に入っている。
拓海は真面目なので、ちゃんとレポートを書いていた。
「どこ行きたい?」
小雨が降っていたので、近所のカラオケに行く事にする。西口のカラオケはパチンコ屋の二階にあった。
ふらふらと二人で歩くだけでも私は楽しかった。雨が上がったので肌寒く感じる。店の前に野良猫がいたのでしゃがみ込む。かわいいけど、家でペットを飼ったことはなかった。
カラオケ店は道を挟んだ向かいにラブホがある。ブルーハウス。道は伸びていて入口は奥にあるらしい。私は行ったことはない。相手が独り暮らしなので、そういう時はすぐ家に帰る。
目の前を男女が通り過ぎる。ふと顔を上げた。それはどう見ても優子さんに見えた。一瞬で冷汗が噴き出してくる。見間違いだと思って、よく見る。ロングヘアーは後ろでゆるく編んである。白いトップスに青のフレアスカートだった。スカートは気に入っているのか、以前着ているのを見たことがあった。
男の方は優子さんが既婚だって知っているの。そもそもこんな地元で入るなんてどうかしている。誰かに見られたらどうするんだろう。
「ねえ、やっぱり帰ろう」
拓海は嫌そうな顔をする。
「せっかく会えたんだし、どっか行きたいだろ」
財布の中身を頭に思い浮かべる。
「いいこと思いついたんだ」
すぐに立ち上がってキスをする。いつキスをしても拓海はおいしい。
ドラッグストアで買い物をする。入浴剤も買った。次にスーパーで飲み物、ホイップクリーム、お弁当も買う。途中から機嫌を直したのか、半分出してくれる。私の気が変わることはよくある。拓海がさっきのことを気にしないように祈る。拓海は優子さんと結衣のことを知らない。でも心配だった。
その日は夕方に目を覚ました。散らかった部屋を片付けてお風呂を掃除する。母も優子さんもパートをしているんだから、その職場の人間なのかもしれない。
「美月、聞いてる?」
はっとして、座っている拓海を見る。怒ってはいなかった。レポートを書いているのか本とパソコンを開いていた。
「あとで外に出よう」
「うん」
私は適当に返事をした。
春休みは拓海か結衣の家、バイトのどれかだった。四月から三年になるのでバイトは減らす予定だった。
結衣の家に行くと、両親はいなかった。
この間のことは黙っていることにした。人に知られたくないことは誰にでもあるし、私の勘違いってこともある。まあ、ラブホに入っていくのは間違えたとは思えない。
課題は一時間くらいやることが多い。前はこんなに結衣の家に来るなんて思ってなかった。
初めて結衣の家に来たとき、優子さんは仕事をしていなかった。それで私と結衣に、紅茶と手作りのクッキーを出してくれた。
結衣は一年の時偶然同じクラスだった。席も近くて、きっかけは私が話しかけたこと。
「何の曲聞いてるの?」
休み時間にイヤホンでいつも何か聞いていた。ただぼうっと空を見ていて、友達と話す様子もない。だからテストで学年一位だと聞いたときは驚くよりもなるほどと思った。
「洋楽」
と言って画面を見せてくれた。名前は忘れた。結衣は言いづらそうにしていたけれど、片方イヤホンを外して「聞く?」と尋ねた。
私は結衣がどんな曲を聞いているのか興味があった。
「これなんかのCMの曲?」
テンポが速くて、ピアノとギターだけで、女の人の声が響く。
「うちでは、テレビあんまり見ないんだ」
へえ、と思ったけど曲の趣味が似ていた。それから私達は仲良くなった。結衣のおかげで成績も少し良くなった。そして、結衣の家に行くようになった。
最初、優子さんの口元は真っ直ぐに結ばれ、いつもピリっとしていて冗談も言わないようだった。
でも、私が一番怖かったのは声色だった。いつも怒りを抑えた声をしていた。
母は分かりやすい人だ。だから明るい時、機嫌のいい時は綺麗な優しい言い方をする。そのせいか、優子さんの声は、色のない景色のようで近寄りがたかった。
何度か行くうちに、私の服装を褒めてくれた。髪がきれいだとか、靴がかわいいとか。そんな時、結衣もうなずいたり、他の所を褒めてくれた。正直なところ、不思議だった。結衣と優子さんはいつもシンプルだけど、私よりもずっと綺麗だったから。白いブラスス、青いロングスカート。女性らしくてよく似合っていた。
「美月ちゃんは元気なところがいいのよ」
優子さんはそう言った。
「ごめんなさい。嫌味で言ったんじゃなくて、自由でいつも楽しそうに見えるからいいなと思ったの」
初めは嬉しい気持ちと、疑う気持ちが半分ずつだった。他の保護者の中には、文字通り眉を顰める人もいた。笑顔の裏で馬鹿にした態度をとる人もいた。でも今は本心だって知ってる。
「今日も出張でお父さんいないんだ。美月ちゃん、泊まっていってよ」
結衣はまた困ったように笑う。ちょっとぼんやりしすぎた。
「ごめん、ちょっと考え事してた。でもお父さん帰って来るんじゃない?」
「二泊三日。泊まりなんだって」
それならいいかと思う。母に連絡を入れる。
結衣と夕食を作る。母は家で一人でやった方が楽だろう。
優子さんが帰ってくる。鍵を開ける音がする。
三人でテレビを見て、順にお風呂に入る。
「おやすみなさい」
「二人とも遅くならないようにね」
優子さんが先に休む。気になって廊下をうかがう。優子さんはしばらく廊下の前で立ち止まっていた。パタンとドアの閉まる音が聞こえた。
結衣に聞くのも悪い気がしたけど、すごく気になる。
「私も入ったことないの」
テレビをつけたままなので、聞き取りづらい。それでも結衣の言っていることは分かった。
「結衣の部屋には鍵ないよね」
たいてい宿題はリビングでやっていた。他に人がいないって言うのもあったし、机にノートを広げるためでもあった。
「あの鍵、この家に引っ越してきた日に付けたの。でも、なんであんなのつけているのかわからない」
「ねえ、中にいる時だけ鍵をかけるんじゃだめなの?」
「いつも鍵を身に着けてるみたいなの」
結衣は、初めて会った時の優子さんと同じ声を出す。
「部屋に鍵をかける理由って何だと思う?美月ちゃんだったら、どんなときに鍵を付ける」
普通、鍵を付ける場所には大切なものが入っている。もしくは危険なもの。でも部屋自体にかかっているから「入って欲しくない」ってことかもしれない。関係者以外立ち入り禁止とかあるし。
それを聞くと結衣は緊張を解いたみたいにため息をつく。
「私ね、お母さんがあの部屋に何か置いてるんじゃないかと思って」
ホラー映画とかでよくあるやつ。死体とか誘拐してきた人を閉じ込めているとか。あとは部屋自体が不気味やつ。鏡張りとか。
「でも今は、たんに汚いからかなって思う時もあるの」
「こんなに家の中がきれいなのに」
「うん、家がきれいだからこそ、疲れちゃって自分の部屋くらいは汚くしてるのかなって思ったの」
目元は優しいけれど、寂しそうな言い方をする。別に私は親と仲が良い方でもない。玲奈も家にいることの方が少ない。知りたくもない事は誰にだってあると思う。
「もし知って後悔するような物があったらどうする?」
「だったらなおさら知っておきたいよ。そんな変なもの捨ててほしい」
なるほど。いつも私と結衣の考え方は違う。今回は結衣の方が正しいかもしれない。
テレビはいつの間にか知らない番組が始まっていた。ドラマとかはいいけど、芸能ニュースとか深夜番組はほとんど見ない。時計を見ると零時近くになっていた。
結衣の部屋に行き、布団を敷いて寝る用意をする。
「本当にそんなところで寝て大丈夫?」
貸してもらった布団は温かい。こんなに高そうな布団で寝たことの方が少ない。何度か引っ越してきたので、床に布団を敷いて寝ることはあったし、いつも布団は薄かった。
まだ乾燥する日が多いから加湿器もついている。結衣の家は自分の家より快適だった。
「美月ちゃんはいつも玲奈ちゃんと同じ部屋で寝てるの?」
「うん。でも玲奈がいないことの方が多いよ」
結衣はまだ眠くないのかな。
「ごめん。もう寝るね」
朝になると隣に結衣はいなかった。リビングに行くと、優子さんも着替えていた。
「すみません、遅くまで寝ていて」
「まだ七時前だから気にしないで。私は今日予定があるの」
朝食の用意は整っていた。一人だけパジャマでいるのは場違いだった。
「私、着替えてきます」
優子さんはにっこりと笑う。
「美月ちゃんさえ良ければ、そのままでどうぞ。夫もいないから気にしないで」
空調が効いているからパジャマでも快適だった。すみません、と言いつつも席に着く。お茶とトーストの香りはいかにも幸せな家庭って感じだった。
優子さんは、セーターにジーンズでカジュアルな服だった。今日は本当に一人で出かけるみたい。よかった。
「家に戻ります」
食事を頂くと片づけを手伝う。私と優子さんが家を出る。
「お母さんも美月ちゃんも気を付けて」
結衣が手を振って家の窓から私達を見送ってくれる。
「ねえ、いつか玲奈ちゃんも家へ来てくれるかしら」
「玲奈ですか?」
嫌ではないけど、なんで優子さんは玲奈にこだわるんだろう。
「私の都合で結衣には兄弟がいないの」
はっとして、優子さんを見る。
「美月ちゃんはすぐに顔に出るのね。それはいい時もあれば苦労することもあると思うの」
「優子さん」
なあにと答えた優子さんは落ち着いていて、淡く笑っていた。あの事について聞いても、何もいいことはない。
「今度うちに遊びに来てください。散らかってますけど」
結衣から電話が来た。
「どうしたの?」
結衣は答えない。何度も荒い息づかいで、何か言おうとしても言葉にならなかった。
「何かあったの?」
ついに結衣が答えた。
「死んだって」
暗く小さな声だった。
「誰が」
「美月ちゃんにしか頼めないことがあるの。早くしないと間に合わない」
何が間に合わないのだろう。
拓海の家に行こうと思っていたけど、すぐに結衣の家に引き返す。家に着くと結衣はタクシーに乗る。
「警察署まで」
着くと受付に向かう。担当の人が来る。
「お父さんはすぐ来られますか」
「父は、出張で遠方にいます。戻って来るのは遅くなるかもしれません」
結衣は意外なくらいはっきり話した。
「藤原優子さんは事故死だと考えています。監視カメラにも映っていました」
「お願いですから母に会わせてください」
お願いって一緒に付いて来て欲しいってこと。
結衣が安置所に入っていく。
「美月はどうする?」
私は考えもせずに返事をする。結衣が友人を連れてきたのは、誰かに来てほしかったからだと思う。
部屋に入ると白いシーツのような布が目の前に広がる。優子さんは頭からつま先まで覆われていた。結衣はしっかりとした足取りで近づく。布をめくろうとして布に手を伸ばす。
「お父さんと一緒の時にしなさい」
警察官が言うと結衣は目を上げる。
「いえ大丈夫です」
その様子に背中が冷たくなる。どうしてこんなに冷静なの。制服の警察官と亡くなった優子さんを前に、声はいつもと同じだった。
布がゆっくりとめくられていく。髪、頭、顔の順に見える。身構えたけど、よく言うように眠っているように見える。ううん、蝋人形のようにも見える。事故なのに顔はきれいだった。本人だけど別物のようだった。
「遺品はどこにありますか」
警察官が取りに戻ると、優子さんが首に着けていたチェーンを外してポケットに入れる。
「これです」
戻ってきた警察官に礼を言い、二人で外へ向かう。
「父が戻って来るまで時間がかかるので一度家に帰ります」
家に着くと、結衣はかばんの中の鍵を見つけられず焦る。
「どうしてないの」
ほとんど泣いてるような声だった。
「落ち着いて探せば見つかるよ」
出来るだけゆっくりと話す。その声は上ずっていて、震えていたけれど、結衣の悲鳴みたいな言い方よりはずっとましだった。
「ごめん。ごめんね」
どうして謝るんだろう。
「あった」
ようやく見つけると家に入る。中はしんとしていた。私が玄関に突っ立ていると、結衣が手を伸ばして、鍵とチェーンをかける。そのまま無言であの部屋の前まで行く。結衣はいつの間にか首にかけていた鍵を出す。ドアは簡単に開いた。
私もゆっくりと部屋へ向かう。隙間から中が見えたけど、真っ暗で何も見えない。
「この部屋は窓がないの」
それでこんなに暗い。
「驚かないでね」
さっきまでの声とは別人だった。壁にあるスイッチを探す。結衣の背中に隠れている私には、中は全く見えない。
明かりがついて結衣が一歩部屋に入る。私は足が縫い付けられたみたいで動けなかった。
目にはたくさんの人の顔が映る。一瞬ポスターかと思ったけど、それは写真だった。元の壁紙の色が分からないくらいに張りつくされた大量の写真。突然の吐き気に襲われる。なんでこんなにたくさんの写真?結衣が私の隣を通り過ぎて、部屋を出ていく。中に入ることは出来ないのに、目は写真にくぎ付けだった。優子さんがこれをやったの?
ガタン、ガタンと音がするので目だけを動かす。結衣が学校のごみ箱くらいの大きさの何かを持ってくる。
「それ何?」
喉にたんが絡んでいたし、ものすごく乾いていた。
「中に入らなくてもいいよ。これであの写真を切り刻むの手伝って」
「切り刻む」
馬鹿みたいに繰り返すしかなかった。結衣はいつからこれを用意していたんだろう。
「私がはがすから」
結衣はドアのすぐ近くから写真をはがしていく。私は黙ってキッチンに行へ向かう。勝手にコップを出して、水をごくごく飲んだ。
冷たい水は本物で、私の喉を潤してくれた。今見たもの、優子さんが亡くなったことは夢か作り物にしか思えなかった。
のろのろと戻ると、結衣は音を立てながら写真をはがしていた。私も中に入って手伝おうとする。シュレッダーを持って入ると、コンセントを探す。音を立てて写真が飲み込まれていく。結衣はまた部屋を出て、ゴミ袋を持って来た。
「おとうさんが帰ってくる前に終わらせないと」
私がいるのを忘れたように言う。脚立を持ってきて、天井の写真をはがし始める。一枚ずつ写真は吸い込まれていく。ほとんど同じ男性の写真。ピーと音がして機械が止まる。結衣がすぐに来て中のゴミを袋に移す。
「こんなに入れて、壊れたりしない?」
「大丈夫。美月ちゃん怪我しないでね」
結衣は冷静で、それが怖かった。無言でまた続きに戻る。ベッドの脇の壁にも張ってある。整然と並んだ写真達。縦長の写真が貼ってある。しばらく写真を入れ続ける。終わったら入れ、また入れる。結衣はどんどんはがしていく。
「美月ちゃん、交替してくれる?」
「うん」
私はドアの壁の写真をはがし始める。家の中には裁断の音が響くだけで私達に会話はない。
これが優子さんの秘密。この男に心当たりはなかった。だけど、単に撮っていたにしては枚数が多い。ゴミ袋は何枚目なのか。スマホが鳴って私は小さく声を上げる。結衣が肩を震わせた。結衣のだった。
「うん、分かった。あとで」
すぐに電話は切られた。
「お父さん昼過ぎに帰って来るけど、家に来るのはその後だって」
結衣は笑った。冷たく笑った。
「十分くらい休憩しよう」
キッチンへ向かう。
温かい紅茶を飲むと、手が冷たくなっていたことに気づく。結衣が加湿器をつけたら、喉もよくなった。
「本当にごめんね。こんなことに付き合わせて」
真剣な声と目をされたら私は許すしかなった。
「ううん、これは他の人には頼めないよ」
うつむく結衣には悪いとは思ったけど、聞かずにはいられなかった。
「ねぇ、結衣は部屋の中見たことあるの?」
「少しだけ」
本当は知ってたんだ。
「死んでからも、お父さんに何か言われるなんてかわいそうでしょう。それに、お父さんも、あんなの見たくないだろうし」
そうだと思う。私も自分の母が死んだ後に見せられても嬉しくない。十時くらいだったので、まだ時間はあったけど早めに終わらせたかった。
「ゴミ袋、どうするの?」
「私の部屋のベランダとかに隠しておいて、後で捨てるよ」
まるで、学校のゴミ捨て当番の話だった。
部屋に戻ると、また続きだった。ふと、机に近づく。本が一冊置いてある。文庫で、本屋のカバーがかけられていた。つい手に取ってみると、下に一枚の紙があった。名刺くらいの大きさで青い紙だった。
「ブルーハウス」割引券。あのラブホの券だった。黙って右手の中に隠す。
「机にもあった?」
顔を上げると、ベッドに乗って結衣が写真をはがしていた。
「なかったよ。本が一冊だけ」
結衣がこちらを向かないうちに中央に戻って、シュレッダーの中に券を入れてしまう。続けて写真を入れる。
「これが終わっても、秘密にしてくれる?」
「絶対誰にも言わないよ」
次の写真をシュレッダーにかけた。
シュレッダー 登崎萩子 @hagino2791
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