02.少女人形:看護するフレドリカ①


 ――目を開ける。

 真っ先に飛び込んできたのは、色鮮やかな刺繍の縫い取られた天蓋だった。


(死後の世界か……?)


 真っ先にウォルフがそう思ったのは、目に映る風景が重く陰鬱な灰色の暗がりに沈んでいたせいだったが。

 程なくそれが、窓に映る曇り空と、硝子ガラス窓の外に降りしきる雪、そして部屋の灯りが消えていたがための翳りに過ぎないのだと、痺れの抜けない頭でのろのろと理解する。


 ゆっくりと、意識が覚醒してゆく。


 広い寝室だ。彼が寝かされた、詰めれば三人は並んで眠れそうな柔らかい寝台ベッドを囲むように、衣装箪笥や柱時計といった調度が並んでいる。

 こつ、こつ――と一定のリズムを刻んで揺れる柱時計の振り子の音が、しんと静けさに満たされた室内では殊更耳についた。


 壁紙のない、無骨な石積みそのままの壁は見るからに分厚い。その壁は二重のつくりになった頑丈なガラス窓と共に、屋外の酷寒を退けていたようだった。

 総じて実用以外の関心を欠いたそれらは、瀟洒しょうしゃで品のいい調度との間に、いかんともしがたいちぐはぐさを軋ませていた。


 古い館なのだろう。

 調度が当世の流行風はやりになるよりはるか昔からこの地に根付いた、歴史と伝統あるいにしえからの館。

 だが――


(ここは、どこだ……?)


 どうして自分が、そんな館のベッドに寝かされているのか。

 一体、誰が――


「お目覚めになられましたか」


「!?」


 とっさに跳ね起きようとして、失敗する。

 柔らかいベッドに半ば沈みながら、首をねじって声のした先を見ると――果たして、いつからそこに控えていたのか。

 これも瀟洒な意匠が施されたマホガニーの扉の前に、うら若い面差しの娘が一人。さながらそうした形に彫り上げた彫像のように、楚々とした立ち姿で控えていた。


 美しい娘だった。


 ぞろりと長い銀の髪を結わえるでもなく背中へ流し、肌の色はさながら新雪を溶かした白皙はくせき

 カラーが高く、裾がくるぶしまで届く黒一色のワンピースドレスに、白いエプロン。ヘッドドレス。その地味ないでたちは、北方で一般的なメイドサーヴァントのお仕着せだったが、それゆえに娘の美貌が霞むということもない。

 

 二重まぶたまつげが長い、切れ長のまなじり。大きな瞳は、氷の蒼を宿す水晶色。

 緩く結んだ唇は小さく、淡い紅色にうるんでいる。


 伺える感情の薄い面差しは、一見して成人したばかりかそれくらいの年頃に見えた。だが、ほっそりした顎の線がどこか幼げな造形を引きずっているのを見るに、受けた印象よりも二つ三つ、年少の年頃なのかもしれなかった。


「誰……だ……?」


「当家に仕えるメイドサーヴァント、名をフレドリカと申します」


 警戒をあらわに、掠れた声で詰問を向けるウォルフに、少女はしずしずとこうべを垂れて名乗った。


「貴方さまが当家の所領にて倒れていらしたのを見つけたため、僭越せんえつながら私が当家の屋敷へと運び入れました。あわせて切創・擦過傷・射創ほか全身二十二か所の創傷と手足末端部凍傷への治療を施し、本日までのおよそ三日間、当家にて貴方さまを保護させていただいておりました」


 ――三日。

 後悔にも似た、毛羽立つようにざらりとした感慨がこみあげる。衝動のまま暴れ出したくなるような忌々しいそれをすり潰し、ウォルフは腹に力を入れて起き上がろうとする。


「どうやら、随分とお手間をかけてしまったようだが……」


「いけません」


「う、ぉ?」


 フレドリカと名乗った娘は滑るようにふわりと駆け寄り、ウォルフの胸に手を当ててベッドへと押し戻す。

 ヤナギランのように線の細い体つきをしているくせに、驚くほど力が強かった。いや、むしろ自分がそれだけ弱っているのか――いずれにせよウォルフはなす術なく、再びベッドに横たえられた。


 子供のように寝かしつけられたその時になって初めて、ウォルフは自分が何も服を着ていないことに気づき、内心焦りを覚えた。一方のフレドリカは、いきなりさらされかけた男の裸に恥じらって娘らしく頬を染めるどころか、いっかな怯む素振りさえない。

 みっともなく狼狽しかけたウォルフのそれとは、完全に真逆の頼もしさである。


 胆力のある娘だ。それとも傷病者の看護に慣れているのか――いずれにせよ、ウォルフはひそかに、娘の落ちつきように感嘆した。


「貴方さまは今日まで三日三晩眠りつづけていました。峠こそ越えたとはいえ、ご無理をしていいお身体ではありません」


「……すまない」


 フレドリカは子供相手にするようにウォルフをベッドへ寝かしつけると、上掛けを整え、枕の高さを調節する。

 その間、細く絞った腰から上――ヤナギランのような線の細さからそこだけ大きく逸脱した、胸の頂が象るたっぷりとした曲線が、ウォルフの目の前で重たげに揺れる。


 襟元までワンピースのボタンを締めた窮屈な胸元に、思わず目を奪われそうになった――メイドサーヴァントの無粋なお仕着せは、まるで彼女の豊かな胸を縛り上げる拘束の革紐のようですらあった。


(――くそ)


 本能的に下半身へ集まる熱。

 ろくでもない妄想に捉われかけた己に、ウォルフは自責する。

 ――馬鹿なのか己は。仮にも恩人に対し、何というみっともないざまか。


 だが、そうしたいたたまれない妄想をウォルフに想起させたのは――あるいは、柔らかな曲線を描くフレドリカの肢体からだではなく、彼女がエプロンの上から腰に巻いた、無骨な革製のベルトだったかもしれなかった。


 シャンパングラスのようにほっそりした造形のランタンが二つ。

 ベルトから下がる筒状のホルスターへ、刺すように深く落とし込まれていた。


「どうかそのままお待ちください。温かいスープをお持ちいたします」


「いや、待て……待ってくれ」


 呼び止めるウォルフへ、フレドリカは振り返った。

 感情の薄い水晶色の双眸が、じっと見つめる。その視線に居心地の悪さを感じて、ウォルフはほろ苦い気分で口の端を歪めた。


「『貴方さま』はどうか勘弁してほしい。名乗るのが遅くなって失礼をしたが、俺の名はウォルフという」


「ウォルフ様」


 フレドリカは何に驚いてか、かすかに目を瞠ったようだった。

 『様』をつけて呼ばれるような身分でもない――と、ほろ苦く訂正しかけたが、とはいえそこを直してもらうのは後でも構うまい。


「フレドリカ。不躾ではあるが、当家のご主人へのお目通りはかなうだろうか……ありがたくもお屋敷の一部屋と使用人をお貸しいただき、ご厚情のおかげでこうして命を拾った。もし今の見苦しい有様をご容赦ようしゃ願えるのであれば、是非に――いただいた御恩の、礼を申し上げたい」


 礼を伝えたいという申し出は、半ばはウォルフの偽らざる本心だった。が、もう半分は別の理由によるものだ。

 自分が今、どこにいるのか。この館がどこにあるのかを、知っておきたい。


 より厳密に言うなれば。

 自分が祖国ガルク・トゥバスの領内にいるのか否かを、ウォルフは知っておかねばならなかった。


 国境を越えられたのならまだ希望はある。だが、もしそうでないとしたら――


主人マスターは、この館にはおられません」


 切って捨てるような明瞭さで、フレドリカは答えた。

 ウォルフは怪訝に眉をひそめる。


「お屋敷を、離れておいでということか?」


「当家の管理はフレドリカに一任されています。あたたかいスープをお持ちいたしますので、ウォルフ様はどうかそのまま」


「フレドリカ」


 無機質に繰り返し、足早に扉へ向かう娘の背中を、彼は呼び止めた。

 肘をつき、ベッドの上で無理矢理体を起こしたウォルフに、振り返ったフレドリカは何か言いかけたが――ウォルフが問いを向ける方が、僅かに早かった。


「フレドリカ。スープの前にどうかひとつ、確認をさせてほしい。嘘偽りなく答えてもらえるだろうか」


「承知いたしました。何でしょうか、ウォルフ様」


 姿勢を正して正対するフレドリカ。

 その瞳を、探るように凝視して――ウォルフは確信に至った。


「フレドリカ――お前はか?」


 娘の返答は明瞭で、淀みなかった。




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