雪降る館のフィギュア ~冤罪で祖国を追われた逃亡者の俺は、白銀の少女人形から新たな主に望まれる~
遠野例
雪降る館の少女人形
01.雪原の逃亡者
白い死神のごとき雪が降りしきる灰の空を、一面の雪原が鏡のように暗澹と映していた。
暗く。昏く。茫漠と。雪は音を吸って耳を塞ぎ、ゴーグル越しの世界を白く閉ざして、光さえもその純白のうちへ吸いつくしてゆくようだった。
ウォルフは湿った雪を踏んで、無心に歩みを進めていた。
鼻までを覆うゴーグルと口元まで引き上げたマフラーの内側で荒く熱い呼吸を繰り返し、呻くような声を漏らしながら重い足を奮い立たせて。ただひたすらに、雪原を前へ前へと進んでゆく。
ウォルフは逃亡者だった。
『叛逆』といういわれなき、根も葉もない罪の嫌疑を着せられて――祖国ガルク・トゥバスから追われる身となりながら、北辺の平原を一人
ウォルフは屈強な男だった。
並の男よりひとまわり高く伸びた長躯を、総身の筋肉ががっしりと鎧っている。肩は隆々と硬く、腕も首筋も丸太のように太い。
鍛えられた頑健な体躯と相反し、顔立ちは意外なほど顎の線が細く、その目元にはびっしりと浮いた隈が色濃い。
目元こそ刺を含んで荒んでいたが、それでもありふれた黒髪と灰色の瞳をした首から上だけなら、都市の図書館で本に埋もれる文弱の徒を思わせる、柔和さの気配すら感じさせた。
とはいえ彼は、ありふれた文弱の徒のように若々しくはない。
面差しには二十六歳という年齢相応かそれ以上の労苦と苦心が、年輪のように深く刻まれていた。
「………………」
――気温は氷点下をゆうに下回っていた。
引き上げたマフラー越しに溢れた呼気は、一瞬で白く凍り付きながら風に巻かれ、ウォルフの後背へと解けてゆく。
厚手の上着とズボンは寒冷地での活動を想定されたつくりのものであったが、氷点下で吹きすさぶ吹雪の中のこと。この期に及んではだからどうということもない。
頑丈なブーツは深く沈むたびに大量の雪がこびりつき、それらはまるで地の底から這い出る亡者どもの白い手のように、ウォルフの足を掴んで歩みを妨げようとする。
何も見えない。
何も聞こえない。
まるで世界にウォルフ一人だけが、茫漠の只中に取り残されてしまったかのよう。
追手の姿はなく、その声も聞こえない――彼らは、もう諦めたのだろうか。
ならば少しは休めるだろうかと思いかけ、その薄甘い考えを意志の力で棄却する。
――連中が
祖国が誇る技術の結晶――機械兵士。《
魔術を
本格的に追われれば、所詮こちらは生身の人間一人。いつまで逃げ切れるか――どころか、今日の夜を無事に越せるかさえ、保証の限りではない。
そうされていないのは、端的に言えばウォルフが『なめられている』からにすぎない。
「……………………」
どちらにせよ、現状においてはさしたる意味はない。
幸運にして、《
この吹きさらしの雪原で歩みを止めれば、間違いなくウォルフはそこで死ぬのだ。
冬の間に死体は凍り、春になれば雪解けの下から現れて。
後からゆるゆるとやってきた追手どもは、腐敗しかけたウォルフの死体からゆうゆうと荷物だけを奪い去ってゆくのだろう。
それで終わりだ。物事の順番が後になるだけだ。
そんな終着を、受け容れるわけにはいかない――決して。
「…………………………」
前の街で隙を見てかっぱらった《
体を温める
もはや頼みは自分の足だけだが、それも長くは続くまい。
冷え切った手足の感覚は、とうにない。
目の前は
――死。
ひたひたと迫る予感に胸を締め上げられながらも歩むウォルフは、もはや自分がどこへ向かっているのかさえ分からない。
防水塗料を塗布した硬革製の背負い鞄をきつく胸に抱え、末期の喘鳴にも似た笛の音のような呼吸を繰り返しながら、ただ前へと進む。
(これだけは……)
抱えた鞄を、両腕できつく胸に
その瞬間、心なしか――人肌のそれと似た、ほのかなぬくもりを感じたように思った。それが単なる錯覚に過ぎないことは今なお冷えた頭のどこかで静かに理解はしていたが、だとしても無為なる歩み中でのささやかな慰めにはなる。
(これだけは……)
――これだけは、護り抜かなければいけない。
ウォルフを追う、すべての者達から。
(せめて、これだけは――)
誰にも渡してはいけない。
そうでなければ、
そうでなければ、赦されない。
そうでなければ、終われない。
(俺は……!)
――俺は、決して。
「…………………、………………………」
――脳裏をよぎる、もはや懐旧の中にしか存在しない日々。
食い詰めた末に最下層の一般歩兵として軍に潜りこみ、生き延びるためだけに体を痛めつけ鍛えあげ、教えられるまま技術を身につけていった、辛苦と充実の日々。
かけがえのない恩人達に拾われ、戦後の祖国に《
「…………………、…………。………………………」
雪原に倒れ。もはや完全に歩みを止めた己の足も、白く凍り付いてゆく目の前の視界さえも。自覚できぬまま。雪原に転がる凍った肉のひとかけらとなりかけていた。
――その、ウォルフの身体を抱え上げ、仰向けに横たえる手があった。
雪に白く霞む視界の中に、こちらの顔を覗き込む『誰か』の影が映る。
(誰……、だ……?)
――女の顔だ。それだけは分かった。
ならばこれは、死者の魂を死後の世界へ運ぶとされる、天上の乙女の類であろうか。
この期に及んで妄想じみた可能性を真っ先に思い浮かべてしまった己に、ウォルフは力なく失笑を零す。
まあ、いい。それもいいだろう。
彼女には申し訳も立つまいが、これから死ぬ身であれば弁解も何もない。
肌にへばりつき、喘鳴のたび口の中へと飛び込む淡雪の冷たさを。
五感に感じるすべてを、まるで別世界の出来事のように遠く感じながら――
ウォルフはもはや抗いようもなく、その意識を、白い地獄の只中へと手放していった。
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