占い師の娘
登崎萩子
指輪の行方
「本当にあなたの所に来て良かったわ」
そうね。半日も、いかに自分が美しく賢いのか聞かせていたんだから。無言でうなずき、花を一輪彼女に渡す。
「赤いものを身につければ、彼は振り向いてくれるのよね」
「はい。ではまた」
ラジゼアの貴族は、従者が一度店に来る。尊い主人は!急な来訪はしない。それと、主人に見合うもてなしをするようにって意味。
セフィドの占い師にとっては好都合だった。客が来る日までに情報を集める。人間の悩みはお金か恋愛か、そうでなければ健康のことと相場が決まっている。
だから、みんなでお金を出しよる。もちろん「ネズミ」を雇うためだ。
「ネズミ」は、貴族のメイドや出入りの商人から情報を集める。それを頭に入れておけば、本当に占うまでもない。
彼女の相手は、実はお金に困っていた。きっと、相手の方から声をかけてくれるだろう。
エカーニの店では「赤い花の女神があなたを救う」と、占う手はずになっている。
晴れやかに店を出ていく背中を見つめた。従者は代金を払ってくれるが、これでは数日の食費にしかならない。「ネズミ」のための費用は、削れなかった。
店は入口から真っ直ぐに奥行きがある造りで何軒か店がある。屋根をつなげて十軒程の店を壁で仕切っている。そのため左右には窓がない。
奥の扉の先に住居用の部屋。更に二つ目の扉の向こうには、裏道があった。川に面した道で、素顔を客に見られずに外に出られる。
顔を覆う薄布はそのままに、真っ黒な布を体に巻き付ける。
裏口から店を出ると、お茶の葉とシナモン、煙草の混ざった匂いがした。
「気が変わったかい?」
おばあちゃんはにっこりと笑い、握った手を振る。占い師は引退すると、素顔になる。
「私は誰とも結婚しないわ」
かつて、母の物だった指輪はおばあちゃんが持っていた。
おばあちゃんといっても本当の祖母ではない。母の占い師仲間だった人で、娘の私を気にかけていた。指輪は父が母に贈った物だ。
お墓に入れようとしたけれど、お祖母ちゃんは反対した。私がいらないと言い張ったので、おばあちゃんが持っている。
「買い物に行くんだけど、何か欲しいのもは?」
「いいや、自分で買いに行くよ」
にっこりと笑う姿は、本物の祖母のようだ。
サラフに会って「面白い話」が聞きたかった。最近、新しい商談があると言っていた。
もう夕暮れだ。店と外は別世界で、時間の流れが速かった。空は雲が多い。国境近くのシャスロでも、道は美しい石畳だ。建物もラジゼア風だ。
小麦粉と葡萄を買う。紙の袋の中身は意外と軽い。少し風にあたろう。
街の中心には劇場と温室があって、一年中美しいものが見られる。自然も豊かで乗馬に出かける貴族もいた。
街灯は、最近ガス灯になった。そのせいか、路地の影は黒々としていた。
馬車から着飾った人々が降りてくる。次々と劇場へ向かう。私は一度も観たことがない。
入口の階段の一番下に、男の子が座り込んでいた。寝転んでいると言った方がいい。
すぐそばを真紅のドレス姿で着飾った女が、話しながら歩いていた。その足が男の子を蹴る。女は謝ろうともしない。最低。
「ねえ、この子に謝って」
柔らかな絹のドレスは明かりの下で、光を反射していた。濃い赤を着た貴族の娘は、顔色一つ変えない。
「最近はシャスロも物乞いが減ったと思ったのに」
汚い物を見る目だった。嫌な気分で胃が縮むのが分かった。あからさまな言い方は、お嬢さんらしくないわよ。
「謝りなさい」
娘には連れが三人いたらしく、立ち止まっていた。
男の子は、ごほごほと咳をする。別の華奢な貴族の娘が、一人の男に身を寄せた。
「まあ。かわいそうに」
セフィドの人間をただ同然で雇ってるから、いつまでたっても暮らしが良くならない。病人は薬も買えない。
だから「ネズミ」は情報をすぐに売る。
「もう少しましなところはなかったの?」
「たまに恵んでくれる人がいるんだ」
袋から葡萄を一房出して渡す。
「娼婦が孤児を憐れむのか?」
大人のような口調で言う。
よくあることだ。ラジゼアとセフィドの間に生まれた子は、私のような占い師になるか、娼婦、召使いこの三つのうちどれかになる。
「そんな根性ないわよ」
「何だ、占い師か」
子どもを蹴った女と他の二人は歩き去ろうとしていたが、一人だけ私達を見ていた。
劇場にいる俳優、歌手よりも整った顔をしていた。が、女性のように細い。男装をした麗人に見えなくもない。青い目はこちらを見たままだ。服は白い。濃い茶色の髪が顔を縁取り、絵画のように美しい。
「兄弟に食べ物を分けるのは、当然のことだ」
サラフが近くにいたことに気付く。
「何の話だったの?」
「青い服が台無しだ。その黒いのはいらないだろう」
相変わらずね。ラジゼア人と同じような服。でも、肌の色は濃く、髪も私と同じく黒い。そして水色の瞳がよく似合っている。
背が高く、目つきが鋭いので商人には見えなかった。
「お前、名前は?うちで働かせてやるぞ」
サラフが男の子に声をかけるが、いい顔をしない。
「タワッジュフ。旦那はちゃんと金を払ってくれるけど、俺には無理だよ」
幼なじみはどちらの国の人間でも雇った。ただし、仕事ができる人間だけ。
「ハディージャ、俺が代わりに話してやるよ」
「外野は黙ってて」
怒りを押さえた声は、まるで犬の唸り声みたいになった。サラフが大きなため息をつく。
「オレは別にいいんだよ。姉ちゃんも忘れて」
タワッジュフの方が大人だ。
身分が高い者は滅多に謝ったりしないし、彼らの側からすれば道にある物の方が悪いとしか思っていない。
一日中どこぞの貴族の話を聞いた身としては、うんざりする。
無表情の年上の男が、階段の上から言う。
「気の毒に」
それだけだった。
ふと、視線を感じて目を上げると連れの麗人がこちらを見ていた。何か言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ。
「本当に申し訳なかった。タワッジュフ、怪我はしなかった?」
騒々しい中、私にもよく聞こえた。
広場はいつの間にか、夕闇に包まれていた。
「何もなかったよ。劇楽しんできて」
タワッジュフの声は明るかった。
その夜はとっておきのお香をたく。結局サラフの話は聞けなかったけど、悪くない一日になった。
朝起きると雲一つない空で、夏らしい。
張り切って部屋を整える。掃除もしてお茶の用意もする。
扉を叩く音がして目を向けると、日の光を浴びた、美しい茶色い髪が目に入った。
「あの」
そう言ったきりお客は黙ってしまう。昨日広場にいた麗人だった。けれど、顔色が悪い。だいたい、この人の従者が来たことはない。
「何か食べるものを出しましょうか」
まずいことを言ったわ。食べ物に困っているような人じゃないのに。口にしたとたん、彼は苦しげに咳き込んでしまう。
「大丈夫?」
「あの、お香が」
ついには苦しげに横たわってしまう。急いで扉を開け、二つ目の私室の扉も開ける。
裏口を開けると、川からのぬるい風が店へと流れてくる。
振り返ると、倒れたまま。水を持っていく。すると黙ったままゆっくりと体を起こす。
しばらくして彼が椅子に座る。香りはまだ残っていたが、話を聞くために閉めて回った。
「申し訳ありません、もう大丈夫です」
「本当に?」
向かい合って座ると、相手の言葉を待つ。よく見ると瞳は濃い紫が混ざっていた。
「私は、ラウロス・サマーヘイズといいます。実は気になる方がいるんです」
きっとあの華奢な彼女ね。間違っても真紅のドレスの方ではない。
「占って頂けますか」
本当に占うのは、特別な客だった。
そして、すべてが分かる訳ではない。ましてや、分かっていても何もできない。
あの日のことは今でもはっきりと覚えている。
私は十年以上前に試した。
母のまねをして、水と石を用意する。身を清め、真夜中に外へ出た。
視界が夕暮れのように赤く染まる。目の中に血が流れたみたい。体は冷えて寒い。震えだす腕をさすっても止まらない。
一点を見つめて、呼吸に集中する。
すると、視界が白くぼやける。
『ねえあなた、この子はお父さんそっくりね』
美しく微笑む母の隣にいる男は、おそらく父だった。調度品は見たことのないもので、色使いも違う。外は紅葉した葉と、嵐のような雨しか見えなかった。
そして、目が覚めると、母のところによばれた。未来の事、母や自分のことは何一つ見えなかった。
「私は後悔なんてしてない。あなたがいて良かった」
最後の母の吐息のような声は、耳を近づけないと聞こえなかった。
たいていは「ネズミ」に頼んで解決する。なぜか、本当のことを言いたくなった。
「秘密にして下さい。私は占いをする訳ではありません。ただ助言をしているだけです」
「占いの店ではないんですか?」
私の言葉を繰り返す様子は、幼い子供のようで頼りない。
「別にだますつもりはありません」
「それは?」
「どんな方を好きになるかは人によって違います。もし、容姿を大切にする方ならすぐに、好かれるかもしれません。ですから、相手のことが分かれば、解決します」
ラウロス様は、おとなしく私の説明を聞いていた。
「たぶん、強い男性が好みだと思います」
意外だ。でも、貴族にはないものを求めるのかも。
ラウロス様の口元は曲線で女性的だ。体も細い。それでも骨格や肩幅は広いので、男性だとすぐにわかる。
「乗馬や狩りをする、というのはいかがですか」
「あまり好きではないんです」
占い師に対して、見栄を張る客が多いのに珍しい。
「正直に申し上げますが、筋肉をつけるのがいいかと思います」
「その方が男らしいから?」
「そうですね。ただ、あなた様に足りないものはないと思います」
彼女の様子からすれば、そんなに難しくはないだろう。
「分かりました」
ラウロス様はあっさりと頷いた。中身の詰まった革の袋を取り出して、二人の間に置く。
「これで足りますか」
ずいぶん世間知らずな方だ。私は必要な分をとって、ラウロス様に返す。
「ハディージャは正直な方ですね」
静かに微笑んだ姿に見とれてしまった。
「また来ます」
まるで夢を見ているようだった。ラウロス様に、占いは必要ない気がする。それでも、彼のことを調べないと。
市場へ出かける。誰かに依頼をしたら、買い忘れたお茶を探そう。
人混みの中にタワッジュフがいた。人の顔を覚えるのは得意だった。
「仕事見つけたの?」
「あれ、もしかして、あの時の占い師?」
体に合った大きさの、新しい服を着ていた。
「すごく優しい方で、勉強も大事だって学校にも通わせてくれるんだ」
「本当?」
「姉ちゃんも知ってる人だよ」
何か裏があるのかと思ってしまう。セフィドの子供は滅多に学校に通えない。
「昨日、あの後拾ってもらったんだ。他の貴族は嫌だけど、ラウロス様は特別だろう」
タワッジュフの言うことはよく分かった。
「私達の名前覚えていたものね」
以前なら、貴族に仕えている人がいれば「ネズミ」にならないか聞いていた。でも、そんなことはできなかった。
「アレってどのくらいもらえるのかな」
タワッジュフの耳を掴んで声を潜める。
「あの方のことを売るなんて、何考えてるのよ」
「そんなつもりはないよ。ただ自慢したいだけだよ」
絶対にやめなさいと言いたかったけど、何も知らないと占いは当たらない。
「昨日のか弱そうな方を調べてちょうだい」
タワッジュフは真面目な顔でうなずいた。
「分かったら、ハディージャの店に来て。占い師の店はどれも同じだけど」
「大丈夫。オレもそのくらい調べられるって」
お風呂に入ったのか、綺麗になった手を振って走り去ってしまった。
十日ほどはいつものように占っていた。
「お久しぶりです」
ラウロス様の声は、見た目とは違って男性らしく低い。いつの間にか覚えていた。
「いらっしゃいまあせ」
以前は、日にあったっていないことがよく分かる肌だった。それが真っ赤に日焼けしている。
「一体何があったんですか」
「あなたに言われたので、外出するようにしたんです」
占いの通り、服装や持ち物、運がよくなる方法を試す人もいる。それでも簡単に人は変わろうとはしない。はずが、彼は苦手であろうはずの外へ出るというのをやったらしい。
「変ですか?正直におっしゃってください」
「いいえ、そんなことはありません」
「以前は不健康でしたから」
今までお客さんに真面目に助言する時もあったけど、それは仕事だから。
「好きなものは何ですか?」
椅子に座った途端、質問されてしまう。
「お相手の名前を教えて頂けますか」
「ハディージャの好きなものです」
穏やかな表情で、はぐらかされてしまう。
今まで質問されることはなかったので困る。花は好きだし、お茶もよく飲む。でもそれは習慣に近い。
一日中仕事をして、残りは家事をする。時間もなかった。好きなものと言われても困る。
「ラジゼアの方の間では、女優と同じく香水をつけるのが流行っているそうです。それなら、気に入って頂けると思います」
ラウロス様はちょっと考えるように、口をつぐんでしまう。
「こちらのお香が控えめになったのは、私のせいですか」
寝る前に焚いて、朝の分はやめていた。
「いいえ、夏は控えめにしているんです」
私は、大嘘つきだ。
「申し訳ありません、用事があるのでまた来ますね」
料金を支払うと、すぐに出ていってしまう。
次のお客さんまで時間があった。
「今日は、ムフタルの店で買ってきたぞ」
来客が途絶えるとこれだ。サラフは私の空き時間になるとやってきて、食事をする。
「将来貴族の妻にでもなるつもりか」
やり手の商人なのに、遠回しな言い方はしない。
「暑さで頭が働いてないのね。水を頭にかけてあげる」
また、きつい言葉が降ってくると思って身構えていても何もない。
「どうしたの」
ただ、冬の夜空のように暗い瞳で見てくる。
「うまくいかない。俺たちは向こう側の人間とは違う」
私達は似た境遇だ。サラフの母は、召使いだった。父親はラジゼアの商人。
裏口の扉を叩く音が響いた。
「今度、新しい布を買ってやるよ」
気をとられているうちにサラフは帰ってしまう。すぐに声がかかる。
「姉ちゃん、オレだよ。タワッジュフ」
扉を開ける。頬が柔らかな線を描いていた。
「サラフの旦那に施設のこと聞いた?」
「何のこと?一言も聞いてないわよ」
目を瞬いて、ニヤッと笑う。
「旦那達が秘密にしてる場所に行こう」
旦那達ってどういうこと?
店を閉めて、いつもの黒い布を巻く。タワッジュフは迷いなく案内する。街の東に向かう。そこには、いつの間にかレンガ造りの二階建ての建物があった。
「彼女のことを調べたんじゃないの?」
「ごめん、それどころじゃなかったんだ。」
私の手を引いて中に入ってしまう。
薬草の匂いが漂い、小さな子供の声が響いていた。廊下は窓が並んでいて明るい。部屋の扉は開け放してあるようで、子供が出入りしていた。
「お姉ちゃんはお料理をするの?」
五歳くらいの女の子が、首を傾げた。
「シーラ、お客様にはご挨拶なさい」
いつもの白い服が、目に入る。なんでラウロス様がいるの?
「ここは、サラフと作った施設です」
消え入りそうな声はとても信じられないことを言う。
「私は病弱だったので、医師の知り合いが多いんです」
タワッジュフは胸を張る。
「病人や孤児が暮らせるんだ。元気になったら、旦那のとこで働くこともできるんだぜ」
早く言ってくれればいいのに。
「とてもいい考えだと思います。素敵な場所ですね」
ラウロス様のうつむいた顔は、影が出来ていて、美しい肖像画のようだった。
あの日から十日もいらっしゃらない。
「いらっしゃいませ」
久しぶりにいらしたと思ったら、青い花束を持っている。うつむいたまま黙っている。
「ラウロス様、おかけになってください」
顔を上げると、元が白いせいか赤面すると柘榴のようにきれいに赤くなる。
「女性に花を贈るのは安直でしょうか」
「心から選べば、きっと嬉しいと思います」
お客さんの望みをかなえるのが、私の仕事だ。どんなにこの笑顔に惹かれていても。
「ハディージャは嬉しいですか」
母はお茶があれば文句は言わなかった。私もそう。いつも私のことを大切にしていたし、父の悪口も言わなかった。
「私は」
その後は言葉にならなかった。花束をもらうのは私じゃない。
「この後、買い物に付き合って頂けませんか」
ラウロス様の物腰は誰に対しても丁寧だ。
急にサラフが勘違いをして店に入って来る。
「まだ仕事中よ」
全然人の話を聞かずに続ける。
「おい、変な噂が立つんじゃないか?」
「変とはどういうことですか」
サラフは明らかに怒っていて、口をゆがめる。なんでこんなことになったの。
「ラジゼアの貴族は、混血の女を連れて歩いたりしない。そんなことをしたら、ハディージャが何を言われるか分かるだろう」
反対にラウロス様は落ち着いていた。
「サラフは、ハディージャと一緒に出歩くのでしょう」
笑っていないし、目もそらさない。
「サラフは家族だから、いいんです」
私の声は場違いなくらい明るい。
「ちゃんと占います。ラウロス様の未来を」
それで、ラウロス様はここへは来なくなるだろう。
「だから、二人とも帰ってください」
強引に追い出すと、店を閉めて裏口にまわる。夏の風は湿っていた。
「ハキーカの時はあたしが占ったんだよ」
おばあちゃんは本物の占い師だった。何が起こっているのかもお見通しなのかも。
「あんたの母親も腕はいいのに、気が弱かったからね」
私の手を軽く叩く。おばあちゃんの皺の増えた手はかさついていたけど、温かい。
「かわいいハディージャ。このおばばが代わりに占ってやろうか」
昔、聞いた。未来を見るためには、魂を支払うって。私はおばあちゃんが大事だ。
「上手くいかなかったら、がっかりするわ」
おばあちゃんは誰が?とは聞かない。
「信じなさい。あんたはセフィドの娘だよ」
体が熱かった。なんだか泣きそうな気分になる。
「ラジゼアの魂もお前を励ましてくれるさ」
そうか。私には、私だけの贈り物はないと思っていた。
「あとでタワッジュフに手紙を取りに来てもらって」
おばあちゃんは、にっこり笑った。
石と水を用意する。身を清めて夜を待つ。
板張りの床に座るとひんやりする。右手をかざして、ラウロス様の顔を思い浮かべる。
「どうか、うまく見えますように」
どのくらいたったか。視界が赤くなる。
肌を刺す寒気。自然と体が硬くなる。不快に耐えるしかなかった。
覚えていた。真っ暗な中で、何も聞こえない。寒い。息苦しい。このまま元の世界に戻れないの?
視界が開けて、明るい所へ出る。窓の外はひらひらと白いものが舞っている。きっと雪だ。今まで聞いた事しかなかった。
目の前に女の人がいるのは分かるが、見ても顔を覚えることができない。
水の中の魚のように影しか見えない。何か手がかりになるような物。
部屋の内装は、壁紙、家具。お金がかかっているのは分かる。
右隣には人がいて、左側に女の人。私は二人の間にいる。
女の人の手を取り微笑むラウロス様は、私の知っている痩せた彼ではなかった。女の人の指には紫の宝石が輝いていた。
どこかで見た。思い出せない。もう少し見なくちゃ。体はさっきよりも冷えて、手足には力も入らない。まるで脱け殻のよう。
急に床の茶色の板が目に入る。
手紙を書こうとするけど、立つこともできそうにない。
はって机の下まで行くと、なんとかひじと膝で体を支え手を伸ばし紙と炭を落とす。
「紫の指輪をもって求婚すること」
たった一言書くのに、何度も横になってしまう。
「ハディージャ?」
声がする。仕方がないので、寝たまま入ってくるよう声をかける。タワッジュフだった。
「助けを呼んでくるよ」
「いらない。早くこれを」
「でも」
「滅多に占ったりしない。無駄にしないで」
タワッジュフは手紙を持って外に出る。
「しばらく店を休むしかないね」
おばあちゃんの声がしても、何も言えずに目を閉じた。
どのくらい寝てたのかしら。
普通病人や倒れた人がいる家では、静かにするものでしょう。でも、占い師の女たちは気にしない。大声で笑って騒いでいる。でも人のことは言えない。私も、きっとお酒を飲んで話し続けるに違いないから。
「目が覚めたかい。三日も寝たままだったんだよ」
ラウロス様は上手くいっただろうか。結婚すれば、占いで見た女性とうまくいくだろう。私が知ることはない。
「それにしても、あんたって馬鹿よね。自分の恋敵に手を貸すような真似しないでしょ」
「恋敵って何のこと?」
周りではお酒を飲んで騒いでいるふりをして、聞き耳を立てている。
「ばれてるわよ。人の依頼に口出さないで」
「ハディージャ起きてるか」
サラフが戸口に立つ。
「男のあんたは帰りなさい。女の家よ」
みんな遠慮がない。私はいつもの黒い薄布をしていなかったから。まるで自分の家のように過ごしている。椅子だけでなく、床に座っているもいた。
「幼なじみの見舞いに来てるのに、追い返すなんてあんまりだろう」
「ほんとにお見舞いならいいけどね」
冷やかされようと、態度は変わらない。今、何時よ。なんだか肌寒い。ラウロス様はうまくいったの。
「お邪魔します」
忘れることのないラウロス様の声だ。いつもよりはっきりとした言い方で、懐かしい。
「よう、久しぶりだな」
サラフが声をかける。
「この間会ったでしょう」
律儀な人だ。ただの占い師とお客さんなのにここまでしてくれるなんて。何とか起き上がる。
「お見舞いなんて必要ありません」
求婚が上手くいったかなんて、聞く勇気がなかった。
「今日はあなたにお話しがあってきました」
まさか、外れていてそれで苦情を言いに来たのかも。
「申し訳ありません。占いが外れたんですね」
「外れているかはまだ分かりません」
これから彼女のところへ行くのだろう。
ラウロス様が急にひざまずく。ねえさんたちが、身を乗り出してくる。
「私と結婚してください」
そう言って、青い宝石の嵌った指輪を差し出す。彼女がこの中にいるの?
見渡しても、占い師の格好をした女しかいない。
そもそも、紫色の石の指輪と言ったのに、持っているのは青い宝石だった。
「予行練習は必要ないだろう」
兄妹のように育ったサラフの目は笑っていない。
「本気で申し込んでいます。指輪は好きな色がいいと思って、青にしました。ハディージャが好きな色なので」
「青が好きな色?」
「ええ、いつも青い服を着ているので、お好きなんでしょう」
青が好きですって。
「これは縁起がいいからこの色にしているのよ。占い師らしくするため」
周囲も青や緑が多い。みるみる顔色が悪くなっていく。以前のように倒れるかも。
「結婚なんてするかよ」
勝手に代弁するサラフは不機嫌そうだった。
「どうするの?結婚するの?」
周りは嬉々として聞いてくる。
「私は本気です。あなたに初めて出会った時から、ずっと考えていました」
「お前はラジゼアの貴族だ。俺達は違う」
「それはサラフの考えだ」
「幸せにできると思ってるのか」
吐き捨てるような言葉だった。
未来のことは分からない。おとぎ話のようにめでたしめでたしで終わったりしない。父と母は互いの道を歩むことしかできなかった。
「それを決めるのは、私ではありません。ハディージャ自身です」
真っ直ぐ見つめる瞳は、紫色が濃く見えた。以前よりさらに美しい。
私はラウロス様の手をとりたい。
「かわいいハディージャ。これを使いなさい」
おばあちゃんが私の手をとる。見なくても分かる。母の形見の指輪。なんで忘れてたんだろう。
ラウロス様がそっと歩み寄る。私の手をとって指輪を受け取った。
柔らかな手が、私の指に指輪をはめた。それはぴったりと納まる。
ろうそくの光が宝石を照らした。
紫の宝石が優しく輝いた。
占い師の娘 登崎萩子 @hagino2791
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます