早起きは三文の徳
夢を見た。
暗闇の中に自分が立っていて、その周りを"目"が囲んでいる。
目は、恐怖や侮蔑を孕んだ色をして、時々醜く歪み、捩れて、自分の事を嘲けているかのようだ。
その目の他には、口がある。
口は頻りに、何かを囁いている。
ウィングリュック。
赤い目をした悪魔の子供。
不幸を呼び災いを招く子。
その声は、その目は、どう足掻こうと"あたし"を拒絶する。
周りの人は皆、心の中では思ってる。
気味の悪い子だと。
仕方無く、この子の世話を焼いているのだと。 ウィングリュック。 不吉な子。 あんたなんか。
あんたなんか生まれて来なければ─────
早起きは三文の───
「嫌だ…………………っ!」
夢を、みたのだ。
暴れだした鼓動と呼吸を落ち着かせようと、アストロは己を抱く様に腕を回した。
いつの間にか上半身を起こした状態のまま、彼女は動かし難い首を動かして、傍に設置されている窓の外を眺めた。
空は明るみ始めたばかりのようで、未だ薄暗い青に染まっている。 早く起き過ぎたかもしれない。
そう思案した後に、アストロは漸く隣のベッドへと視線を移した。
布団にくるまる銀髪の女性は、小さな寝息を立てて眠ったままだ。
どうやら起こさないで済んだらしい。
「……………………」
アストロはぼんやりと、彼女の寝顔を眺めたまま、汗だか涙だか判らない、頬に伝う雫を手の甲で拭った。
再び眠る気にはならない。
アストロは音を立てないようにベッドから降りると、軽く身なりを整え、髪を手で透き、部屋を出る為扉のある方へ移動した。
気を紛らわしたかった。
静かに扉を開き、身体を滑らして広い廊下へと出る。
扉を閉めると、彼女は何処かへ行く宛も無く、ふらふらと廊下に沿うように歩き出した。
*
朝から"二度目の損"をするとは、本当についていない一日になりそうだ。
「やあ、おはよう、アストロくん。やけに早起きだね?」
建物の中をふらついていると、長身の青年と鉢合わせをした。 少し長めの黒髪を、いつものようにひとつに束ね、いつもと変わらないバーテン服に身を包んだ長身のその男は、切れ長の深緑の瞳を細め、小さく笑みを浮かべる。
起きたてなのか、その笑顔はいつもの余裕が減少していて、少しだけ暗く見えた。
「……何よ。あんたいつもこんな時間に起きるの」
「まあ、そういう事になるかな」
嘘臭い。
でもこの、ユナカイトという青年はいつもこんな調子だ。
アストロは彼に出会った事やその雰囲気諸々に、僅かに嫌そうな顔をしてみせる。
彼から仄かに石鹸の香りがする。 男の癖に。
八つ当たりの様に思うと同時に、少しだけ悔しい。
ユナカイトは早速つんけんする彼女に少し肩を竦めるが、構う事なく口を開いた。
「アストロくん、髪を下ろしているといつもより大人っぽいじゃないか。いつものツインテールも良いけど、ね?」
「ふざけた事言わないで…………」
いつものように怒鳴りたかったが、声が上手く出せなかった。
更に悔しくなって、自暴自棄になる。
アストロは苛立ちを隠さずに乱暴に歩き出して、ユナカイトの隣を通り越した。
彼は引き留ようとはしなかった。
たった一言、言葉を紡いだだけだった。
「……悪い夢でも見たのかな?」
思わずはっとしてしまい、アストロは彼の方へ振り返る。
ユナカイトは、いつもの笑顔を浮かべずに、つまらなそうな表情で彼女を眺めていた。
その様子にアストロは一度肩を震えさせ、掠れた声で問う。
「……………何で」
「僕、人の顔色を伺うのは得意なんだ」
ユナカイトは先程の表情を引っ込めると、直ぐに人の良さそうな顔で、にっこりと微笑んだ。
「悪い夢をみたらさ、好きな人の事を思い浮かべると良いんじゃないかい?」
「……………………」
アストロは黙り込んで、反射的に"彼"の顔を思い出してしまった。
"あの宿"で自分を待っている人、自分がとても、好きな────
「────って、バカッッ!」
楽しそうなユナカイトの表情で我に返り、アストロは真っ赤にした顔で彼に近づき、胸元を撲りつけた。
彼は気にする無く、愉快そうにくすくすと笑っている。
アストロは暫くユナカイトを撲り続けていたが、気が済んだように手を止め、未だに赤い顔で小さく毒づいた。
「あんたって、本当むかつく」
「はは、良く言われるよ」
「自覚してるなら、とっとと寝て、仕事しなさいよ」
「……………ん?」
ユナカイトの顔が、微かにひきつる。
アストロは彼から顔を逸らしたまま、口を尖らして言った。
「何をしてたかなんて知りたくも無いけど、どうせ今まで寝てないんでしょ」
すると彼女の頭上から、小さく笑う声が鳴る。
「ばれちゃった?」
「あたし、人の顔色を伺うのは得意なの」
「それは参ったね。僕は人を騙すのが生き甲斐みたいなものなのに」
口の減らないユナカイトに、アストロは鼻を鳴らして歩き出した。
もう話は終わりだと、彼の横を通過する。
「…………アストロくん」
再びユナカイトは、彼女を呼び止めた。
往生際が悪いと、うんざりした表情でアストロは振り返る。
「……………何よ、まだ何か用?」
「ひとつ、良い場所を教えてあげるよ」
「………………」
「何、怪しむ必要は無い。これはただの、嘘を吐いたお詫びだよ」
ユナカイトは静かに、人差し指を口元にあてて微笑む。
そして小さく囁いた。
まるで内緒話をするかのように。
「今の時間でしか会えない、取って置きの場所だよ」
*
「…………………そうだと思っていた訳じゃない、けど」
"都市の建物や人が見透し良く見える"と教えて貰い、やって来た異端の枷本部の屋上で見えた風景は、朝靄に隠れ殆ど何も見えない、都市の風景だった。
ユナカイトという男は嘘を吐く。
その本質は、どんな時でも代わる事は無いようだ。
アストロは疲れたように溜め息を吐いて、その風景をぼんやりと眺めた。
空は少しだけ、赤みを増して朝を告げようとしている。
靄は何処までも広がり、建物の半分以上を覆っている。
この靄がかった風景も。
赤み始めた朝焼けも。
良く良く考えれば、幻想的でとても綺麗な風景ではないだろうか。
アストロは、先程まで感じていたじくじくとした痛みが和らいでいくのを、何となくだが感じる事が出来た。
何に怯えていて、何に恐れていたか、その事を忘れられる位は出来る様になっていた。
悪い夢をみたら、何をしろだとか。
とても良い景色が、此処で見られるだとか。
「……何だかんだで、嘘じゃないんじゃない?」
たまには、あの青年に騙されるのも良いのかもしれないかとすら思う。
本当に、本当にたまにだが。
「よしっ」
彼女は両の頬を叩いて身を引き締めると、屋上から走り去って行く。
一度だけ振り向いて、この景色を目に焼き付けて。
少女は、いつもと何ら変わりの無い一日を始める。
いつもの挨拶、いつもの朝食の準備、いつもの人達で。
次は、寝坊した彼等を叩き起こしに行こう。
少女はいつもの様に、勝ち気に歩く。
少しだけ、浮き足を立たせて。
早起きは三文の……徳?
「残りはあんただけよ、アノニマスっ!」
「…………随分と、兄貴に絆されたようじゃないか、ウィングリュック」
「な……っ!? 何莫迦な事言ってんのよ、覗き魔!」
「人聞きの悪い。覗いたのではなくて聞こえたむぐっ」
「言い訳なんて聞きたくないー!」
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