君のこと
「あら、アリエッタちゃん、アクアちゃん」
「……ん?」
「どうしたのかしら、ノビルニオ?」
「アノニマスちゃんが風邪を引いたんだって?」
「あ、うん。今から水とタオルを持って来ようとしてたとこ」
「熱はあるけど咳も無いし、今はそれなりに調子は良いみたいよ。私はヴァンパが作ってくれた粥を持って行く所」
「あらあ、随分と手際が良いじゃなあい?」
「……まあ、うん、異端の枷に来てから五度目の風邪だからね」
「そうねえ、もう五度目なのよねえ……」
-君のこと-
「そんなものは要らない」
ぴしゃりと放たれた掠れた声に、アクアのこめかみがピキリと音を立てた気がした。
その後暫く停止していた薄青長髪の女性は、現在病人が寝ているベッドの横に設置してある机に、両手で持っていた鍋を壊れるのではないかと思う程の力で叩き付けた。
けたましい音に、氷水に浸けたタオルを絞っていたアリエッタは思わず、アクアを見て驚いて肩を跳ねさせる。
此処は異端の枷本部の、アリエッタ達男性陣に設けられた三つのベッドが並んだ個室だった。
そのベッドのひとつに、小麦色の髪をした、先程の科白を吐き出した少年が横になっている。
いつもは白い肌は熱の為に赤くなり、目を開けているのも面倒なのか、半眼で眠そうだ。
アノニマスは怒りともつかないオーラを放つアクアを気にする様子もなく、不貞腐れたように毛布にくるまって寝る体勢をとった。
ノビルニオとアストロは先程まで居たのだが、水や薬を取りに出掛けてしまっている。
ヴァンパは粥を作った後に直ぐ仕事の関係で外出したと聞いた。
彼女達に帰って来て欲しいと心底思いながら、異様な空気を感じ、はらはらとアクアの様子を伺っていたアリエッタだが、彼女は沈黙したまま、鍋の蓋を開け木製のスプーンを手にした。
鍋の中身は、少量の野菜を混ぜ合わせた出来立ての粥だった。
アノニマスの為に味など無味に近い筈だが、心なしか良い匂いがする。
何をするのかと思った瞬間、アクアは文字通りあっという間に動き出した。
まずベッドに肩膝を乗せると、アノニマスがくるまる毛布を上半身の位置まで剥ぎ取った。
アリエッタがぎょっとしている間に、彼女は更に片手でアノニマスをあらよと仰向けにひっくり返し、彼の顎を掴むと、いつの間にか粥を掬った木のスプーンを付き出した。
「良いから食べなさい」
まるで脅迫の様なドスの利いた声でアクアは凄む。
アノニマスはいつもより弱々しい、悪意の篭った笑みを浮かべると、彼女の手から逃れる為に首を弱く振った。
しかし力の強いアクアの手からは、簡単に逃れられない。
「食、べ、な、さ、い」
再びアクアが凄むと、アノニマスはその赤らんだ顔から表情を無くした。
「お姫様、だから要らないと言っただろう。食欲なんて無い。それに、俺は猫舌だと以前伝えた気がするんだが」
その声は普段の澄んだ声では無く、僅かに掠れ苦しそうだ。
アクアを眺める温度の無い漆黒の瞳も、熱で潤んでいる。
しかしアクアは構わない。
「そんな事どうでも良いわ。良いから食べなさい。ヴァンパが毎度粥を作ってもひとつも手付かずだと私の気分が心底悪くなるわ。しかも貴方、最近何か食べたの? そんな様ではこの風邪が治っても、再び身体を壊すだけじゃない」
「ちょ、ちょっとアクア流石にストッぷぎゃッッ!!??」
アリエッタはアクアを後ろから抑え込もうとしたが、邪魔をするなとばかりに蹴りを食らう羽目になった。
緑毛の少年はヒットした腹部を抑え悶えながら、これは理不尽だと涙ぐむ。
アクアは暫くアノニマスを睨み付けていたが、漸くアノニマスから手を話し、身体を元の位置に戻るとスプーンを鍋の中に突っ込んだ。
苦しさから解放されたアノニマスが、顔を歪めて小さく咳き込む。
その様子にアクアが冷たい視線を送り、僅かに嘲笑した。
「神さまが、良い様じゃない」
「…………言いたい事が割りと沢山あるが、三つだけ言う事にするよ。俺は神では無い。それと食事を作れと言った覚えは無い。後、君達の善意に付き合うのは疲れた。寝ていれば風邪など治るから適当に出ていきたまえ」
アノニマスは早口に言い立てると、何か言い返したそうなアクアを黙殺し、毛布を被り直し彼女達に背中を向け、丸くなった。
腹部の鈍痛から解放されたアリエッタは、起き上がるとアノニマスの様子を心配そうに眺めた。
呼吸は浅く早く、顔は先程よりも赤くなっている。
無理に身体を動かし、喋らせた所為だろうか。 少しの罪悪感を感じたアリエッタは、氷水で冷えたタオルを彼の額にそっと乗せる。
彼からは何の反応も無い。
「アノニマス……?」
「気にする事は無いわ、アリエッタ。もう行きましょう」
心配するアリエッタを余所に、アクアはつれない事を言って、本当に部屋から出ようとする。
アクアがアノニマスを嫌っているというのは何となく感じていたが、此処までだとは思っていなかった。
そんな事をアリエッタが考えていると、突然扉の方からノック音が聞こえ、扉が開かれた。
「はあい。アノニマスちゃんの様子はどう?」
其処には銀髪の女性、ツインテールの少女、そして赤毛長髪の青年が立っていた。
「ノビルニオ、アストロ」
「ヴァンパも戻って来たのね」
アリエッタとアクアが応えると、三人は部屋の中へ入って来る。
部屋はそこそこ広い筈だが、五人も部屋の中に入ると流石に狭いと感じる。
「アノニマス、寝たの?」
「いいえ、起きてると思うけれど……」
ツインテールの少女、アストロの質問にアクアが応えると、そう、と言ってアストロは頬を赤くした。
「また風邪引くなんて本当にバカニマスね! 水持って来てやったんだからちゃんと定期的に飲みなさいよっ!」
「ついでにお薬も探してきたわよー。普通の薬は飲まないって聞いたから、漢方を調べて買ってきたの。お粥食べて、出来たら飲んでね」
毒の様な事を吐くアストロに、甘い声でノビルニオが続けた。
するとアノニマスは薄く目を開き、誰にも聞こえないような声で何かを呟いたようだった。
何を言ったのかと近づくアストロとアリエッタを諌め、アクアはヴァンパに視線を移した。
「ヴァンパも此処に用事かしら?」
「……それもあるが、アクア達に伝えたい事があってな」
「伝えたい事?」
「ベネノがオレ達に収集を掛けた。準備が出来次第、第肆会議室に集合だそうだ」 「えー、仕事ー?」
「まあ、文句も言ってられないわね」
「でもさ、アノニマスの看病にひとり残った方が良くない?」
「ふふふ、その必要はないよ?」
「うわ、出た変態魔人」
アリエッタ達の会話を聞き流しながら、アノニマスの意識は混濁としていた。
一瞬意識を完全に失うと思う直後、直ぐ浮上するような、気味の悪い感覚に、ある意味の心地よさと吐き気を催させる。
それに頭痛と熱が合間って、思考回路が正常に働かないのは、彼にとって救いだった。
どの位経ったのか、時間感覚も無くなっていく中、騒がしい会話が消えている事に気付き、彼は寝返りを打って瞳をうっすらと開いた。
同時に、首に冷たい何かが当たる。
「うわ、随分と熱いじゃないか」
「アノニマス様の場合、同じ空間に17年間住まわれていた事が原因かと思われますわ、マスター。外の世界の空気や菌類に耐性が無いのかと」
「うわあ、それは大変だあ」
目を凝らすと、白いバーテン服と見知った顔が把握出来た。
義理の兄と、いつも彼の傍にいる双子の"子供達"。
首に当たる冷たいものは、義兄の手の甲のようだった。
それは首から顎へ伝い、頬を撫で、額に触れる。
擽ったさに身を捩ると、兄は目を眇め、何故か喜んだようだった。
「ああ、弱ったアノも凄く良い」
「マスター、自重、ですわ」
義兄はくすくすと笑いながら額のタオルを丁寧におき直すと、近くの机に置いてある粥を見て、漢方へ目を移すと、その袋を摘まみ上げ、自分の胸ポケットへ仕舞った。
「……アノも、随分と色んな人に"愛される"ようになったね。兄さん少し妬いちゃうよ」
「あいされ、る…………」
アノニマスは熱に浮かされ、弱々しく復唱した。
その漆黒の瞳は、何も見ていない。 何も映していない。
彼は首に掛けた鈍色の十字架に触れると、夢に魘されているように呻いた。
「おれを、あいして、くれるひとは……ひとりしか、いな、い…………」
そう呟いて、アノニマスは沈黙した。
ユナカイトが容態を看るが、直ぐにただ眠っただけだと判る。
彼は暫く義弟の事を見つめていたが、隣の粥に目を止めると、中に突っ込んだままのスプーンを取り、適当に掬って口に含んだ。
「……うん、美味しいや」
そう言うとスプーンを戻し、アノニマスを再び見つめると、彼のその手を取り、自らの額に、優しく押し付けた。
「…………僕がそのひとりになれたらいいのに」
そう、小さく小さく呟いて、彼もそっと沈黙した。
-ずっと見ていました-
(ねえ、このスプーンでアノがお粥食べたら、完全に間接キスだよね?)
(流石マスター。さりげない変態発言ですわ)
(お褒めの言葉ありがとう)
(しかし、マスター以外にすでに口にしていたお方がいないとは言い切れないですわよね……)
(え? ねえサキ夢を壊すような事をいうの止めて)
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