第22話 デート開始
朱那がしきりに俺の匂いを嗅いでいる。
くんくん、すんすん、と俺の首回りやら胸元やらを嗅ぎ回っている。
出会って早々こんなことをされるのに戸惑うし、気恥ずかしくもある。
「あのー……朱那さん? 何か?」
「……何か、悠飛が挙動不審だったから、浮気でもしてきたのかと思って」
「挙動不審って……。普通じゃなかったか?」
「普通なのが怪しい。付き合い始めて二週間近く経つとはいえ、これが初めてのデートなんだから、本来ならもっとそわそわしてるはず。それなのに、顔を合わせたときからいつもと同じ雰囲気だった。何かしらの理由があって、平静を取り繕ってるに違いないと直感したの」
くんくん、くんくん。
ついには、先ほどまで日向と手を繋いでいた左手の匂いを確認し始める。
次に右手も確認して、また左手の匂いをチェック。
「左手から女の子の匂いがする」
「マジで!?」
「嘘だと思うなら嗅いでみなさい。左手、手首あたり。香水っぽい匂いがする」
朱那がずずいっと俺の手を鼻先に持ってくるので、仕方なく嗅いでみる。
……マジだった。ほんの少しだけど、香水っぽい匂いがする。日向め、しょうもないトラップを仕掛けやがって……。
「これはどういうことなのかな?」
至近距離で睨んでくる。怒っているような、怪訝そうにしているような。
「あー……さっき、というか、家の前で日向さんに会ってね」
「……日向? なんで?」
「ここに来る途中、話をした。俺たちの活動について、こんな風にすればいいんじゃないのか、とか」
「それと、この匂いの関係は?」
「……何故か、日向さんが手を繋いできた。どうしても離してほしくなかったみたいだから、そのまま……」
「……どういうつもりかしら? そんなことする理由なんてもちろんそういうことだろうけど……。これは宣戦布告なの……?」
朱那の目が鋭く光る。敵を前にした虎のような迫力である。
「お、落ち着け……。なんだかんだ、手を振り払えなかった俺が悪いわけで、日向さんはちょっとした悪戯心で手を繋いだ程度の話……」
「なんで日向さんを庇うのかな? そんなにあの泥棒猫が大事なのかな?」
おっと、日向を守るつもりが、逆効果になってしまったか? 難しいぞ、男女の機微。もっとシンプルであってくれ。
「朱那」
「なぁに?」
「……なんでもない」
「あ……」
言葉で何を言うべきかわからないので、少し強引に朱那をぎゅっと抱きしめる。
朱那から抱きつかれることは多々あるけれど、俺から抱きつくのはこれが初めて……か? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし。
朱那は抵抗することなく、俺の腕の中で大人しくなる。温かさと、柔らかさと、少し甘い香り。シャンプーのような香りだけど、これはそれに近い香りのする香水だと言っていた。
とても心地良くて、このままずっと抱きしめていたい気分になる。今いるのが公共の道路でなければ、三十分くらいはこうしていたい。
「朱那、今日は特に可愛い」
朱那が着ているのは、グレンチェックの、グレーを基調としたワンピース。上品で清楚な印象があり、朱那のお転婆とも言える性格とは多少の乖離がある。俺の好みに合わせてくれたのかもしれない。ただ、その微妙なギャップが魅力とも思う。
要するに、朱那は何を着ても可愛い。これは仕方ない。
学校ではミディアムの黒髪をそのまま垂らすか軽く結ぶかだけれど、今日はハーフアップにしている。デートのために少し気合いを入れているのだろう。わざわざそんなことをしてくれるのが嬉しい。
「……うん」
機嫌を損ねてた朱那が、しおらしく頷く。朱那も俺をきゅっと抱きしめてくる。ふにゅん、と柔らかいものが当たるのは、今は忘れよう。
三十分そのまま、とはいかないけれど、五分くらいはそのまま抱きしめ続けた。
まだ朝が早いおかげか、すれ違ったのは数名程度。それだけでもだいぶ気恥ずかしかったのは、これも忘れよう。
そろそろいいかな、と力を抜いたところで、朱那が目を閉じて顔を上向かせる。
これ、キスしろってことなのかな?
いやいや、ここ、公共の場なのだがね? 今は人がいないけれど、いつ誰が通るかもわからないぞ? ついでに言うと、まだ朱那の家の前だぞ? こそっと見られてないか?
そもそも、俺たちって正式に付き合おうってなってないよな? 流されるまま何度かキスもしてるけどもさ。いや、この件に関しては、事実上付き合っているとみなしても差し支えない? ああもうよくわからん。
悩んだのは、数秒。
その場の雰囲気に流されて……というのは不本意だったが、流されずにどう振る舞えばいいのかもわからなくて、そのままキスをした。
一瞬だけ唇を触れ合わせる軽めのキスだ。
軽めのキスなのだけれど、相変わらず羞恥心で顔が熱くなる。これ、慣れる日とか来るのかね? 朱那も、ほんのり頬を染めている。
「もう終わりなの?」
朱那が目を開き、非難がましく睨んでくる。
「……終わりだ。ほら、もう行こう」
朱那の手を取り、駅に向かって歩き出す。朱那の手のひらを覆うように手を握っていたのだけれど、朱那が指を絡めて握り直してくる。
「バーカ」
「俺はバカだよ」
「開き直るところがもっとバカ」
「ほっとけ」
「ふん。これで誤魔化せたと思ってるでしょうけど、女の恨みはいつまでも続くんだからね!」
「……怖い話だ」
「ふん。まずは今日のデート、たっぷり楽しませてもらうから」
「過剰な期待はご遠慮いただきたいところ」
「情けないなぁ。黙って俺についてこい! って言えないの?」
「俺にそういうのは期待するな。そんな
「……本当に、わたしが他の人のところに行ってもいいわけ?」
朱那が少し不機嫌そうにぼやく。
ここで、朱那がいなくなる状況を想像して。
「……朱那がいなくなるのは、嫌だなぁ」
この短期間で、朱那は俺の中でとても大きな存在になっている。ときにはちゃめちゃだとしても、朱那がいなくなればきっと寂しくなる。それどころか、胸が潰れるような気持ちにすらなるかもしれない。
俺、ちょろすぎか?
「……わたしも、悠飛以外とか、やだ」
「そ、そうか」
気恥ずかしい。そっぽ向いていた猫が急にデレてきた感。
「で、も! 悠飛がそんなに余裕ぶっこいていられるのは、わたしが悠飛を大好きだからだってこと忘れないでよね! 悠飛はわたしのことそんなに大事じゃないみたいな態度取ってるけど、本当はいなくなったら嫌だってことくらいお見通し! つまり、悠飛の余裕は、全面的にわたしのおかげで、悠飛は既にわたしの手のひらの上ってこと!」
「お、おう……。そう、だよなぁ」
「わたしは恋の駆け引きとか面倒臭いからやらないけど、調子に乗ってわたしを蔑ろにするなら、もう遠慮なんてしないでわたしなしじゃ生きられない体にしてやるんだから!」
「一体何をされるのやら……」
朱那はまだ本気ではないらしい。これ以上、何をするつもりだというのか。想像はつくけど、想像してはいけない気がする。
「もういいや。せっかくのデートなのに、いつまでもぐだぐだ言ってたらつまんない。早くホテル行こ」
「待て。最初の行き先は映画館だろ」
「似たようなもんでしょ」
「全然違う!」
「わたしは、ホテルで映画を観るというつもりで、映画を観に行こうって提案したのに」
「そんな提案があるか! 普通に映画館行くぞ!」
「ホテルはデートの終盤に取っておくってことね?」
「取っておかない! そういうのはしないから!」
「本当はしたいくせに」
「それはそうだけど! それはまた別の話!」
話していたら、初っぱなからキスした気恥ずかしさも、初デートの緊張感も吹き飛んでしまった。
こういう気安さは、とてもありがたいことだ。
「あ、そうだ、一つ言い忘れてた」
朱那が何かを思い出したらしい。
「なんだ?」
「好きだよ、悠飛。ちゃんと伝えるの、忘れるところだった」
「……なんだよ、もう」
えへへ、と照れ笑いする朱那を見ていると、もう人生全部を朱那にあげてもいいかな、くらいには思った。
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