第8話 バーカ

 抱き合っていたら、母親が帰ってきてしまった。気づけば、時刻はもう午後七時近い。

 朱那には急ぎ服を着てもらったのはいいのだが……。


「初めまして! 悠飛ゆうひ君とお付き合いさせてもらっている、華月朱那かづきしゅなです!」


 朱那が、俺の母親に向かって堂々と交際宣言しやがった。

 とっさに否定しようにも、母親はすっかり舞い上がって嬉しそうに笑うものだから、そういうことにする他なかった。朱那の勝ち誇った顔が、少しだけ憎らしい。

 母親は一緒に夕食でもと勧めて来たが、朱那は家で食事が準備されているからと固辞。いずれまた一緒に食事をと約束し、連絡先も交換して、帰宅。

 当然のごとく俺は付き添いをすることになって、一緒に夜道を歩く。朱那の家は割と近くて、徒歩で二十分、自転車でも使えば十分程の距離だった。


「堂々と交際宣言しやがって……」

「それが一番手っ取り早いじゃん? 男女二人きりで遊んでました、でもただの友達です、なんて通用すると思う?」

「無理だろうな」

「なら、もう恋人でいいでしょ? わたしは悠飛が好きだし、悠飛だってあと何秒後かにはわたしのことを好きになるし」

「なんで秒で数えようとするんだ。せめて月にしろよ。俺はちょろインか」

「ってか、ぶっちゃけもう落ちてるでしょ。本当に、わたしと付き合わないつもりがあるのかな?」


 憎らしい微笑みを浮かべている。思わずころっと好きになりそうだ。


「……まだわからないさ」

「そうかなー? 世界一の美少女であるわたしと付き合わないなんて、童貞男子の悠飛にできる?」

「……できなくはないかもしれないと思わないでもない」

「お、誤魔化した。美術系のくせに、憎らしい言い方するじゃないの。ってか、わたしを振ることに何かメリットある? もしかしたら、あと何秒後かにわたしよりも格段に素敵な女の子が現れて、悠飛に告白してくれるかもしれないとか期待してるの? それは無理だよ?」

「また秒単位かよ……。それは無理だろ」

「じゃ、わたしと付き合うしかないね」

「極端……」


 並んで歩きながら、朱那が俺と手を繋いでくる。いわゆる恋人繋ぎ。拒むことはできなくて、その体温と柔らかさを味わう。


「振りほどかないってことは、わたしの気持ちを受け入れたってことだよね?」

「……もう少し時間をくれよ。心の整理には時間が必要なんだ」

「仕方ないなぁ。べろちゅーしてくれたら、一週間だけ猶予をあげる」

「結構ハードなこと要求して、猶予が一週間だけかよ」

「それだけ待ちきれないってことだよ。わかってよ、バーカ」


 熱烈すぎる好意の表明に、戸惑う気持ちが強い。

 俺はだいたい一人で絵を描いているだけの凡人で、朱那は光をまとうような美少女。

 朱那が俺に好意を抱く理由もある程度は把握しているつもり。だけど、やはりどこかすんなりと気持ちを受け入れようとは思えない。

 そこに、大きな理由はないのかもしれない。ただ……。


「……俺には、誰かの恋人になるだけの心構えがないんだ。たぶん、そういうこと」

「最高の彼氏であれ、なんて言うつもりはないよ。彼氏なんだからこうしろああしろって言うつもりもない。ただ、友達よりも深い関係を築きたいし、友達じゃできないこともたくさんしたい。それくらいの話だよ」

「……とにかく、少し時間をくれ」

「はーい。彼女として、優柔不断な彼氏のペースに合わせるのも大事なことだもんね」

「一週間くらい考える時間をもらっても、優柔不断と言われるほどではないと思う」

「答えはどうせ決まってるのに、何を悩んでいるんだか」

「朱那は、本当に自信満々だよなぁ」

「恋する乙女は無敵なんだよ」

「俺に会う以前も無敵だったろ」

「そんなことないよ。……そんなこと、ないんだよ」


 妙に感情の籠もった声。

 不意に泣いてしまったところを見るに、不安に思っていたことも、たくさんあるのは確か。

 おしゃべりしながら歩くと、二十分はあっという間。

 朱那もマンション暮らしで、四階建ての二階に部屋があるそうだ。


「あ、連絡先交換してなかったね。スマホ出して」

「ああ、うん」


 これも拒む理由がないので、連絡先を交換。


「あの絵も送ってね。それと、寝る前には寝落ちするまで通話。毎日」

「毎日……」

「本当なら同棲したいところ。別に、通話を拒否したかったらスマホの電源切っておけばいいよ。できるもんならやってみて?」

「……意地の悪い」

「悠飛が、強引に来られると弱い奴だってことくらい、とっくにお見通しなんだから」

「……はいはい」

「それじゃ、また明日、学校でね」


 朱那が俺の方を向き、目を閉じて顔を少し上向ける。

 どう考えても、キスを待っているとしか思えない。


「ん」

「……ここでかよ」


 周りをきょろきょろと見回してしまう。少し遅い時間だし、大通りから逸れているから、人通りはない。

 しかし、公共の場でキスって……。いや、それ以前に、キスする関係じゃない……。

 俺が固まっていると、痺れを切らした朱那が片目を開ける。

 その手を伸ばし、俺の頬を掴んでぐっと引き寄せる。


「悠飛は、黙ってわたしにキスしてればいいの」


 朱那が軽めにキスをしてくる。最初のときよりは長めで、だけどほんの数秒程。

 俺を解放した朱那は、街灯の淡い光の中でも明確に赤面している。


「好きだよ。またね」


 朱那がマンションの中に入っていく。今のキスに動揺しているのか、急ぎ足になっている気がする。


「……『何秒後かにはどうせわたしのことを好きになる』か。あながち間違いではないかもな……」


 朱那に流されっぱなしの俺だけれど、ただ流れに身を任せるだけで朱那と恋人同士になるのは何か違うとは思ってしまう。

 急展開過ぎて、心が全く事態に追いついていない。朱那のことは、好きだ。破天荒だけど、すごく魅力的な人だと思う。恋にだって、落ちたのかもしれない。俺は生粋の童貞男子だから、ちょっと積極的に迫られただけでも、相手のことを好意的に見てしまう。

 それでも、多少冷静になって考える時間くらいは、設けてもいいよな。


「……帰ろ」


 大きく深呼吸しながら、ぽてぽてとゆっくり歩いて自宅に向かう。

 途中、早速朱那からメッセージが届いて。


『月が綺麗ですね』


 思わず、ふっ、と笑ってしまう。


『俺は月より女性のヌード派』

『そんなのどうでもいいよ、バーカ』

『月より朱那の方が綺麗だよ』


 数分メッセージが止まって、それから電話がかかってくる。

 応答してみたら。


『バーカ!』


 それだけ言われて、通話が切れた。

 それきりメッセージも届かなかったので、スマホはポケットにしまう。

 さて、俺のメッセージに朱那は一体何を考えたのか。

 っていうか、やってることが普通にカップルっぽい気もする。

 何をやってるんだかな……。

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