第17話
「毒など入っておらぬ」
なみなみと注がれたワインが、滴る血のようだった。それを美味しそうに飲み干して、ヒトの王子が笑って見せる。
「そのようだ」
ケモノの王もまた、グラスを手に取り、中身を飲み干した。どろりと甘く芳醇な香りが口に広がっていく。
「ああ、それにしても……妹よ。ああ、ああ、愛しい妹よ。なんとお前は……愚かなことよ」
ヒトの軍勢にたどり着いたケモノの王と、ヒトの姫は、誰にも留められることなく王子のもとへと通された。
攫われたこととなっている姫の存在に、誰も驚くことがなかったのは、想定の範囲内のことだった。
「なぜ兄の言う通りに動けない。ああ、ああ、分かっている分かっているとも。だからお前は愚かなのだ。お前は愚図で愚鈍で何の価値もなかった。それだけの話で、それからの話だ」
どれだけ多くのケモノの視線に晒されようとも一歩を引くことのなかった姫が、憎悪に焼かれた姫が、王子の前に居る。それだけを理由に委縮する。動けず、ただ、小さく縮こまる。
心を支配する恐怖など、麻痺してしまう。麻痺してしまった恐怖を思い出すほどに、ケモノの国は彼女にとって幸せだった。願ってもみない幸運が、彼女を不幸に陥れる。
「人間の姿が見えないようだが」
「見えない? ああ、ああ、そうか見えない。見えないのか。ああ、ああ、そうか。それはそうか。ああ、ああ、なんとも悲しい! 余は、余はこれほど悲しいと思うたことがない! 思うたことがないのだ!!」
「話が見えん」
「ここだ」
「うん?」
「余が! 余こそが! 余なのだ! 余は誰ぞ! 余こそが誰ぞ!! 余こそが人間ぞ!!」
「狂ったか」
「ああ、ああ、なんと愚かな考えよ。浅き、浅い考えぞ! ならば語ろうとも、なれば教えてやろうとも! 人間を人間たらしめるのは何か。ヒトがヒトであり、人間となりえぬ理由はどこにある! ヒトはケモノではなくなった! いつ! 誰の手によって、それは人間ぞ! 火の知恵が、ヒトをケモノから進化させた! であれば、人間はヒトが進化したその先ぞ!!」
「ヒトはいまだにケモノだ」
「そうとも、ヒトはケモノだ。ああ、ああ、だが余は人間ぞ! 余は誰ぞ! 余は人間ぞ!! 火の知恵がケモノをヒトにしたという! なれば、これが、これこそがヒトを人間たらしめる知恵!」
動けない姫の身体を抱きしめて、ケモノの王が椅子を蹴る。理由も根拠もなく、ただ勘だけを頼る行動が、彼と彼女の命を救った。
たった今、座り続けていた椅子が、目の前の机ごとふたつに斬り落とされていたから。
「これぞ余が人間たる証拠! ああ、ああ、見えるだろうか。見せるのだろうか! 見てもらわねば困るのだ! ああ、ああ、そうだ。そうだとも! これこそ!!」
「人間の剣……っ」
「雷の知恵!!」
青く光る剣は、王子の意志に従ってその刃を長くも短くも変えていく。
「喚んだ人間を、喰ったな」
「余が人間ぞ。余こそが人間ぞ。余以外に、人間など不要でしかあるまい! ああ、ああ、そうだ。そうではないか。そうだとも!!」
「姫」
腕の中の存在に、小さく固まった存在に、王は小さく語り掛ける。
ケモノでもなんでも切り裂く人間の剣を持ったヒトを相手に、荷物がありではただでさえ見えない勝機が消えてしまう。
だからこそ、王は姫に言葉を投げかける。
投げかけて。
「ふははっ」
返ってきた王子の笑いに。
「そう、か……」
「ふひ、ふひひっ」
返ってきた姫の笑いに。
己の腹に突き刺さったナイフに。
膝をついた。
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