幕間② ふたりごはん

※まだレイフがいない頃の話


「ごめんなエっちゃん。パパはしばらく帰ってこれないが、お留守番を頼んだぞ」

 ちょうど夏休みに入るころ、父はそう言って、夕刻にエディンバラまで配達へ出かけた。


 わたしの父は洗濯屋。だから洗い終えた衣服を届けるために、家を空けることは少なくなかった。わたしの母は家を出、以来、父は男手一つでわたしを育てた。


 そんな父が一ヶ月もいないとなれば、途端に心細くなる。小さい頃のわたしだったら泣いて止めていただろうが、わたしももう子どもではない。その辺のずぶとさは備わっているし、父には頑張ってもらいたい。なにより下町で泥まみれになる子どもたちと比べれば、わたしはずいぶん恵まれている。


 居間に戻ったわたしの足もとに、飼い猫のヴェレダが身体を擦りつけてきた。わたしが生まれる前から家を行き来していた彼女は、まるで我が家の女王さま。でも最近は耳も目もあまり利いていないようだ。ふとした拍子に寝転げて、いつもどこか夢うつつ。ごはんにもそんなに興味がない。


 今日もわたしはぬるま湯にくず肉(ベーコンは塩分過多だから)と小魚の破片を入れると、彼女はゆっくり食べ始める。


 もっもっ……という咀嚼音を背にノートを広げる。今日の授業の復習だ。算数やドイツ語はわりと簡単。歴史と英文学は暗記が面倒。きついのはラテン語とフランス語。なんで侵略者の言葉を学ばねばならんかと、思わないでもない。


「ただいまー」

 机で勉強していると、今度は玄関の扉が開く音がした。


 同居中の少年アカシアが帰ってきたのだ。彼はアイルランド移民二世で、ヴェレダを助けたことを縁にうちに住み着んでいる。そして今は父の工場で働いて、我が家の家業を支えてくれている。


 まだ彼の存在には慣れていないが、柔らかな訛は心地が良い。


「おじさんはもう出ていった? 二人だけで過ごす日ってのは何度もあったけど、一か月は初めてだな。あれ、つまりはおれたち、夏休みはずっと二人暮らし? あ、いて! ヴェレダ! おまえもわすれちゃいねぇって!」

 いつの間にか起きていたヴェレダが、アカシアの膝裏に猫パンチ。たまらず彼は膝を崩した。ヴェレダはとても賢い老猫。なんだってバターウィー族の巫女の名前を持っている。


 彼女はひとしきり殴って満足すると、今度はわ   たしの足元で眠り始める。


 アカシアは彼女を恐れるように一瞥すると、腹からきゅうきゅうと音がした。彼はおもむろに立ち、食糧庫へと一直線。そこを開いたはいいものの、中にはローストビーフが半分。少量のくず肉、そしてベーコン。


 あとはパンと、じゃがいもやにんじん、乾燥豆に、うなぎの骨。

 残りもののご飯はない。料理ができないアカシアは、助けてとばかりにわたしを見た。


「わかった、わかった。作ってやるぞ。腹ペコすぎて食い尽くされたら堪ったもんじゃぁないからな! いいかっ! おとうさんが返ってくるまで節約だぞ!」

 その間にベーコンをスライスし、そのだしでじゃがいもとにんじんを茹でることにした。


 要はベーコンシチューで、我が家の定番メニューだ。作り方は家庭によって多少異なるが、わたしの場合はベーコンを先に炒めて油を出し、その油で野菜を炒めてからお水を入れる。


 わたしが料理をしている間、アカシアは椅子に座ってぼんやりとしていた。


 彼の手には、わたしの父が書いたレシピ本がある。彼がうちに住み着くようになって以来、父はたまにこうして本を置いていく。


「ほれできた。熱いうちに食べよう」

「ありがとう。……えと、先に食前の祈りだな」

 不慣れなさまで、アカシアはわたしの言葉を追っていく。別に長くも難しくもない言葉の列を終えると、安心した表情かおでシチューをすくった。


「うん……うまい。やっぱりエヴァンの作るメシが一番おいしい」

「はいはい。おだてても何も出んぞ」

 わたしも自分の分を食べながら答える。しかし事実、アカシアがいかにもおいしそうに食べてくれる顔は、わたしにとって一番うれしいもの。


「だって俺、ここに来るまで肉なんて食べたことなかったもん! 味のないマッシュポテトか、生臭い魚や小エビを捕まえて食ってったけ。それで腹を壊したこともあったなぁ……。ああ、思い出すだけで胸が痛む……」

「それはまた大変な人生なことで」

 わたしが呆れて相槌を打つと、彼は大げさに顔を歪めた。


「そうなんだよぉ。大変だったんだ。毎日空腹でさ。でもエヴァンのお父さんのとこで働くようになったら、食べ物はあるし、住むところはあるし、服もくれるし……何より、君がいるし」

 アカシアはいつもこんな調子の子だ──最近までキッチンの存在すら知らなかったくせに。父とそっくりのお気楽な脳みその持ってる。でもそれが彼の魅力でもある気はする。


 スープを一口、口に運ぶ。うなぎの骨でだしを取った、シンプルなうなぎスープ。


「エヴァン?」

 わたしが黙っていると、アカシアはぐいっと覗き込んできた。


 ハリネズミのようなまんまるな灰色の目。彼はわたしよりも一つは年上なのに、どこか無垢で幼く見える。


「……大げさ。もっと普通にできないのか?」

「えー? でも好きな人に好きっていうのは普通のことだろ? それにおれ、思ったことはすぐ口に出すタイプだから」

 アカシアはそう言いつつ、うなぎスープを飲む。


「そうだエヴァン。今度一緒に釣りに行こうぜ」

「釣り?」

「そう。二人で釣りに行けば、節約にもなるし食料の確保もできるし一石二鳥だろ」

 アカシアは得意げに言うが、わたしは釣りなどしたことない。しかし、


「そう簡単に釣れないってことくらいはなんとなくわかる」

 わたしは少し声を落として言った。しかしアカシアは相変わらず自信満々である。


「大丈夫! オレはかつて雑草で釣りをしていたからな!あれはなかなかおもしろかったぞ!」

「はぁ……そうですか……」

 わたしはため息をついて、肩を落とす。


「まぁいいよ。その代わり、ちゃんと魚を釣ってきてほしい」

「任せておけ!」

アカシアはガッツポーズをする。わたしはもう一度大きなため息をついた。アカシアは無鉄砲で向こう見ずで、何事にも全力投球だった。


「よし、じゃあさっそく明日は行くぞ。お前も夏休みに入ったことだしな!準備して待ってろよ」

 アカシアはそう言うと、うなぎスープを飲み干す。わたしはそれを眺めながら、小さく笑った。


「はいはい、わかりました」

 わたしも同じようにスープを飲み干し、食器を流し台へ持っていった。アカシアが手伝いを申し出て


「これはわたしの仕事だから、あんたは休んでな」

「えー、でも悪いじゃん」

「別に。一人の方が早いし。それにあんたに手伝えることなんてないよ」

 わたしがそう答えると、アカシアは口を尖らせて不満そうな顔をする。


「ちぇっ、せっかく役に立ちたかったのに」

「気持ちだけ受け取っておく」

 わたしがそう答えて、食器洗いを再開すると、アカシアはぶつくさと文句を言いながらソファに座っていた。


「ほんとエヴァンの意地悪……」

「なんとでも言え。ほら、部屋に戻ってなよ」

「へいへい」

 アカシアはつまらなさそうな顔で、自分の部屋に戻ろうとする。わたしはそんな彼に一言だけ付け足した。


「それと、ありがと」

「ん?なんか言った?」

 アカシアは振り返るが、わたしは何も言わずに首を振った。


「なんでもない。早く寝なよ」

「わかった。また明日な」

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